7/6再開《音楽xSFxファンタジー戦記》【交響詩】竜の姫と絆のユニゾン ~最強の力は絆の中に。人類に裏切られた天才軍師の俺は六竜姫の激情を調律し和音を奏でて覇道を往く~5サイト33KPV
竜の国の南東、テラ母様の所領に近い辺境の農村へ向かう道は、この季節なら緑に溢れているはずだった。
シズクは馬の背から、街道の両側を見ていた。
おかしい。
麦の穂が、垂れていない。茎が細く、葉が黄ばんでいる。収穫期まであと1か月もないのに、畑は去年の半分も育っていなかった。所々に魔導ポンプの残骸が見えた。停止したまま錆びついている。いつから動いていないのか。
「シズク王妃様」
御者台から声がかかった。「着きました」
村の入り口に、人影が2つあった。
1つは大柄な女性。ソイルだった。テラ母様の所領を視察するという名目で、シズクより1日早くここに入っていた。もう1つは——白い祈り衣を纏った、細い娘。アルテミスだった。
「姉様、来てくださったんですね」
アルテミスの声は、いつもの神殿での穏やかさとは少し違った。疲弊していた。目の下に隈がある。いつここに来ていたのか。シズクが馬から降りると、アルテミスは深く頭を下げた。
「ご報告が遅くなりました。1週間前から魔導ポンプが止まり始めて——私の祈りでは、もう……」
「詳しく聞かせてちょうだい」
シズクはアルテミスの隣に並んで歩き出した。
村の中心にある広場に、農民たちが集まっていた。老人、女性、子供。男手の多くは別の農村へ出稼ぎに出ているのだろう。残った人々の顔に共通しているのは、疲労ではなく、不安だった。先が見えない時の顔だった。
広場の端に、止まった魔導ポンプがあった。
シズクはしゃがんで、ポンプの側面に触れた。魔力の残滓を辿る。わずかに感じ取れる——でも薄い。回路は生きている。マナの供給が足りないだけだ。
「大気中のマナ密度が、この地域だけ特に低い」とシズクは立ち上がりながら言った。「ポンプの故障ではない」
「そうなんです」とアルテミスが続けた。「祈りを捧げると、一時的に光が戻ることはあります。でも翌朝にはまた消えている。器に水を注いでも、底に穴が開いているみたいで」
底に穴。うまい表現だ、とシズクは思った。と同時に、アクア母様の言葉が蘇った。回復が止まって、また密度が下がり始めている。あの夜、噴水の前で聞いた話が、今この枯れた畑として目の前にあった。
「祈りを続けてくれているの?」
「はい。毎朝、夜明け前から……」
17歳の娘が、国を代表する聖女が、毎朝夜明け前から祈り続けている。それなのに、効果が出ないとは……。
シズクは何も言わなかった。言葉より先に、ソイルが動いた。
「アルテミス」ソイルがアルテミスの肩に大きな手を置いた。「あなたの祈りは無駄じゃない。この村の人たちが今もここにいるのは、あなたが1週間踏ん張ってくれたからよ」
アルテミスが小さく頷いた。その目が、ほんの少し緩んだ。
シズクは畑を見渡した。枯れかけた麦。止まったポンプ。不安そうな村人たち。
これが、これから自分たちが向き合わなければならない現実だ。
「ソイル姉様」とシズクは言った。「話があるわ」
村の集会所を借りた。
木の長机に、ソイルが設計図を広げた。大判の羊皮紙に、びっしりと数字と図面が書き込まれている。シズクは身を乗り出してそれを見た。
「機械式の水路!?」
「ええ」とソイルは言った。「テラ母様と一緒に研究してきた。魔力を使わない、水の流れそのものを制御する仕組みよ。高低差と水圧だけで、村全体に水を届けられる」
シズクは図面を追った。取水口の位置、傾斜角の計算、分岐路の配置。魔導の回路が1つもない。全部、物理的な構造だけで動く設計だった。
「これは——本当に魔力なしで動くの?」
「動くわ。もう小さな試作を3つ作って検証してある。テラ母様の所領の東の農村で、去年の夏から稼働しているわ」
シズクは顔を上げた。
「去年から? 知らなかった……」
「まだ実験段階だったから、広めていなかったの。でも今年の状況を見て——もう待てないと思った」
ソイルの声は穏やかだったが、その目には確信があった。争いを嫌うが、怒ると誰も手がつけられない、とよく言われる。今のソイルは怒っていないが、静かに燃えていた。
「予算はどのくらいかかるの?」
「初期投資は大きい。でも」ソイルは図面の端を指した。「ユリウスが試算してくれた。3年で元が取れる計算よ。法整備の方も、もう草案ができてる」
「ユリウスが!?」
「昨夜、書簡が来たわ。法的な枠組みはほぼ整っている、あとは王妃の決裁が必要、って」
シズクは思わず苦笑した。
自分が視察に来ることを見越して、ユリウスはすでに動いていたのだ。ソイルも同じだ。2人とも、シズクが「決断する」ために必要なものを、黙って揃えておいてくれていた。
「この設計図を、まずこの村から始めて——」
「もう村長には話してある」とソイルは言った。「着工できる体制は整っている。あとは、公式に動かす許可が要るの」
シズクは設計図に視線を落とした。
魔力に頼らない水路。機械式の灌漑。かつての竜の国には存在しなかったものだ。でも今、目の前の枯れた畑がはっきりと示している。これが必要だと。
「分かった」とシズクは言った。「正式に認可する。ソイル姉様の設計で進めて」
ソイルが小さく頷いた。それだけだった。派手な喜び方はしない。でもその目が、少しだけ温かくなった。
アルテミスが窓の外を見ていた。枯れかけた畑が見える。
「これが完成すれば」とアルテミスは静かに言った。「魔力がなくても、水が届く」
「そう」とソイルは答えた。「祈りに頼らなくていい仕組みを作る。それが今の私たちの仕事よ」
アルテミスはしばらく黙っていた。それから、小さく息をついた。安堵ではなく、何かを受け入れたような息だった。
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問題は、翌日に起きた。
王都に戻ったシズクが認可の手続きを始めると、伝統派の竜族長老たちが執務室に押しかけてきた。
「シズク様、機械式の水路とは何事か!?」
長老の1人が声を荒げた。外見は壮年に見えるが、全員が数百年を生きてきた古老だ。この国が今とは比べものにならないほどマナに満ちていた時代を、自分たちの肌で知っている女性たちだった。その目には、「なぜ若い王妃がこのような決定を」という感情が、隠しきれずに滲んでいた。
「機械などという人間やドワーフの真似事に頼るのは、竜族の誇りを汚す行為です。マナは必ず回復する。そのような拙速な判断は——」
「拙速ですか?」とシズクは繰り返した。
静かに言ったつもりだった。でも声が、わずかに高くなった。頭の中で何かが早くなる。反論の言葉が次々と浮かんで、優先順位が崩れていく。アクア母様から受け継いだパニック癖が、顔を出し始めていた。
「今この瞬間も、辺境の農村で作物が枯れています。魔導ポンプは止まっています。アルテミスが1週間、毎朝夜明け前から祈り続けても回復しない。それでも待てというのですか。誇りで民は——」
「王妃様」
ソイルが、シズクの傍らに立った。
大きな手が、シズクの背中にそっと触れた。押すのではない。ただ、そこにある、という触れ方だった。
シズクは止まった。
「長老方」とソイルが静かに言った。「テラ母様の所領で、昨年から機械式の水路が稼働しています。今年の収穫は、周辺の農村より3割多い見込みです。数字をご覧になりますか」
長老たちが顔を見合わせた。
「それは——」
「竜族の誇りを汚すためではなく、竜族の民を守るために作った仕組みです。テラ母様もそのお考えで、長年研究を続けてこられた」
テラ母様の名前が出ると、長老たちの声の温度が変わった。土の竜族の原点とも言える女性の名前は、この場では別の重みを持っていた。数百年を生きてきた古老たちも、その名前の前では少し姿勢が変わる。
沈黙が落ちた。
「……継続的な審議が必要だ」と長老の1人が言った。完全な撤退ではない。でも、今日は引く、という意味だった。
長老たちが退室した。
扉が閉まると、シズクは息をついた。肩の力が抜けて、少しだけ手が震えているのに気づいた。
「ありがとう、ソイル姉様」
「どういたしまして」とソイルは言った。それから、少し間を置いて続けた。「大丈夫よ、シズク。あなたは正しいことをしている」
「でも、うまく言えなかった」
「言えてたわよ。ただ、少し速かっただけ」
ソイルがシズクをそっと引き寄せた。大きな腕が、背中を包む。
「大地を耕すのは、急がなくていいの。土は、時間をかけた分だけ応えてくれるから」
シズクはしばらく、ソイルの腕の中にいた。執務室の窓から、午後の光が差し込んでいた。
やがて顔を上げた。目が、少し赤かったかもしれない。でも声は、もう揺れていなかった。
「ユリウスに書簡を出す。認可の手続きを正式に進めて」
「うん」
「長老たちには、数字で説明する。感情では動かない人たちだから、データを積み上げる」
「それがシズクらしい」とソイルは微笑んだ。
シズクは机に向かい、ペンを取った。
帝都の皇宮は、美しかった。
黒と銀の石で組まれた廊下、天井まで届く窓から差し込む鋼色の光、整然と並ぶ柱の列。何もかもが精緻で、隙がなく、冷えていた。竜の国の白亜の宮殿が午後の陽光を受けて温かく輝くとすれば、ここは月光を閉じ込めた建物だった。美しいが、触れると冷たそうだった。
マリンは廊下を歩きながら、笑顔を保つ練習をしていた。
昨日の鉄の門からここまで、ずっとそうしていた。笑顔を保つ。視線を逸らさない。足を止めない。3つだけ守れば、とりあえず今日は乗り切れる。そう自分に言い聞かせながら歩いていた。
「マリン殿下」
廊下の角で、侍女に呼び止められた。
「イゾルデ皇妃様が、殿下をお部屋にお招きしたいとのことでございます」
マリンは少しだけ足を止めた。
イゾルデ皇妃。皇帝レオナルドの妻であり、水の竜族の出身。レオンから聞いていた。政略結婚として帝国に嫁ぎ、20年をかけてこの宮廷に根を張ってきた女性だと。昨日の戴冠式でも、あの柔らかな目でマリンを見ていたのを覚えている。
「伺います」とマリンは答えた。
イゾルデの私室は、皇宮の中でも珍しく日当たりのよい部屋だった。銀と黒が支配するこの宮殿の中で、ここだけが暖色の天幕と水色の調度品で満たされていた。窓の外には中庭の噴水が見え、水音が静かに届いてくる。意図的に作られた、この宮殿の中の「外」のような場所だった。
「よく来てくださいました」
イゾルデは鏡台の前に座っていた。銀色に近い青白い髪、水面のように静かな瞳。竜の国の水属性の竜姫たちとは違う、より深い海の色をした女性だった。40代のはずだが、竜族の時間の流れは人間と違う。
「座って」とイゾルデは鏡越しに微笑んだ。「堅苦しいことは抜きにしましょう。今日はただ、少し話したかっただけだから」
マリンが腰を下ろすと、イゾルデはそっと手を伸ばしてマリンの髪を梳き始めた。
「緊張してる?」
「……少し」
「正直ね」とイゾルデは笑った。「それでいいと思う。緊張していないふりをする必要はないわ」
鏡に映る2人の顔を、マリンはじっと見た。水の竜族の先輩が、自分の髪を梳いている。
「私が来た時も、同じだったわ」
イゾルデの手が、静かに動く。
「今あなたが感じていること——異物であること、壁の厚さ、笑顔を保つ疲れ——全部、私も感じた。20年前のことだけど、昨日のことのように覚えているの」
「イゾルデ様も、最初は?」
「そう。レオナルドとは政略結婚だったもの。愛情なんて、最初からあったわけじゃない」
マリンは鏡の中のイゾルデを見た。
「今は、違うんですか?」
「今は違うわ」とイゾルデはあっさり言った。「20年一緒にいれば、人は変わるわ。彼も私も。でも最初の数年は——本当に、孤独だった」
梳かれるたびに、少しずつ肩の力が抜けていく気がした。
「竜人としての誇りは、捨てなくていい」とイゾルデは続けた。「捨てようとすると、逆に足元が崩れる。誇りを持ったまま、この宮廷の中で呼吸する方法を覚えるの。支配するのではなく、共生する。それが、私がここで学んだことよ」
「具体的には、どうすればいいんでしょう?」
「まず、味方を見つけること」イゾルデは静かに言った。「敵を作らないことより、味方を1人増やす方が大事。この宮廷には、旧貴族の圧力に不満を持っている人間も必ずいる。そういう人を見つけて、丁寧に、時間をかけて繋がっていく」
鏡の中で、2人の目が合った。
「あなたには、いいメイドがいるわね」とイゾルデは言った。「昨日の門でのことは、もう宮廷中に広まっているわ」
マリンは少しだけ笑った。
「ミレーユは、私が思っている以上のことをいつもやってのける人なんです」
「それは、心強い!」
イゾルデは最後にもう1度、丁寧に髪を梳いてから手を止めた。
「マリン。焦らなくていいの。私に20年かかったからといって、あなたにも20年かかるとは限らない。ただ——孤独に耐えようとしないで。耐えるより、繋がる方を選んで」
窓の外の噴水が、静かに水を吐いていた。
レオンが政務に出た午後、マリンは自室の窓辺に座っていた。
イゾルデの言葉をまだ反芻しながら、中庭を見下ろしていた。味方を見つける。丁寧に、時間をかけて。
「マリン様、少しよろしいですか」
ミレーユが部屋に入ってきた。普段の穏やかな表情ではなく、情報を伝える時の、少し目が鋭くなった顔をしていた。
「昨日から、3名の貴族の動きが気になっています。ヴェルダン卿の派閥に近い方々で、今朝だけでマリン様の居室の前を合わせて5回通っています。偶然にしては多い」
「名前は?」
ミレーユが3名の名を告げた。マリンは聞きながら、脳裏でイゾルデの言葉と照合した。敵を作らないことより、味方を1人増やす方が大事。ではこの3名は——敵か、それとも様子を見ている者か。
「もう少し調べたいのですが、私の動ける範囲には限界があります」
「分かってるわ、ミレーユ」
マリンは立ち上がった。
ドアを開けると、廊下には何もなかった。石の柱、石の床、石の壁。昼間の光が均等に差し込んでいた。
マリンは廊下に出て、ごく自然に歩き始めた。散歩のように、何も考えていないように。
柱の影が、わずかに揺れた。
「聞こえてる」
影の中から、低い声が返ってきた。声だけで姿はない。クロノスは最初からそこにいた——マリンが来る前から、ずっと。
「ライオスとシズク姉様の命令で、もうここにいたのね」
「ああ」
「いつから?」
「お前が帝国に入った時から」
マリンは柱の前で立ち止まり、中庭を眺めるふりをした。
「……久しぶり、マリン」
「昨日、門のところで会ったじゃない」
影が、一瞬止まった。
「……影の中にいた」
「視線送ってくれたじゃない。ちゃんと気づいてたわよ」
廊下の角から、くすくすと笑い声が聞こえた。
白いメイド服を着た娘が、柱の陰から顔を出した。帝国の王宮で働く侍女たちと同じ制服、同じ白いエプロン。ただし、その下から覗く気配は、どこからどう見ても帝国育ちのメイドではなかった。
「リベル!?」
「やっほ、マリン姉様。クロノスお兄ちゃんが昨日バレてると思ってなかったみたいで、さっきまでずっとぷりぷりしてたんだよ」
「言うな」
「事実じゃない」
クロノスが影から姿を現した。メイド服のリベルと並ぶと、余計に無口さが際立った。マリンはリベルの姿をしみじみと見た。
「それにしても、メイド服似合ってるわね」
「でしょ。ゼファーちゃんに仕込まれたから、所作も完璧なんだ。昨日の朝からここで働いてるけど、誰にもバレてないよ」
「仮にも皇女なのに……」
「その方が動きやすいから」とリベルはあっさり言った。「ゼファーちゃんもそう言ってた。情報は現場にある、って」
ゼファーに仕込まれた動き方が、こういう形で出るのか、とマリンは思った。平和であれば竜の国の王妃になっていた器の女性が積み上げてきた知恵が、この19歳の娘の中に生きている。
「2人とも、ライオスとシズク姉様の命令ね」
「うん。でも」とリベルは肩をすくめた。「シズク姉様ってば、指示書が5ページもあったんだよ。想定パターンが全部で12通りで、各パターンに対応手順が——」
「それはシズク姉様らしい」
「お前は読んだのか」とクロノスがリベルに聞いた。
「読んだよ。全部」
「……本当か!?」
「失礼な。ちゃんと読んだし、全部覚えた!」
クロノスは短く息をついた。マリンはそれが彼なりの「かなわない」という表現だと知っていた。
「ヴェルダン卿の周辺を調べてほしい」とマリンは話を戻した。「特に、派閥の中で卿に不満を持っている者がいれば」
「もう動いてる」とリベルが言った。「今朝の厨房当番の時に、若手貴族の奥様方の会話がいくつか拾えた。ヴェルダン卿の派閥でも、温度差がある家が2、3あるみたい」
「クロノス、夜の動きを押さえてもらえる?」
「分かった」
「無理はしないで」
「……する必要がない」
影が、音もなく薄れていく。リベルがその背中に向かってひらひらと手を振った。クロノスは振り返らなかった。それがいつものことだというように、リベルは特に気にした様子もなかった。
夜になってから、クロノスが戻ってきた。
マリンの自室に、音もなく。メイド服のリベルがすでに部屋の隅に座っていて、クロノスが入ってくると「お帰り」と短く言った。クロノスは頷いた。
4人で、声を落として向き合った。
クロノスの報告は短かったが、密度があった。ヴェルダン卿の派閥の中に、卿の手法に不満を持つ若手貴族が2名いること。どちらも家格は低くないが、旧体制の利権構造から弾かれている者たちだった。卿に従っているのは打算であって、忠誠ではない。
「その2人は、使えると思う」クロノスは言った。「ただし、こちらから動くのは早い。もう少し様子を見る」
「同意見です」とミレーユが静かに言った。「焦って近づけば、ヴェルダン卿に動きを読まれます。まずマリン様が公の場で印象を作ることが先です」
マリンはイゾルデの言葉を思い出した。味方を見つける。時間をかけて。敵を作らないことより、1人増やすことが大事。
「イゾルデ様も同じことをおっしゃっていた」
「皇妃様はこの宮廷を20年かけて知り抜いておられます」とミレーユは言った。「その助言は、どんな諜報よりも重い」
リベルが腕を組んで続けた。
「明後日の茶会、例の若手貴族の1人の奥様が来る。今日少し話したけど、感じのいい人だった。マリン姉様が自然に近づきやすいと思う」
「え、もう話したの!?」
「厨房で一緒にお茶淹れながら」とリベルはさらりと言った。「メイドって、貴族の奥様方と話す機会が意外と多いんだよね。ゼファーちゃんが言ってた通りだった。情報は厨房と廊下にある、って」
クロノスがわずかに目を細めた。呆れているのか、感心しているのか、その表情では判断がつかない。
マリンは窓の外を見た。帝都の夜は、竜の国より暗い。街の灯りが少なく、空が広く、遠く感じた。
でも、ここには今、ミレーユがいる。クロノスがいる。リベルがいる。イゾルデの言葉がある。
単なる嫁入りではない。これは帝国を内側から変えるための、長い仕事の始まりだ。
「明後日の茶会、楽しみにしておく」
マリンは静かに、しかしはっきりと言った。
「ミレーユ、準備をお願い」
「かしこまりました」
窓の外で、帝都の風がゆっくりと動いた。リベルの風ではなく、この都市に元から流れている、古い風だった。
マリンはその冷たさを、もう怖いとは思わなかった。
辺境の農村で、アルテミスがまた今朝も祈っているかもしれない。その祈りが届く仕組みを、自分たちが作る。魔法ではなく、法と数字と、機械式の水路で。
それが今の、自分たちの仕事だった。