水属性の魔法使い
「公主よ、見事であった」
玉座から立ち上がって、皇帝ツーインが称賛する。
「恐れ多いことです、陛下」
シオ・フェン公主が頭を下げる。
それを見て、皇帝は満足したかのように大きく頷いた。
「うむ、今年の響音会も良いものであったわ」
だが、ここで若い声が横から入る。
「皇帝陛下に申し上げたきことがございます」
それは、第四皇子ビン親王。
その瞬間、涼とアベルは顔をしかめて見合った。
なんとなくそんな気がしていたのだ。
それは、全ての聴衆がシオ・フェン公主らの演奏を称賛する中、ただ一人、ビン親王だけは拍手もせずに苦虫を嚙み潰したような顔をしていたのを、二人は見たから。
直近、最大のライバルたる第六皇子リュン親王陣営が、称賛されるのは彼にとっては喜ばしい事ではない……それは分かる。
「まさか、今の演奏にいちゃもんをつける気じゃ」
「それは無理だろ。素晴らしい演奏だったし、皇帝が称賛したばかりだぞ」
涼とアベルは、かなり小さな声で会話している。
「どうした、ビン」
皇帝ツーインがビン親王に答える。
「響音会は、高官全てが演奏するというのが慣わし。恐れながら、まだこの場には演奏されていない方がいらっしゃいます」
「ふむ? 全員演奏した気がするが?」
ビン親王は、右腕を伸ばし、ある人物を指さした。
「ロンド公爵です」
「え?」
突然の弾劾に驚く涼。
もちろん、事前にそんな話は聞いていない。
「無礼だぞ、控えよビン」
そんなビン親王の行動を叱責したのは皇帝ではなく、隣に座る第三皇子チューレイ親王。
はっきりと顔をしかめて、ビン親王を見ている。
「いいえ、控えません。ロンド公がおられる席は、六部二台全てをまとめる皇太子の席。その席におられる以上、響音会で演奏されるのは当然のことです」
ビン親王の弾劾は続く。
涼にもアベルにも、ビン親王が言っていることが正しいことなのかどうかは分からない。
そして、どう行動するのが正しいのかも分からない。
そのため、涼は玉座の前に立つ皇帝ツーインを見た。
その瞬間、皇帝が僅かに微笑んだのが見えた。
まるで、いたずら小僧のような、笑み。
「ロンド公、ビン親王があのようなことを言うておる。余は必要ないとは思っていたのだが……どうであろう。護衛のアルバート殿のヴァイオリンを、この場で披露してもらうわけにはいかんだろうか。それについては、実は余も興味がある」
そう、いたずら小僧のような笑みは、ビン親王の行動に乗って、アベルのヴァイオリンを聞いてみたいと思った笑みだったのだ。
涼はチラリと隣のアベルを見る。
アベルが肩をすくめたのが見えた。
「陛下のご指名とあらば、謹んで演奏させていただきます」
涼がそう言うと、アベルが舞台の前に行き、皇帝に向かって一礼した。
それは典雅の極みともいえる一礼。
「ヘルブ公並みの一礼をここで? さすがはアベルです」
涼の小さな小さな囁くような声は、誰にも聞こえない。
だが、その一礼でアベルは、『ただの護衛』から『さすがはロンド公の護衛』へと、聴衆の意識を変えることに成功していた。
そして、まだ舞台にいたミーファからヴァイオリンを受け取る。
「楽しみです、師匠」
「先ほどの演奏、素晴らしかったぞ」
ミーファがヴァイオリンを渡し、アベルは笑顔を浮かべて受け取ってシオ・フェン公主との演奏を褒めた。
ミーファが舞台の隅に引っ込むと、アベルはすっくと立ち……ヴァイオリンをかき鳴らした。
曲目は、いつもの曲。
「やっぱり……パガニーニ、24の奇想曲、第24番……」
舞台袖でそう呟いたのは、工房統領ロン・シェン。
以前、暢音閣でアベルが演奏したのをロン・シェンは聞かせてもらった。
感動した。
そして、憧れた。
その感情が、再び蘇る。
「これほどの難曲を……なんて軽やかに弾くのだろう」
ロン・シェンは呟く。
この場にいる中で、パガニーニを知っているのはロン・シェンとミーファと涼だけだ。
他の者たちは初めて聞くだろう。
だが、全員が魅了されている。
トリッキーでありながら美しく。
聞きなれない音の繋がりでありながら魅了する。
パガニーニの曲は、そんな曲だ。
かつて地球において、パガニーニは、歴史に名を残す音楽家たちにも大きな影響を与えた。
リスト、シューベルト、ブラームス、シューマン、ベルリオーズ……。
その中でも、リストが受けた影響は計り知れなかった。
パガニーニの演奏に衝撃を受け、『ピアノのパガニーニになる』と決意し、ピアノの超絶技巧を極めた。
世界で最も有名なピアノ曲の一つでもある、リストの『ラ・カンパネラ』は、パガニーニのヴァイオリン協奏曲第二番第三楽章のロンド『ラ・カンパネラ』の主題を編曲して書かれたものだ。
だから、正確には『パガニーニによる大練習曲 第三番嬰ト短調』ラ・カンパネラだ。
ヴァイオリンソロでありながら、驚くほど広い音の広がりを見せる第24番。
さらに、多くの『普通でない』演奏技法を入れ込み、超絶技巧の限りを尽くすこの曲は、ただ弾くだけでも難しい曲として知られている。
それを、自分のものとして『完璧に弾きこなす』のは……。
「アベルが、カイン王太子のヴァイオリンに憧れたのって……この24番なんじゃ」
涼がそう呟いたのは、もちろんただの想像だ。
以前、アベルは言っていた。
兄であったカイン王太子のヴァイオリンは天才的であったと。
憧れたと。
だが、届かないと知って絶望したと。
その時、王太子が弾いていたのはこの曲なのではないかと、涼は思ったのだ。
そして、アベルは弾き込んだ。
一心不乱に弾き込んだ。
だけど届かないと知った……。
しかし、涼の目から見ても、いや耳で聞いてもアベルの演奏は完璧に聞こえる。
地球にいた頃、いろんなヴァイオリニストがこの曲を弾くのを聞いたことがある。
もちろん、著名なプロヴァイオリニストたちがだ。
だが、それらと比べても、アベルの演奏は決して劣っていない。
それどころか……。
「僕は、アベルの演奏の方が好きです」
涼ははっきりとそう思う。
そして小さく頷いて言った。
「今、カイン王太子がアベルのヴァイオリンを聞いたら、絶対に褒めてくれると思うのです」
それほどに素晴らしい演奏。
四分半の演奏は、あっという間に終わった。
「凄すぎる……」
「何だこれは……」
「我々の知っているヴァイオリンとは違い過ぎる……」
「これがロンド公の護衛……」
そんな呟きが聞こえる。
パチパチパチ……。
そこで拍手を始めたのは涼。
パチパチパチ……。
さらに工房統領ロン・シェン。
パチパチパチパチパチパチ……。
そしてミーファとシオ・フェン公主。
それが広がっていき……正林殿中が拍手に包まれた。
アベルは、ヴァイオリンを持ったまま舞台の上から皇帝ツーインに頭を下げた。
「いや、素晴らしい! アルバート殿の驚くべき演奏よ! まさかこれほどとは。さすがロンド公の護衛ですな!」
「恐れ入ります」
皇帝が称賛し、涼が称賛に答えた。
終わり良ければすべて……。
「お待ちください!」
再び響くビン親王の声。
さすがに、これには皇帝ツーインもわずかに眉をひそめる。
「響音会での演奏は、家の主か妃、または跡取りが出るのが常。アルバート殿は、そのどれでもございません」
「やめよ、ビン」
ビン親王の弾劾を、さすがに皇帝ツーインが咎める。
皇帝の声は大きくない。
だが、明らかに不快であることを多くの者たちが感じ取っていた。
そこには、驚くほど見事な演奏を披露したアベルのヴァイオリンが関係しているのは確かだろう。
あれほどの演奏で響音会を締めることができれば、今年の響音会は長く語り継がれるものとなるのは間違いない。
その場に自分が居合わせたことを、この場にいる者たちは誇ることになるだろう……。
だが、ビン親王の弾劾は、それを台無しにしようとしている。
「いいえ、やめません。私が言っていることは間違っておりません」
ビン親王が弾劾を続ける。
だがそれは悪手。
ここにいる誰もが理解している。
ビン親王本人以外、全員が。
「家の主が演奏しなければならないというのは、この響音会の決まりなのでしょうか?」
いっそ柔らかな口調で、そう問うたのは涼。
問うた先はビン親王ではなく皇帝ツーイン。
「決まりというか慣わしというべきであろう。だがロンド公は、我が賓客としてこの場に招いたのだ。アルバート殿が演奏してくれただけで十分」
「ありがとうございます陛下」
皇帝ツーインの言葉に、頭を下げる涼。
だが、その時、涼の表情に少しだけ笑みが浮かんだのに気付いた者がいただろうか。
舞台にいたアベルだけだったかもしれない。
「陛下のご寛恕にすがりたいと思います。私、不調法者ですので、アルバートのようなヴァイオリンも、ビン殿下のような笛、シオ・フェン公主のような筝も演奏できませぬゆえ」
涼がそう言うと、皇帝が一つ頷く。
「ただ……せっかくのピアノ『シェン-ロン』のお披露目の席に招かれましたのも何かの縁。もしよければ、ピアノで軽く弾かせていただくのはどうでしょうか? もちろん、あれほどの演奏の後ですし……とても見合うものは無理ですが、この後、多くのシタイフ層の方々の屋敷にピアノは入るのでしょう? 少しでもその一助になればと……」
「ほぉ……なるほど、ピアノか。それは面白い」
涼の提案に、驚きながらも乗り気になる皇帝ツーイン。
ロン・シェンの提案で、『シェン-ロン』一番台を輪舞邸に入れたことは覚えている。
だが、その二人以外は驚きから、周りと話し始めた。
ざわざわとした雰囲気となる。
「うむ面白い! 舞台を整えよ」
皇帝ツーインの号令によって、再びピアノが舞台の中央に置かれる。
その間に戻ってきたアベルが涼に声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
「アベルほどではないですけど……僕の指も、多少は昔みたいに動くようになりましたからね。アンダルシアたちに毎日聞かせていますから、なんとかなるはずです」
輪舞邸では、部屋から流れる涼のピアノを聞きながら、アンダルシアとフェイワンが芝生で気持ち良さそうに寝る光景が日常的に展開されている。
涼は準備の整ったピアノの前に座った。
演奏会で弾くのは久しぶりだ。
「まあ、多少失敗しても、誰にも間違いは分かりません」
少しだけ笑いながらそう呟く。
今から弾く曲は、地球にいた頃に弾いていた曲だ。
つまり、ここにいる『ファイ』の人たちが知らない曲。
だから、ちょっとくらい失敗しても問題ない。
そのためだろうか、驚くほど緊張していない。
地球にいた頃の演奏会であれば、間違わないのは当たり前。
求められるのはその先だった。
だから演奏会の日の朝まで、ずっと緊張していたのだが……。
それに比べれば、なんとプレッシャーの少ない舞台だろう。
それなのに、涼が頭の中で描いているのは、ショパンコンクール本選のステージ。
なぜなら演奏するのは、涼が愛するショパンだから。
フゥッ。
短く息を吸って、重々しい四和音から始める。
それは、隣国の支配下にあるショパンの故国ポーランドの、冬の時代を思わせる前奏。
だが決して暗いだけではない……圧政の中にも屈しない民の力が膨れ上がる。
今か今かと吹き上がるタイミングを見計らう……メインの第1主題に向けて。
「え? これって……」
舞台袖にいる工房統領ロン・シェンが驚く。
それは有名な前奏部分……当然ロンは知っている。
その16小節の前奏を終えると訪れる、華やかな……第1主題!
「やっぱり。ショパンのポロネーズ第六番、変イ長調……『英雄』」
涼の手によって奏でられる英雄ポロネーズの第1主題は、華やかで煌びやかで……それでいて力強い。
圧政から解放され、民が自分たちの国を取り戻した、そんな明るい、希望に満ちた主題部。
春の陽の光に照らされた大地。
笑顔の民が躍る、そんな平和な国。
そこにいる誰しもが、深く願い、長く望んだ幸せな故国。
国の春の訪れに、皆が笑顔で暮らす。
……しかし、明るい未来は長くは続かない。
解放されたポーランドの民を再び支配下に置こうとする隣国。
立ち向かうポーランド軍。
中心となって最前線に立つ勇猛果敢なポーランド騎兵。
両軍が正面からぶつかる!
倒し、倒され、また倒し。
終わりなき戦い……。
そんな全面衝突の後に訪れる悲劇的結末。
ポーランドの地は荒らされ、絶望が国を覆う。
だが!
再び立ち上がるポーランドの民。
虐げられても虐げられても、決してあきらめることなく、何度でも立ち上がる!
そうして、再び訪れる第1主題。
華やかさを纏いつつも、最初の第1主題よりも力強く、力強く……そして、力強く!
決して、未来の希望を失わないと決めた民の望みが結集した、圧倒的な意志の力。
それは、英雄王が国の民をまとめ、率いて、占領された国土を解放されたナイトレイ王国の歴史と重なる。
意志の力。
民の意思の力。
その力が、弾けて……終幕を迎えた。
訪れる静寂。
「見事!」
皇帝ツーインのその一言で、突然に、静寂は終わった。
「うぉーーー!」
「なんだこれは!」
「これがピアノ!」
「これがロンド公爵!」
「何? これも魔法なの?」
「いや芸の極みだ、魔法なんかじゃない!」
飛び交う声。
万雷の拍手。
「リョウ様がこれほどとは……正直思いませんでした」
「はい……」
シオ・フェン公主がうっすら笑いながら言い、後ろに控えたミーファも頷く。
「ロンド公爵……あなたも転生者なのですね」
一人、確信した工房統領ロン・シェン。
さすがに、涼が自ら作曲した曲だとは思わない。
どれほどの天才であっても、それは不可能だ。
ショパンのピアノ曲は、唯一無二。
だが、ここで大きな問題が出現したことにロンは気付いた。
「あれほどのピアノ……他の誰にも弾けません」
今日、正式にお披露目されたばかりのピアノ……そこでいきなり、頂点とも言える曲が演奏されてしまったのは想定外であった。
はたして今後、ピアノの広がりにどのような影響を与えるのか。
それは誰にもわからない……。
「ロンド公、その曲は、何という曲か教えてもらえるかな?」
拍手が収まり、皇帝ツーインが玉座から問う。
「はい、陛下。この曲は『英雄』という曲です」
「ほぉ」
「私が敬愛し、その忠誠の全てを捧げるアベル王のために演奏させていただきました」
涼はそう言うと、恭しく一礼した。
その礼ははたして皇帝ツーインへの礼か。
それとも……膳の前で顔を真っ赤にしている英雄王アベルに対してであったのか。