赤い時計の下で、あなたの人生を一杯
航大は、建物には表情より先に音が出ると思っている。
人は痛くても笑う。
壁は傷めば軋む。
床は無理をさせれば沈む。
金属は怒ると高い声を出す。
だから八月三日の朝、保守通路の奥から聞こえた低い擦過音を、航大は聞き逃さなかった。
「何かが外れてる」
ヘルメットの顎紐を締めながら言うと、咲輝が記録票へ時刻を書いた。
「推測ですか」
「感覚」
「記録には推測と書きます」
「感覚のほうが当たる」
「当たった後で修正します」
保守通路へ入るのは航大と咲輝と大生の三人だけになった。通路が狭く、床の耐荷重も不明なためだ。
恵梨花、大輔、弘樹、玲は店側で待機する。
「私が相続人なのに」
恵梨花は不満そうだった。
「相続人は防塵マスクの装着で髪を気にして五分遅れました」
咲輝が言う。
「気にしたんじゃなくて、紐に髪が挟まったの」
「狭い場所で再発する可能性があります」
「髪を事故原因みたいに言わないで」
航大は笑いながら、懐中電灯を点けた。
「見つけた物は、勝手に触らない。写真を撮る。位置を測る。戻るまで店側から入らない」
咲輝が確認する。
「了解」
「航大さん」
「勝手に入らない」
「前回の返済条件を覚えていますね」
「貸し借りは忘れない」
壁板の向こうは、人一人が横向きで進める幅しかなかった。床には細い鉄板が渡されている。両側を古い梁と配線が走り、油と乾いた木の匂いが混ざっていた。
三歩先に、金属の扉。
表面には、芙美の字で「SF 足跡を消すな」。
扉の錠は錆びていたが、壊れてはいない。大生が工具で汚れを落とし、航大が赤い鍵を差し込む。
鍵は重く回った。
扉の向こうに、時計の機械室があった。
窓はない。
外の赤い時計文字盤の裏側が、巨大な黒い円として壁を占めている。歯車、軸、古い配線、補修された木枠。中央の軸からは、針につながる金属棒が伸びていた。
咲輝が空気を測る。
「酸素濃度、問題ありません。床も、入口付近は安定しています」
航大は一歩入り、足裏へ伝わる振動を確かめた。
時計は止まっている。
それでも外を走る車や、階下の冷蔵庫の振動が建物を通り、歯車へかすかな震えを送っている。
航大には、それが動きたがっている音に聞こえた。
「事故で壊れたって聞いてた」
店側から、恵梨花の声が飛んでくる。通路の入口まで近づいているらしい。
「入らないでください」
咲輝がすぐ返す。
「入ってない。声だけ」
航大は時計の軸へ懐中電灯を当てた。
「外箱は補修されてる。歯車も交換した跡がある。動かせない壊れ方じゃない」
「じゃあ、なぜ止まってるの」
答えは、床近くの金具にあった。
本来、時計の下へ垂れるはずの振り子がない。動力を歯車へ伝える連結部品も外されている。破断ではない。工具で丁寧に外した跡だった。
大生が低い声で言う。
「意図的です」
咲輝が写真を撮る。
「部品はどこでしょう」
機械室の右奥に、木製の細長い箱があった。蓋には赤い塗料が一滴落ちている。
航大は位置を記録してから蓋を開けた。
中に、真鍮色の振り子と、油紙に包まれた部品が収まっている。
振り子の裏へ、黒い油性ペンで文字が書かれていた。
動かす日を、みんなで決める。
「芙美さんの字です」
大生が言った。
航大も覚えている。
工具を借りたとき、芙美は名前と日付を札へ書いた。丸みのある「み」と、最後だけ強く跳ねる「る」。同じ字だった。
咲輝が店側へ報告する。
「時計は、事故後に意図的に止められています」
しばらく返事がなかった。
やがて弘樹の声がした。
「外しておく案を出したのは、私です」
航大は振り返った。
通路の向こうに、弘樹の顔が見える。中へは入らず、入口の線を守っている。
「事故の翌年、住民説明会がありました。外箱と支柱は直す。しかし時計を動かすかで意見が割れた」
「死人は出なかったでしょう」
玲が言った。
「だから忘れていい、とはならない。入院した人がいた。店を閉めた人がいた。風の音を聞けなくなった子どももいた」
弘樹は赤い時計の裏側を見つめた。
「私は、四時十七分で止めるべきだと書きました。事故があった時刻を、町が毎日見るために」
「記事に?」
「社説です。当時は、それが責任だと思った」
航大は振り子を箱へ戻した。
「今は違うのか」
「止めた時計へ、町が別の話を付けました。いつの間にか、負傷した人を忘れない時刻ではなく、英雄が現れた神聖な時刻になった」
弘樹の声には、自分へ向けた批判が混じっていた。
「私も止めることに賛成しました」
航大が言う。
十七歳だった事故の翌年。商店街の説明会で、大人に交じって手を挙げた。あの日を忘れたくないと思った。正確には、忘れたら自分がボルトカッターを返せなくなる気がした。
止めた時計は、記憶を守る箱になるはずだった。
しかし箱へ入れた記憶は、一つではなかった。
「直せますか」
恵梨花が尋ねた。
航大は歯車、軸、配線を順に見る。
「部品を洗って、摩耗した箇所を替えれば。外の針も調整がいる。すぐには無理だが、直せる」
「じゃあ、動かして」
恵梨花の返事は早かった。
航大は振り子の箱を閉じた。
「それはできない」
「直せるんでしょう」
「直せることと、俺が勝手に動かしていいことは別だ」
咲輝が小さくうなずいた。
恵梨花は黙った。
「この時計を止めたのは一人じゃない。動かすのも一人で決めない」
航大は、自分の言葉を確かめるようにゆっくり言った。
「芙美さんも、そう書いてる」
調査を終え、三人は店へ戻った。
防塵服を脱ぐと、大輔が冷たい麦茶を渡した。
「お疲れ」
「借り一つ」
「飲み物まで記録するのか」
「喉が助かった」
航大は胸ポケットから帳面を出した。
何を書こうか少し迷った。
赤い時計から、振り子を一本。
違う。
借りたのは部品ではない。
航大は新しい頁へ書いた。
赤い時計から、二十三年分の問いを借りた。
返却方法は、まだ空欄にした。