神籍のトワ
「おじいちゃん。」
扉の向こうから、もう一度声がした。
「まだ、ぼくの名前……覚えてる?」
トワは取っ手に触れたまま、動かなかった。
老人も。
レンも。
アオイも。
誰も声を出さない。
ただ、扉の向こうから聞こえてくる小さな泣き声だけが、静かな部屋に響いていた。
トワはゆっくりと口を開く。
「……悠。」
その名前を呼んだ瞬間だった。
扉の向こうの泣き声が止まった。
「どうして。」
少年の声。
「どうして、知ってるの?」
トワは答えなかった。
手の中にある白い本を見る。
写真の裏に書かれていた名前。
悠。
それだけだった。
「君の本を見つけたんだ。」
トワは扉越しに話しかける。
「でも。」
「中身が全部、なくなっていた。」
しばらく沈黙が続いた。
やがて。
「……なくなったんじゃない。」
少年が答える。
「ぼくが、全部読んだの。」
トワは眉を寄せた。
「どういうこと?」
「忘れたくなかったから。」
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
「おじいちゃんとのこと。」
「海へ行ったこと。」
「夏祭り。」
「学校の帰りに、一緒にアイスを食べたこと。」
「全部。」
「全部、忘れたくなかった。」
少年の声が震える。
「だから何度も読んだ。」
「何度も。」
「何度も。」
トワは白い本を見つめる。
何度も読まれた本。
その結果、何も残らなくなった本。
「でも。」
少年が続ける。
「読んでるうちに。」
「変なんだ。」
「何が?」
「最初は、おじいちゃんの顔が見えた。」
「声も聞こえた。」
「笑い方も。」
「手の大きさも。」
少し間があった。
「でも。」
「何度も読んでいるうちに。」
「顔がぼやけてきた。」
トワの胸が締めつけられた。
「だから、もっと読んだ。」
「忘れないように。」
「もっと。」
「もっと。」
少年の声が小さくなる。
「そしたら。」
「最後には。」
「名前だけになった。」
静寂。
「だから。」
「返して。」
トワは目を閉じた。
「何を?」
「ぼくの思い出。」
その言葉に、誰も答えられなかった。
老人が静かに近づいてくる。
「局長。」
「はい。」
「扉を開けてください。」
トワは老人を見る。
「でも……。」
「大丈夫です。」
「この扉の向こうにいるのは。」
「本を奪った者ではありません。」
老人は、少しだけ悲しそうに笑った。
「忘れることが怖かった子どもです。」
トワは再び扉を見る。
そして。
ゆっくりと取っ手を回した。
ぎい……。
扉が開く。
その向こうには、長い廊下があった。
壁も。
床も。
天井も。
すべて古い本棚でできている。
無数の本。
何千冊。
いや、それ以上。
どこまでも続いている。
しかし。
そこに人の姿はなかった。
「悠?」
返事はない。
トワは一歩、中へ入る。
その瞬間。
背後で扉が静かに閉じた。
「トワ!」
レンの声。
振り返る。
しかし、そこには誰もいなかった。
神籍管理局の部屋も。
記憶樹も。
仲間たちも。
すべて消えている。
ただ。
長い本棚だけが続いていた。
トワは一人だった。
足元を見る。
古い木の床。
そこには無数の足跡が残っている。
大人のもの。
子どものもの。
裸足のもの。
靴の跡。
そして。
そのすべてが、同じ方向へ向かっている。
トワは歩き出した。
しばらく進むと、一冊の本が床に落ちていた。
拾い上げる。
表紙には、子どもの字。
悠の夏
ページを開く。
最初の数ページには、写真があった。
海。
砂浜。
蝉。
古い縁側。
そして、笑っている老人。
トワはページをめくる。
すると。
一枚だけ、真っ白なページがある。
そこに小さな文字が残っていた。
おじいちゃんの好きなもの。
海。
朝顔。
甘いもの。
それから――
その先が消えている。
トワは指先で紙を撫でた。
すると。
ページの隅に、小さな鉛筆の跡が浮かび上がった。
ぼく。
その瞬間。
遠くから、少年の声が聞こえた。
「……違う。」
トワが顔を上げる。
「そこじゃない。」
声のする方へ歩く。
本棚の角を曲がる。
さらに進む。
やがて。
一人の少年が座っていた。
十歳くらい。
白いシャツ。
短い髪。
膝の上には、何冊もの本。
少年は顔を上げた。
写真の中の少年と同じ顔だった。
「……悠?」
少年は頷いた。
「うん。」
その目には涙が残っていた。
「でも。」
「ぼくは、もう。」
「おじいちゃんの顔を思い出せない。」
トワは何も言えなかった。
少年は一冊の本を差し出す。
「だから。」
「返してほしい。」
「この本に書いてあるものを。」
トワは本を受け取った。
けれど。
ページを開いた瞬間。
そこには、驚くほど美しい海が広がっていた。
夕焼け。
波。
防波堤。
そして。
遠くで手を振る老人。
悠が小さく笑った。
「……いた。」
その一言だけで。
少年の目から、また涙がこぼれた。
その時。
どこか遠くで、本が一冊閉じる音がした。
ぱたん。
さらに。
ぱたん。
ぱたん。
無数の本が、次々と閉じていく。
悠が怯えたように振り返る。
「……来る。」
「誰が?」
少年は答えなかった。
ただ、トワの袖をぎゅっと掴む。
そして。
本棚の向こうから。
ゆっくりと。
誰かの足音が近づいてきた。
一歩。
また一歩。
悠が震える声で言う。
「この人が。」
「ぼくの本を全部読んだ人。」
足音が止まる。
長い本棚の向こうから。
一人の女性が姿を現した。
黒い服。
長い髪。
手には、一冊の白い本。
女性はトワを見る。
そして。
とても悲しそうに微笑んだ。
「……やっと。」
「読んでくれる人が来た。」
その手にある本の表紙には。
題名がなかった。
ただ一文字だけ。
零
トワは、その文字を見つめた。
第零書架。
その名前の意味が。
初めて、少しだけ分かった気がした。