神籍のトワ
扉の前に立っていた。
古い木の扉。
そこには、名前も紋章もない。
ただ、小さな文字が一つだけ刻まれている。
次頁
トワは、その文字を指先でなぞった。
「この先に。」
「まだ誰にも読まれていない物語があるんですか?」
女性は頷いた。
「ええ。」
「ですが。」
少しだけ間を置く。
「正確には、まだ『物語』になっていないものです。」
トワは振り返る。
長い本棚。
無数の本。
悠の本。
そして、その向こうにいる女性。
「じゃあ。」
「何があるんです?」
女性は答えなかった。
代わりに、悠が小さく言った。
「明日。」
「……明日?」
「ここにあるのは。」
「まだ起きてないこと。」
トワは扉を見る。
なるほど。
第零書架にあるのは、過去だけではない。
誰かがまだ書いていない人生。
誰かがこれから選ぶ未来。
それらが、まだ白紙のまま眠っている。
トワは扉を開けた。
光。
眩しいほどではない。
朝の窓から差し込む光のような、柔らかな明るさだった。
その先には、部屋があった。
これまでの書架とは違う。
本棚がない。
机もない。
椅子が一脚だけ置かれている。
そして。
その椅子の前に、一冊の本が置かれていた。
トワは立ち止まった。
その表紙を見た瞬間。
胸の奥がざわついた。
題名。
トワ
「……。」
声が出なかった。
悠が隣から覗き込む。
「トワの本?」
「……みたいだね。」
手を伸ばす。
けれど。
指先が表紙に触れる直前で止まった。
「怖い?」
悠が聞く。
トワは少し考えた。
「うん。」
正直に答える。
「ちょっとね。」
自分の物語。
自分の知らない自分。
何をしてきたのか。
何を失ったのか。
何を残したのか。
そこに全部書かれているのかもしれない。
トワは深く息を吸った。
そして。
本を開いた。
一頁目。
白紙。
二頁目。
白紙。
三頁目。
白紙。
どこまでめくっても。
何も書かれていない。
「……何もない。」
トワが呟く。
女性が静かに笑った。
「当然です。」
「どうして?」
「あなたの物語は。」
「まだ終わっていないから。」
トワは本を見つめた。
さらにページをめくる。
最後の頁。
そこにも何もない。
ただ、ページの中央に一本の線だけが引かれている。
その線の下に、小さな文字。
ここから先は、あなたが書く。
トワは長い間、その言葉を見つめていた。
そして。
笑った。
「……ずるいな。」
女性も微笑む。
「そうですね。」
悠が聞く。
「何を書くの?」
トワは答えなかった。
しばらく考えて。
やがて本を閉じる。
「まだ。」
「決めなくていいと思う。」
悠が首を傾げる。
「どうして?」
トワは少年の頭へ、そっと手を置いた。
「だって。」
「明日、何が起こるか。」
「僕にも分からないから。」
女性が目を細めた。
「それでいいのです。」
その瞬間。
遠くで鐘が鳴った。
どこか懐かしい音。
トワが振り返る。
「……この音。」
聞き覚えがある。
神籍管理局の時計。
朝の始まりを告げる鐘。
次の瞬間。
視界が白くなる。
気がつくと。
トワは神籍管理局の書架の前に立っていた。
「トワ!」
レンの声。
「どこ行ってたんだよ!」
振り返る。
アオイ。
レン。
さくら。
老人。
みんなそこにいる。
机の上には。
あの白い本。
けれど、もう白紙ではなかった。
表紙には、小さな文字がある。
『朝顔が咲くたびに』
陽菜の本。
そして。
その隣に、もう一冊。
題名はない。
トワが手に取る。
最初のページを開く。
一行だけ書かれていた。
物語は、終わらない。
トワは静かに本を閉じた。
窓の外では、夕方の風が吹いている。
記憶樹の葉が揺れる。
さらさらと。
まるで誰かが、次のページをめくっているように。
老人が言った。
「局長。」
「はい。」
「そろそろ。」
「新しい依頼が来ますよ。」
その言葉と同時に。
玄関の鈴が鳴った。
カラン。
全員が顔を見合わせる。
トワは少し笑った。
「行ってきます。」
扉へ向かう。
その背中を見ながら、老人は静かに目を細めた。
第零書架の扉は、いつの間にか消えていた。
けれど。
もう必要なかった。
トワは扉を開く。
夕暮れの光の中。
一人の女性が立っていた。
手には、古い封筒。
少し震える声で。
「……すみません。」
「ここに来れば。」
「届けられなかった言葉を、届けてもらえると聞いて。」
トワは微笑んだ。
「はい。」
その女性を、静かに中へ招き入れる。
書架の奥。
誰にも見えない場所で。
一冊の白い本が、ほんの少しだけ開いた。
そして。
新しい頁が、一枚。
静かにめくられた。