神籍のトワ
少女は両手でノートを抱えたまま、玄関に立っていた。
少し日に焼けた麦わら帽子。
水色のワンピース。
膝には転んだばかりのような小さな擦り傷。
どこにでもいる、夏休みの子どもだった。
「どうぞ。」
トワが扉を大きく開ける。
少女は小さく会釈をして、中へ入った。
応接室。
冷たい麦茶が運ばれてくる。
少女は両手でコップを持ち、一口だけ飲んだ。
「ありがとう。」
まだ少し緊張している。
トワは優しく微笑んだ。
「僕はトワ。」
「局長をしています。」
「お名前を聞いてもいいかな。」
「……陽菜です。」
「四年生。」
それだけ言うと、またノートをぎゅっと抱きしめた。
しばらく誰も急かさなかった。
蝉の声だけが窓の外から聞こえてくる。
やがて陽菜が、小さく口を開いた。
「先生がね。」
「夏休みの日記を書きましょうって。」
「うん。」
「毎日じゃなくてもいいから。」
「思い出を書いてねって。」
そこまで話して、俯いてしまう。
トワは静かに待つ。
言葉は、自分で出せるまで待った方がいい。
それを、この仕事で何度も学んできた。
「でも。」
陽菜はノートの表紙を撫でた。
「途中までしか書けなかった。」
「どうして?」
その問いに、少女は首を横へ振る。
「分かんない。」
「書こうとすると。」
「ここで止まっちゃう。」
胸の前で、手を止める仕草をした。
「思い出せないの。」
ノートを開く。
一ページ目。
七月二十一日。
今日から夏休みです。
朝顔が三つ咲きました。
二ページ目。
おじいちゃんと虫取りへ行きました。
三ページ目。
スイカを食べました。
文字は元気いっぱいで、絵も添えられている。
だが。
八月三日のページで、文章は突然途切れていた。
今日は、おじいちゃんと――
そこまでだった。
その先は真っ白。
次の日も。
その次の日も。
最後まで、一文字も書かれていない。
アオイが首をかしげる。
「書く時間がなかった……というわけではなさそうですね。」
「毎日机には向かったの。」
陽菜が答える。
「でも。」
「何を書こうとしてたのか。」
「思い出せなくなっちゃった。」
その時。
さくらが、そっとノートを見つめる。
「泣いてる。」
陽菜が驚いて顔を上げる。
「え?」
「このノート。」
「泣いてる。」
部屋が静かになる。
老人は何も言わず、ノートをゆっくり開いた。
そして、そっとページに手を添える。
紙は少し波打っていた。
まるで、一度だけ大粒の涙が落ちた跡のように。
老人は陽菜へ静かに尋ねた。
「八月三日。」
「何か、大きな出来事がありましたか。」
陽菜は考え込む。
長い沈黙。
やがて、小さく首を振る。
「……覚えてない。」
その答えは、嘘ではなかった。
本当に思い出せないのだ。
その瞬間。
白紙の本が、机の上でひとりでに開いた。
しかし今回は文字ではない。
一枚の押し花が、ページの間からふわりと滑り落ちた。
淡い紫色の、小さな花。
誰も触れていないのに、部屋いっぱいへ優しい香りが広がる。
陽菜は、その花を見つめて目を丸くした。
「……あ。」
ほんの一瞬。
何かを思い出しかけたように、その瞳が揺れる。
けれど次の瞬間には、また静かに首を傾げていた。
トワは押し花を拾い上げる。
それは、記憶を取り戻す魔法ではない。
ただ、「忘れてはいけない何かがある」と、静かに知らせる小さな道しるべだった。
窓の外では、夏の風が記憶樹の葉を揺らしている。
さらさらという音は、まだ名前のついていない物語の始まりを告げるように、優しく部屋へ響いていた。