徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
ドアを開けた和樹は目を丸くした。玄関に立っていた恋人が愛らしい衣装に身を包み、少し照れ臭そうにこちらを見上げていたからだ。
「こんばんは和樹さん、トリックオアトリート!」
「これはまた随分可愛らしい魔女さんのお迎えだ」
「和樹さん、ちょっと親父くさいですよ」
「君限定だから良いでしょう」
「あっ開き直った!」
「それで和樹さん、どうですか?」
「え?」
「トリックオアトリート(おもてなしをくれないと、いたずらしちゃうよ)への返事ですよ」
「ああ。はい、どうぞ。夕べ作ったトリート(おもてなし)です」
「むー。どうしてそう用意周到なんですかぁ」
「あはは、だって今日はハロウィンじゃないですか」
もしかすると何か特別なトリック(いたずら)を用意していたのだろうか。人の良い彼女が考えつくトリックとはどんなものだろう。
そう思いつつケーキの箱を差し出すと、ゆかりがごくりと唾を飲みこむのが分かった。相変わらずゆかりさんは分かりやすいなと和樹は内心にんまりと笑った。
渋々といった顔で箱を受け取ったゆかりだが、その瞳はキラキラと期待に溢れている。
その表情は和樹を満足させた。
彼女は和樹の手料理に弱いのだ。そうして入室を許可してくれたゆかりに続いて、和樹はゆかりの部屋へと足を踏み入れたのだった。
彼女のいれてくれたコーヒーを味わいながら、ケーキを口に運ぶゆかりを見つめる。
去年……は海外勤務中だったから、一昨年か。一昨年のハロウィンは、ただのいち常連客として喫茶いしかわで彼女に会った。その時はこんなふうに彼女と付き合える日が来るなんて想像もできなかった。
思い出に耽りながらも和樹はあることに気がついた。
そういえば一昨年も彼女は魔女の衣装に身を包んでいた。
あの日はモーニングを食べたくて開店と同時に店に飛び込んだ。目の前にあらわれたシースルーの袖と短いスカート丈に「そんな姿で接客するつもりだったのか!」と叱ったのを思い出した。
もしや今年の露出が少ないのは前回の反省からか。
見るのが僕一人なら別に露出が高くても構わないのに……と自分勝手なことを考えながらも、表情には出さずに会話を続ける。
「ゆかりさんはハロウィンの起源をご存じですか?」
「ええと、確か魔除け的な意味があるんでしたっけ?」
「そうですね。古代ケルトでは、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日とされていました。当時は日没が日付の変わり目とされてましたから、10月31日の夜が年の始まりになるわけです。この日は収穫祭である一方、黄泉の国から先祖が帰ってくる日と考えられていました。日本で言うところの彼岸でしょうか。ところが黄泉の国の門が開くとき、先祖だけでなく悪い霊まで家に訪ねてくるとしたら……ゆかりさんならどうします?」
「ええっ? うーん、なんとかお帰りいただきたいですけど、どうしたらいいんでしょう……」
「当時の人たちは、自分たちも魔物のふりをして魔物の攻撃をかわそうとしたんだそうです。その習慣が残ったのが今のハロウィンと言われています。住民達は皆それぞれ魔物の仮装をして、近所を訪ねて言うんです。『おもてなしをしないと、いたずらをするぞ』と。訪ねられた側は魔物におもてなしをしてお帰りいただくわけです」
「あら、それって何だか豆まきに少しだけ似てますね」
よくある豆まきは鬼を豆で追い払うのだから、日本の習慣の方が少しばかり過激かもしれない。
「そうですね。世界のお祭りや儀式というのは、どこか似通った意味合いを持つのかもしれません」
「なるほど~」
「ところでゆかりさん」
「はい?」
「Trick or Treat」
流暢に発音してにやりと笑う和樹に、ゆかりはふふんと笑みを返す。
「まさかこの流れで私が用意してないなんてこと、あると思いますか?」
「まぁないでしょうね」
「はい! 私から和樹さんへのトリートです」
「チョコレート?」
「食べてみてください」
そう言ってゆかりが差し出してきたのはデコボコとした白いチョコレートバーだった。ゆかりの表情はいたずらっ子そのもので、和樹は僅かに警戒した。いや、ゆかりが和樹におかしなものを食べさせるなどありえないと分かっている。分かっているが警戒してしまうのは職業病みたいなものだ。
「ほら早く早くっ」
「分かりました。じゃあゆかりさんに食べさせて貰おうかな」
「良いですよ?」
和樹がそう告げてもゆかりが動じる様子はない。やはり気のせいか。和樹は一瞬でも彼女を疑ってしまったことを自嘲しながらその小さな唇に白いチョコバーを一本押し込んだ。
「ん」
そうしてすぐさま自身の唇を重ねる。瑞々しい唇を割るとホワイトチョコレートとナッツの香りが鼻をつく。そのまま舌を絡ませる。
バチッ。
口内で弾けた刺激に思わず絡めた舌を離した。珍しい和樹の態度に、ゆかりはにんまりと笑みを浮かべてこちらを見上げた。
「へへ、びっくりしました? このチョコレート、中にパチパチキャンディが入ってるんです! 作り方は簡単で──」
にこにこと笑うゆかりはいかにも得意げだ。
なるほど、ゆかりが用意していたトリートはそれ自体がトリックだったということか。恋人のあまりにも可愛らしいトリックに和樹もまたくすりと笑みを漏らした。が、それはそれ、これはこれである。
「トリートをあげた恋人にトリックを仕掛けるなんて、悪い魔女ですね?」
「ひえっ」
低く囁くと慌てた様な声音が返ってきたが、その瞳は期待に濡れていた。
「……本当に。この僕を誑かすなんて、悪い魔女だ」
再び重ねた唇はすんなりと開かれた。口付けを深めると、舌の付け根まで絡ませていく。バチバチと口内でキャンディが弾ける。
黄泉の国の人間など、この家に入れさせてなるものか。それくらいならばいっそ──
「さぁトリックを楽しみましょうか?」
恍惚とした顔のゆかりが頷くのを確かめると、和樹はゆっくりと彼女を押し倒した。