徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
今年初めての営業は、例年通り、商店街の常連でいっぱいとなった。もちろん、近所に住む飛鳥とその両親もすっかりおせちに飽きて喫茶いしかわのサンドイッチを楽しみにしていたので、早々にやってきた。
ゆかりの割烹着姿は、常連客からたいそう評判が良かった。
なによりも、初詣にも同行した青年からの評価が一際高かった。
動きやすいからと、店内では草履から靴に履き替えてしまったが、それもまた良しと無駄に褒められて、ゆかりは逆に「どうしちゃったの」と困惑しきりだ。
「ゆかりちゃん、今年もすっごくかわいいわぁ」
「ありがとうございます。嬉しいけど、みんなお年玉代わりに褒めすぎですよ」
「嘘じゃないわよ。ね、飛鳥ちゃん」
「うん、すごく似合ってるよ。和樹さんが写真撮りたくなる気持ちも分かるなあ」
飛鳥はカウンターの中で携帯を構える和樹を見た。
「ああっダメだって言ったじゃないですか!」
「いえいえ、これは残すべき価値のあるものです」
「そういう問題じゃないし、こんな格好にそんな意味も価値もありません。データ消去を命じます!」
「拒否します」
「もーさっき着物姿撮ってくれたのは嬉しかったけど、割烹着なんて別にいつでも着れるのに」
「私、割烹着はずしたところも見たいな」
飛鳥の母が言うと、ゆかりは「え、そう?」と嬉しそうに割烹着を外そうとした。と、「僕が」とゆかりの手に重ねるように和樹が後ろの紐を解いていく。
「ありがとうございます和樹さん」
多分、二人にとってはなんてことのない日常なのだろう。
いつもの喫茶いしかわのエプロンだって、ほどけかけているのに気付いて結びなおしているのを見たことがある。
だが。
見てはいけないものを見てしまった気分になるのはなぜだろう。
飛鳥が隣を見ると、母は頬を赤くして二人を見ているし、逆隣では父が複雑そうな顔で見ていた。
「わあ! 着物姿も可愛いっていうか奇麗!」
「お、こりゃあ去年とは違ってまたいいな」
「ね、ゆかりさん。今年も一緒に撮ってもらっていいですか」
カウンターから出てきたゆかりの隣に、飛鳥の母はささっと並ぶと和樹にガラケーを渡して「お願いします」と笑顔を作った。
数枚撮った和樹は、手を差し出す飛鳥の母に気づかずそのガラケーをじっと見つめている。
「和樹さん?」
「あ、すみません。……奥さん、去年の写真も残ってたりします?」
「画質あまりよくないですけどありますよ、見たいならどうぞ?」
「見たいです」
にっこりと笑顔を向けられて、飛鳥の母はなぜかたじろいだ。
「どうしたの、お母さん」
「う、うん、今和樹さんからすごい圧を感じちゃって」
「へー……」
真剣な顔で飛鳥の母のガラケーを操作するその手つきに怪しいところはないし、どうやらまったくの私心でゆかりの写真を物色しているようだ。
目当ての写真を見つけたのか、満面の笑みでゆかりを褒めている。
大丈夫なのかなと思いつつ、飛鳥は頭を振った。
六日目にもなると、正月気分はどこかへ消え去り、街も黒いコートをまとったサラリーマンが闊歩する日常が戻ってくる。
三日前よりも気温が下がり木枯らしの舞う街なかを喫茶いしかわ目指して歩きながら、和樹は吐く息で手を温めた。
ゆかりを撮ったデータは、ゆかりに転送した後、ロックをかけて保存した。彼女があまりにも美しかったからだ。
暖かくて、美しい。
自分の命を懸けても守りたいと心から願う、大切に思う美徳を集めて形作ったような、そんな気すらした。
「なんです、それ」
「七草です」
和樹がドアベルを鳴らして店に入っていくと、ななくさなずな、とリズムよく口ずさみながら、ゆかりがまな板を叩いていた。
「いらっしゃいませ。外寒かったでしょう? 座って座って。いつものコーヒーと日替わりランチでいいですか?」
ちらちら降る雪の中やってきた和樹のために、手を止めるとゆかりはカップを棚から取り出した。
コーヒーを用意するゆかりの横のまな板に、青菜が重ねられて、くたっとしていた。
「七草がゆですか」
「そう、明日のモーニングに少しずつ付けようと思ってるんです。あ、和樹さん、明日からしばらく出張でしたよね? 今作ってる分を試食がてら食べてくださいね」
もちろんお粥だけじゃ足りないでしょうから、普通にランチも作りますよ。
和樹を安心させるように笑って、ゆかりはコーヒーのカップを差し出した。
渡されたカップから伝わる、熱いほどのぬくもりは、凍えた手をじん、と温めていく。
「温かいな」
「ふふ、髪の毛まで冷え切ってる」
カウンターに座っているせいで、立っているゆかりのほうが視点が高い。ゆかりは、凍り付いたように冷たくなり雪の粒が溶けきっていない和樹の髪に目を向ける。
そのいたわるような目線が、なんだかくすぐったかった。
「さっきの、歌」
「ああ、七草粥の歌ですね」
「そんなのがあるんですね」
「小さいころ祖母が歌うのを聞いて覚えたので、正確じゃないかもしれないんですけどね。動画サイトにも載ってるらしいですけど、今は確認できないのでうろ覚えのまま進めちゃいました。本当は、今日二十八回、明日の朝二十一回歌いながらすりこぎで叩いた七草でお粥を作るらしいんですが、さすがに無理なので雰囲気だけ」
包丁の背を見せる。
「なるほど」
「この歌続きもあって、私、最後の部分がすごく好きで、ついついノリノリで歌いながらめちゃくちゃ叩いて原型をとどめなくしたことがあるんですよ」
その年のお粥は兄から「ミドリモ」と名付けられた。ひどいと思いませんか、と問われて和樹がコーヒーを吹き出しそうになったのは仕方ないだろう。
「和樹さんもひどい」
「僕のお粥はミドリモにしないでくださいね」
「腐海にしてやる」
ハハハ、と和樹が楽しそうに笑うと、ゆかりはぷんとむくれた。
生姜焼きとともに出された七草粥は、とてもやさしい味がした。
◇ ◇ ◇
まもなく深夜という時間。
玄関の扉を開けると、キッチンから懐かしい歌が聞こえてきた。
タタタ、と白い塊が和樹の足元に駆け寄ってきて座り込んだ。
「ただいま、ブラン」
愛犬に三日ぶりの帰宅の声をかける。
どうやら歌声の主は玄関が開いたのに気づいていないようだ。
「ただいま」
「え、おかえりなさい! やだ気づかなかった、ごめんなさい」
ご機嫌にまな板を叩いていたゆかりは、パッと顔をあげるとストンと包丁を落とした。
「うわっあぶなっ」
「え、あ、やっちゃった」
「ゆかりさん」
「ごめんなさい、勢い余っちゃって」
ヘヘヘと笑って、ゆかりは床に落ちた包丁を拾い上げた。
「怪我はない?」
「うん、大丈夫」
ゆかりは手を洗うと、キッチンの中に入ってきた和樹に抱き着いた。
「おかえりなさい、和樹さん」
「うん、ただいま」
ゆかりを抱きしめながら、その頭越しにまな板の上の青菜を見て気づく。
「そっか、明日は七草粥か」
「和樹さん帰ってきてくれてよかったー。危うくミドリモ再現するとこでした」
すっかりくたくたになった青菜に、ゆかりは気づいていなかったようだ。
「うん、楽しそうだった」
歌が聞こえていたことを悟ったのか、ゆかりは恥ずかしそうに和樹の肩を叩いた。
「明日の朝が楽しみだ」
「和樹さん、明日の朝はゆっくりできるの? あ、おなかすいてる? ごはん食べる?」
「ゆかりさん、落ち着いて」
和樹の腕の中から抜け出そうとするゆかりを、笑いながらまた腕の中に囲い込む。
「明日は何もなければ丸一日休みだよ。ごはんよりも今はゆかりさんを堪能したい」
「ええー……でも、私も」
ゆかりも、和樹の背をぎゅっと抱きしめた。
「怪我とかしてませんか? 目の下のクマさんが大変なことになってますけど……」
「どっちかというとデスクワークが多かったから……疲れたよ」
「お疲れ様でした。お風呂、入ります?」
「ゆかりさんと一緒に入る」
言ってみただけだ。
ゆかりはもうパジャマを着ているし、シャンプーの香りも強いから風呂も済ませていると分かっている。
だから、ただちょっと言ってみただけだ。
「……仕方ないですねえ」
「え、ホントに?」
思わずガバッとその肩を抱いて離すと、ゆかりは真っ赤な顔で和樹を見上げた。
「私だって和樹さんと一緒にいたいんです」
ゆかりはくるっと背を向けると、まな板の青菜をタッパーに詰め始めた。
「お風呂、用意しますから、ちょっと待っててくださいね」
ささっと水回りを片付けると、ゆかりは頬を染めたまま和樹の前を通り抜けてバスルームに向かった。
げにげにさりげなきようにて~と七草の歌の続きを歌う磨りガラス越しの歌声に、和樹は待ちきれずに後を追った。
翌朝の七草粥が果たして朝に食べられたのかは、二人と一匹だけが知っている。