徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
メッセージが届いたのは、昨晩遅くだった。
>>明日の勤務は?
それだけ。
「いつだって君の事考えているよ」とか「大好きだよ」とか「会いたい」なんて歯の浮くようなメッセージは、和樹さんに望むべくもなく、せめて「ずっと連絡できなくてごめん」とか「元気だった?」とか「僕は無事」くらいの気遣いがあってもいいんじゃないかなと思うけれど、言ったって「忙しいから無理」と言われてしまうだろうと、ゆかりももう、諦めの境地だ。
だから返したのは
>>遅番です
この四文字。
四文字だけ。
たった四文字。
いや、仮にも彼女がこんなそっけない業務連絡のようなあまりにも短いメッセージを返すなんて、男性からしたら可愛げがないとがっかりするのかと思ったり、でもここでブランくんに雰囲気の似た可愛い犬のイラストの「会いたいワン」なんてスタンプを押したら重いと引かれるかもとスマートフォンを片手に悩んでいると、あっと言う間に既読が付いてしまった。
え? 早くない?
慌ててスタンプを送ろうとするのに、向こうの方が上手だ。
>>午前中時間が取れた。
>>xx公園に9時。
はいはい。
明日は遅番なら、今夜は夜更かしして映画を観ようとか、朝寝を楽しもうとか、溜まった家事を片付けようとか相手が思ってるなんて考えもしない。自分の都合ありき。これってどうなの? 男って皆こうなの? それとも和樹氏だけがこうなの?
男性と付き合った経験がないまま、なぜかスーパーハイスペックイケメンが彼になっ(てしまっ)たゆかりには、恋人たちの普通がまったく分からない。
溜息を吐きつつ、せめて可愛い女子感を出すために愛嬌のある猫ちゃんスタンプを送った。
>>了解ニャ
指定した公園は、職場にほど近く、かと言って同僚が休憩に訪れるほど近いわけじゃない。
小さくもなく、大きくもない普通の公園だが、中央にある噴水が、夏季限定でだがちょっとした人寄せになっていた。
毎時ごとに水の出る場所、角度、勢いが変るパフォーマンスがあり、最初にそれを見た時にはゆかりはとても喜んだ。
真夏の強い日差しに水しぶきが反射してきらきら光り、「きれい」とうっとり見ている大きな瞳にその輝きが映って、「きれいなのは君の瞳だ」と言ってしまった――心の中でだが。
そんな噴水も、真冬の今は、申し訳程度にしょぼしょぼと水が出ていて、ベンチに座ってそれを見ている彼女も背を丸めている――寒いからだ。
和樹が息を切らしてそこへたどり着いたのは、十時。
すでに待ち合わせ時間を一時間オーバーしている。
彼女の事だから、待ち合わせ時刻前には到着していただろうから、おそらく一時間以上は待たせている。
「ゆかりさん、ごめん!」
それでも、自分を見る眼差しに、怒りとか非難の色がないことにホッとする。まあ、諦観の色はあるかもしれないけれど。
「和樹さん……走って来たの?」
「うん……遅れてごめん。出がけにお偉いさんに呼び止められて、今から急用で出るって言ってるのに、すぐ済むからって……お前の話がすぐ済んだ試しはないだろって言えないし」
「あらら」
「遅番だって言ったって、ゆかりさんもそんなにゆっくりできないのに……済まなかった」
彼女は「まだ大丈夫。それから、お久しぶり」とふふっと笑う。
遠慮なく隣に腰を下ろし、「うん、久しぶり」と手を取る。手袋を脱がせてから。
「どこか行く?」と指を絡めたり、手のひらを押したり、握ったりと悪戯しながら訊くと「だって……和樹さんこそ、そんな時間ないでしょ?」と返ってくる。
「そうだな……カフェくらいなら」
「あ、じゃ」
と、彼女が言いかけた時だ。
ふいに胸のスマホがバイブし出す。
握った手にその振動が伝わったらしく、彼女はピタリと口を噤んだ。
舌打ちを堪えディスプレイを見ると、長田だ。
あいつ、僕がゆかりさんと会っていること知っているくせに!
話の長い上司から解放された後、長田に「少し出てくる」と伝えたのだ。
「どちらまで?」
「いや、ちょっと」
「ちょっと――どちらまで?」
「スマホは持ってる。いつでも連絡してくれて構わない」
「ゆかりさんですか?」
長田がメガネをくいっと上げるから、蛍光灯の光が反射して彼の目の表情が読めない。
それで、良かった。
驚かれたら腹が立つし、呆れられたら腹が立つし、感心されたら腹が立つし、理解されたらやっぱり腹が立つ。
「そうだ」
「珍しいですね……こんな時間に」
「彼女、遅番なんだ。悪いけど会いたいって言ってきて、我がままで困るよ……すぐ戻る」
「それも珍しい――なるほど、今日はバレンタインですね」
和樹は驚いた様な振りをする。
「あ、そうか。だからか」
「おそらくそうですね。今日も会えないだろうと思って、それでも渡したいものがあるのでしょう」
ここで長田は、和樹の冷静な鑑識眼が曇っていなければ、鋭い観察力が鈍っていなければ、おそらく、いや間違いなく、いやいや絶対と言ってもいいだろうが、羨ましいといった表情を見せた。ふふんと思ったが、もちろん、表情には一切出さず、「なんだ、そんなことで呼び出したのか……しょうがないな」と独り言のように呟く。
長田は「では、お早めにお帰りください。午後からの会議のレジュメをチェックしていただきたいので」とだけ告げると廊下を去って行ったのだった。
それでもバイブし続けるスマホを無視するわけにはいかず、渋々ゆかりの手を離し、画面をタップした。
ベンチから離れながら、「はい」と不機嫌さを隠すことなく会話する。
『お取込み中の所、申し訳ありません』
「ああ、構わない」
『緊急ではないと思うのですが、Zについてお知らせしたいことが』
「電話ではダメか」
『そうですね……込み入っておりますし』
「分かった。ではカフェ・ローズで三十分後に落ち合おう」
『了解です』
会話を終え、ゆかりの元へ戻ると、彼女は困ったように微笑んだ。
「お仕事でしょ?」
「うん、ごめん。呼び出しておいて、遅刻してきて、さっさと帰らなくちゃだ」
「そうなるだろうなって思ってました――はい」
ゆかりは傍らに置いてあった紙袋を差し出してきた。
「――えっと」
和樹が戸惑ったのは、その紙袋がどう見ても有名洋菓子店のものではなく、どう見ても有名ご当地キャラの顔が大きくプリントされていたからだ。はっきり言って(そりゃ可愛いけれど)全然おしゃれじゃない。あ、もしかして手作り……?
「お弁当です」
「え?」
「おにぎりと唐揚げと卵焼きの定番ですけど」
「あ……それは」
「あ、きんぴらとポテトサラダも入ってますよ」
「え……ありがと」
「いえいえ。おにぎりは鮭とおかかと梅干です」
「あの、ゆかりさん?」
「はい?」
「いや、その、今日って……」
「大丈夫。怒ってません」
「うん、あの」
「もう、しょうがないなあ」
ゆかりは、ベンチからぴょんと立ち上がると、爪先立って和樹の頬にそっと口付けた。
暖かくて柔らかなそれは、ほんの少しだけぬくもりを和樹の頬に残した。
午前中の公園、寒いけれど青空の元、彼女からそんなことをされたのは初めてだ。
和樹は、思わず固まってしまう。
「お仕事頑張ってくださいね」
「うん……あ、駅まで送る」
「はい。ありがとうございます」
彼女の右手を掴むと、和樹は、がっかりしていいのか、喜んでいいのか、自分の気持ちを整理できないまま、駅までの道を歩き出した。
ご当地キャラの紙袋を開けられたのは、結局二十三時を過ぎてからだった。
あの後、午後の予定はがらりと変わってしまった。
処理することは無数にあり、会議室には怒号が飛び交い、書類が散乱し、緊急電話はひっきりなしにかかって来るし、お偉いさんたちは怒鳴り込んで来るしで大混乱だ。
和樹は自分で自分を褒めていいだろうと思うくらいに仕事をした。そして、明日から作成する書類の多さにうんざりだ。
紙袋から出てきた使い捨て容器に入っているのは、当たり前のお弁当だった。
ほっとする。
おにぎりと唐揚げ、卵焼き。
今日の卵焼きは出汁巻きじゃなくて、甘いほうだ。
疲れている体に糖分が沁み込んでいく。
「美味い」
この時間に、こんなに食べていいのかという疑問を空腹は凌駕する。
割り箸を動かし、ガツガツと食べる。
隣のデスクでは長田がとうとう寝落ちしており、他のメンバーも仮眠室へ移動したようだ。
室内の灯りは既に落とされ、和樹もこれを食べたら少し寝ようと考えていた。
「ん……なんだ?」
あらかた食べ終えてた容器の底に、何かある。
ファスナー付きの小さな密閉袋だ。
中には小さな封筒……?
最後のきんぴらを咀嚼しながら、和樹は箸で密閉袋を摘まみ上げ、ファスナーを開ける。
封筒の中には小さなカードが入っていた。
カードを開こうとして、ふと手が止まった。
きんぴらをごくんと呑み込んだ。
なぜか心臓が早鐘を打ち出す。
今日がバレンタインだと知らないはずがない(なぜなら喫茶いしかわは、バレンタイン当日、お客様にチョコレートサービスをしているのだ)彼女からのメッセージ。
もしかして、最悪の言葉が綴られているのか?
三行半。
和樹の脳内にそんな不吉な言葉が浮かぶ。
いや、それはないだろう。
今朝を思い出してみろ。
あっちからキスしてくれたんだぞ。いつになく積極的だったじゃないか。
待て待て、頬にキスって、今時幼稚園児でもするだろう。知らないけど。お前らいくつだ?
しかもだ、男の方はいつもいつも仕事だ仕事だと髪はボサボサ、スーツはよれよれ、それを免罪符に彼女をほったらかしにすること甚だしく、それなのに、さあ今日はバレンタインだぞ、チョコレート寄越せとばかりに無理やり彼女を呼びつける身勝手さ、片や花が満開になったかのような美しさ、そこにいるだけで周りが暖かくなるような可愛い女性は、そんな男に文句も言わずいつでもにこにこ笑ってくれるって、もう、天使じゃないか、それ?
その天使からのメッセージだ。
一体何が書いてあるのか。
うわ、怖い。
でも、開けないわけにはいかない。
和樹は、意を決し、そろりそろりと開けていく。
長田はガタガタという音で目が覚めた。
重い頭をなんとか動かし、起き上がる。
「あー……和樹さん?」
「おう、長田、お早う」
和樹は、パソコンを閉じ、靴を履き替えているところだった。
「え? もう朝ですか?」
「まさか。まだ午前様になったところだ。仮眠室行けよ」
「ああ……和樹さんも行かれるんですか?」
「いや、帰る」
「え?」
「なんだ、帰っちゃいけないのか」
「いえ、珍しいなと」
そこで和樹は、一瞬考え込む表情をする。
「――ああ、そうだな。帰ってシャワー浴びて、一瞬だけ寝たらすぐ戻る」
「だったら、仮眠室の方が」
「いや、忘れ物もあるし」
「忘れ物?」
「ああ――チョコレートケーキ」
「え?」
「じゃ、お疲れ」
和樹は、背広を羽織り、カバンとコートを持つと大きな歩幅で颯爽と部屋を出て行く。
残った長田は、なんだか分からないが、まあ、どうせゆかりさんのところへ行ったんだろうなと思いつつ、大きな欠伸をしてから再び机に突っ伏すのであった。
あのね、食後のデザートは、チョコレートケーキです。
欲しかったら、冷蔵庫に入っているので食べてくださいね。
どこのって?
もちろん、うちの冷蔵庫です。
どうせもう、真夜中でしょ?
お休みなさい。
ゆかり
PS.ちょっと寂しいワンってブランくんが言ってます。