徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
僕の恋人は煙草が嫌いだ。吸うと必ず気付いて不機嫌になる。
他の誰が吸っていても穏やかな笑顔で見ているだけなのに、僕が吸ったと気付くとむぅっと表情を曇らせる。
何度も何度もアタックすれど、とてつもないスルー力とフラグクラッシュ力を発揮され、僕の気持ちに気付いている周りにも散々協力してもらって、ようやく彼女になってくれた愛しい人に、イヤな思いをさせたくない、嫌われたくない。
そう思って、できるだけ煙草を減らしていた。
それでもたまに、どうしてもと吸ってしまう日がある。
今日がそんな、とんでもないストレスの溜まる仕事や会議が立て続けに入っている日だった。
今日は彼女が家で手料理をふるまってくれる日だというのに、うっかり吸ってしまったことに気付き、帰る前に消臭剤などを使って一時間ほどかけて臭いを消していく。
それでも多少はスーツや髪に臭いがまとわりついているかもしれないが、会議で周りのやつらが吸っていたとごまかそう。
これだけ対策すれば、きっとバレないはずだ。大丈夫、大丈夫。
「ただいま」
「お帰りなさい。今日は早かったですね」
「それはもちろん、可愛い君と少しでも長く過ごしたいから」
「またそういうことを恥ずかしげもなく……ごめんなさい、夕食はもう少しかかりそうなの。煮物にまだ味がしみてなくて。お風呂は沸いてるから、そっちが先でもいいかしら」
「じゃあ、先にお風呂いただくよ」
「うん。上がってくるまでには完成させるから」
先にお風呂を勧められたので、これ幸いと念には念を入れて、髪も身体もしっかりと洗い流す。
これでもう、煙草の臭いは残っていないはず。
「ふう。いいお湯だったよ。ありがとう」
「そう、良かった。ごはん、もうできてますよ。ふふっ、今日のは自信作! 早く食べよう」
「……その前に」
彼女を抱き寄せ、ちゅっとリップ音をさせ、軽いキスを交わす。
驚いてのけ反ろうとする彼女の身じろぎで、もっと……と僕のスイッチが入ってしまう。
彼女の腰と首を固定するように抱き寄せ、幾度も唇を啄んで、少しだけ深い口付けを交わす。
「んっ……ふぅ……」
吐息を漏らしながらおとなしくキスを受ける彼女の力が緩んでいく。
存分に彼女の唇を堪能して満足した僕は、ようやく首に添えた手を放し、両手で彼女の腰を支える。
「ふふっ、ただいまのキスがまだだったからね」
笑顔で告げた僕が見たのは、潤んだ瞳で僕を睨む彼女だった。
「また煙草!」
これでもバレるのか!?
そんな驚きとともに、僕以外の喫煙には寛容なことへの不満が湧き上がってきた。
「……どうして僕だけなんですか?」
「何が?」
「煙草ですよ。他の人がどれだけ吸ってても何も言わないじゃないですか」
「そんなの当たり前でしょう」
呆れたように言われた。何が当たり前なんだ?
「だって、他の人とはキスなんかしないから」
「……え?」
キスする時の煙草の味がどうしても受け付けなくて嫌いなのだと説明された。
なんということだ。
つまり煙草のせいで僕とのキスが楽しめないのが嫌だという……。
僕は思わず彼女を強く抱きしめ、肩口に顔を埋める。
「わっ……どうしたの?」
僕の背中をポンポン叩きながら、優しく聞いてくる彼女。
「すみませんでした。もう絶対煙草はすいません」
「うん。そうしてくれると嬉しい」
彼女は、今度は頭を撫ではじめた。
僕は顔を上げ、彼女をまっすぐ見て言う。
「だから……これからは、もっとたくさんキスしましょうね! あなたが立っていられなくなるくらい!」
「……はぁ!?」
呆気にとられた顔で僕を見ている。
「いや~、まさかあなたがそれほど僕とキスするのが好きだとは気付きませんでしたよ。煙草を吸ってしまった今日は我慢しますが、明日から覚悟してくださいね! 僕、がんばりますから!」
にこやかに宣言すると、慌てだす彼女。
「ちょっと待って! そんなこと頼んでませんよ! がんばらなくていいから!」
大好きな彼女が煙草を嫌う理由がわかると、やっぱりどうしようもなく可愛くて。
キスを拒絶されたくない僕は、もう絶対に煙草には手を付けないと、固く誓った。