徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「じゃ、帰りましょうか。はい」
立ち上がり、差し出された大きな手が優しい。ただただくすぐったくて、何も考えずに右手を重ねる。
次の瞬間。ひょいっと引っ張られて腰に腕を回される。「よっ」という声とともに、自分の体がくるりと反転した。
「え、えええっ!? か、か、か、和樹さんっ!?」
ふわりと体が軽くなる。いとも簡単に持ち上げられたわたしの目の前には端正な顔。白いシャツの広い胸板にわたしの身体が密着している。ち……近い。近すぎる。ていうか、これはお姫様抱っこだ。あまりの予想外な展開に驚愕する。こんなこと、小さい頃お父さんにされた記憶しかない。
「おっ、下ろしてください! じ、自分で歩けますからっ。大丈夫ですからっ!」
「まだ痛むんでしょう。大丈夫ですよ。絶対落としませんから。僕意外と筋肉あるんですよ」
「じゃなくてっ! そのっ、わたし重」
「くないですよ。全然。むしろもっと食べた方がいいですよ、ゆかりさんは」
足をバタつかせるがびくともしないホールド感と安定感。確かに、背中とふくらはぎに回る太い腕は硬くて筋肉質なのを感じる。見上げた顔は茜色の夕日が差すせいで濃く影ができている。見慣れたイケメンのはずなのに、いつもより男らしく見えてしまう。ともすればそこらの女の人より綺麗な甘いマスクだから普段は意識していなかったけど。浴衣越しに伝わるわたしより高めの体温が、「男の人」だということを嫌でも感じさせる。わちゃわちゃと頭の中がパニックになる。あ~とかう~とか言葉にならない声が出る。
「ははは、役得だなあ。まあ、こんなときくらい甘えてくださいよ。誰も見ていないんだから。あんまり暴れると危ないですよ」
それを聞いてむぐぐ、ととりあえずおとなしくする。ものすごく居心地が悪いのに、嫌な気持ちには、ならない。なるわけない。わたしを軽々と抱えながら、重なった体が歩き出す。一歩一歩、ゆっくりと。ふわふわと慣れない視線をどこに向ければいいかわからない。ふと後ろを見れば、一つになった長い影がわたしたちについてきていた。
「あの、どうして和樹さん、わたしが今日痛み止め飲んでるのも知らないのにその……女の子の日ってわかったんです? それも、予測できたって……周期も知らないはずなのに」
「う……」
和樹がピクリと動いて固まる。
「それは、まあ、なんというか、年の功というか……」
ごにょごにょと、なんだか彼らしくない口調である。
「でも……あれ? 周期どころかそもそも、わたし和樹さんに今までお腹痛いとか一度も話したことないのに。そういえば、先月に今日のシフト決めたとき……」
「まあまあ……色々勘づいてしまうというか……」
「え~そうなんですか。わたしに対してまでこんなに色々気を遣ってくれるなんて、すごい洞察力です。さすがですね~」
「ははは……セクハラになったらすみません」
「そんなことないですよ! むしろありがたいです。……和樹さん、なんだかお父さんみたい」
「は?」
「だって、いつもは穏やかに放任してるのに実はちゃんと見てくれてて。然るべき時は叱ってくれて、すごく色々心配してくれて……なんか、お兄ちゃんよりむしろお父さんみたいだなって。わたし、わりとお父さん子なので、なんか嬉しいです」
「……」
途端、和樹さんの顔が複雑な色に変わってしまった。
「あ、すみません! 気を悪くしたら。あの、悪い意味ではなくて」
「マスターには申し訳ないですが、ちょっと……うーん」
「あの、例えという意味でして」
「いや、それはまあ、わかってるんですが……う~ん」
何やら斜め上を見ながらうんうん唸っている。……しまった。やっぱり気を悪くしたんだろうな。調子に乗って失礼なことを言うのはわたしの悪い癖だ。反省するが時すでに遅し。どうしようと眉を寄せていると、和樹さんの綺麗な瞳がわたしを見つめているのに気付いてドキリとする。
やっぱり、前髪がかかりそうなほどの距離は、近すぎる。ばくばくと早鐘を打つ心臓がうるさい。もう……大きすぎる鼓動の音、この人に聞こえちゃってるかもしれない。なるべく平静を装おうと垂らした髪を直してみる。もう、ポーズなんて取ったところでいまさら無意味だろうけれど。
「ゆかりさん」
「は、はい?」
「僕は男ですよ」
唐突な言葉にきょとんとしてしまう。
「あ、はい。知っています」
「ゆかりさんのお兄さんでも、ましてお父さんじゃありません」
「はい。大変失礼しました。その通りですね」
「……う~ん……」
「……え?」
「……いや、やっぱり、何でもないです」
ぷいっとそっぽを向かれたので、拍子抜けする。何のことやらと気になってしまう。
「え? え? 何ですか? なにが言いたかったんですか?」
「いやいや、ま、とにかく、もう無茶はしないでくださいねってことですよ」
「え~?」
なんだろうか? お父さんみたいと言ったことを怒っている訳じゃないみたいだから、とりあえずホッとしたけれど。でも、無茶するなと言われたら、わたしにも引っかかることがある。
「あの。和樹さん、我儘ついでにふたつ、わたしからもお願いしていいですか?」
「ん? なんですか?」
「ひとつは、和樹さんもきつい時はちゃんと休んでください」
「え? 休んでますよ?」
「そうかしら? 和樹さん、たまにお店ですごく疲れた顔してますもん。あくびを我慢していたり、顔色悪いのに「普段通りだ」って言ってごまかしたり。隠していてもわかるんですよ。そんなときは、無理しないで。バックヤードお貸ししますから、仮眠取るなどして休んでくださいね」
「……わかりました」
和樹さんが何だかくすぐったそうな顔でわらう。
「じゃ、ふたつめは?」
ちょっぴり悪戯そうな顔が傾く。また、近すぎるんだから。困る。わたしの気持ちの逃げ場がなくなる程に近い距離。
「ふたつめは……あの……その」
「ん?」
聞いてみたい。怖いけれど。先ほどの「浴衣なんて」の言葉を思い出す。
わたしは意を決しておずおずと顔を上げる。
「これ……やっぱり、……変。でしたか……?」
藍色の袖をくしゃりと掴む。きょとりとした少年のような顔が途端に大人の男性の表情へと変化する。このひとにはいったいいくつの顔があるのだろう。もっともっと、たくさんの顔を見せてくれたら、嬉しいのだけど。
下腹部の痛みなんて、とっくに消え去ってしまった。代わりに、どんどん鼓動が早くなってしまう。ドキドキしながら、でも、まっすぐの瞳を逸らさないように次の言葉を待つ。きっと私の顔は情けないへの字口だ。
わたしの身体を回す腕に、ほんの少し力がこめられるのを感じた。
にっと白い歯を覗かせる。
「惚れなおしましたよ。お姫様」
翌日、わたしたちの様子を物陰から覗いていたという近所の子供たちが早朝の喫茶いしかわを突撃した。しばらくの間、わたしと和樹さんはこれでもかという程なが~い尋問をされたのだった。