徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
大きな自動ドアが開くと、私は迷いなく病院に足を踏み入れた。初日のように、ロビーでエレベーターを探すことはなく、ここ数日通い慣れた道をさくさくと進んでいく。
今日は入院初日以来、喫茶いしかわのシフトが入っていない日だ。
私はいつもの着替えやらタオルやらの荷物に加え、夫婦そろって気に入っている洋菓子店のケーキも携えて夫の病室に向かう。
昨日、喫茶いしかわを退勤してから面会に行ったら、がっつり汗をかいて腕立て伏せしているところを担当看護師に見つかりきつく注意されたと言っていた。わざわざジャージに着替えてまで、だ。しかもそのジャージは、私に言っても怪しんで頼まれてくれないと踏んで、上司の圧力よろしく長田さんに職場の置きジャージを持ってこさせていた。
どうか、今日はおとなしくしていてくれますように。初日とは異なる緊張感をもって、病室の扉をノックする。しかし返事はない。
「……今日もお出かけですか」
結婚してから気付いたけれど、言われてみれば彼は好奇心旺盛で行動的だ。喫茶いしかわの買い出しに協力してくれた時も、いろいろなものに興味を持っていた。その流れで自宅のリビングに鎮座するクマのぬいぐるみの姿も思い出す。
小さく溜息をついて扉を開けてみると、意外にも彼は室内にいた。
窓は全開で、青葉が風に揺れるのに合わせてさざめく音が病室にも流れ込んでくる。冷蔵庫脇の小さなライティングデスクの上には、昨日来たときには見かけなかった小さなノートパソコンとダンベルが2つ置かれている。どうやら部下への命令はジャージだけに留まらなかったらしい。彼はベッドの上に仰向けの姿勢で目を閉じていた。
「寝てる……」
窓から風は絶えず流れ込み、私の下ろしっぱなしの髪を勝手に弄ぶが、彼の髪は意外に靡かない。私はケーキだけ冷蔵庫にしまうと、着替えの類はバッグごと二人掛けソファに置いたまま、ベッドそばの丸椅子に腰を下ろした。
明るいところで彼の寝顔を見るのは初めてだ。彼は隠し事が得意だけれど、入院をしてからは、ちゃんと顔色がいい。
『いらっしゃい。喫茶いしかわお疲れさま』
『聞いてくれよ。今日誰にも見つからないと思って室内でトレーニングしてたら……』
『さっき長田が来て、フルーツを置いていったんだ。食べる?』
一番筋肉の緩んでいる状態が、その人の真顔だとすれば、彼は、すべての力を抜いた時、懸念事項も、懸案課題も、社会的責任も、規律も義務も、すべてを取りさった時、そこに見せるのはこんな柔らかな微笑みの表情なんじゃないか。入院中、そんな風に何度か思わせてくれた。
瞳を覆う瞼から、羽根のように伸びる睫毛一本一本の長さが。呼吸に合わせて、彼の大きな体に似合うゆっくりとした胸の上下が。美しさと強さを兼ね備える、手腕の節々の直線が。
ずっと見ていられる。彼は美しいから。特別心を込めて作られたに違いない、この世界の宝物みたいな人だから。そんな姿を、今、私だけが享受している。
いけないことなんだろうな。
彼の瞼が、一瞬ひきつる姿を見て、どこか咎められている気持ちになる自分がいるのがわかる。こんなこと、思ってはいけないんだろうけど、ちょっと楽しい。不謹慎だけど、少し、愉快だ。ずっと独り占めしようなんてしないから。今だけ。
ハネムーンの間だけは――。
大好きな香りがする。
大好きな人と会うことができる、私の思い出と宝物がいっぱい詰まった、大好きな場所の香り。
芳しい香りに誘われて、私は目を覚ました。いつの間にか、眠ってしまっていた。
「あ、起きた」
生気を薄れさせるほど静謐な眠りについていたはずの夫は、今は細口ケトルを片手に洗面台でコーヒーを入れていた。
「寝ちゃったんだ……」
「三十分くらいじゃないかな。……はい、寝起きの一杯にどうぞ」
「ありがとう」
渡されたコップから立ち上るのは、私が大好きな喫茶いしかわの香りだ。入院翌日、事情を知ったマスターがお見舞いとして持たせてくれたハウスブレンド。
夫は、この病室を訪れる人なるべく全員――昨日きつく注意してきた担当看護師も含めて――にコーヒーを入れてごちそうしているらしい。
「明日の退院が正式に決まったよ」
それは入院当初から決められていた予定通りのスケジュールだった。
「何時退院? 迎えに……」
「迎えはいいよ。午前中に退院だから、長田に来てもらって、会社に顔出してから帰る。明日、喫茶いしかわのシフトはランチまでだよね? 僕が迎えに行くよ」
「……わかった」
この非日常が終わる。わかっていたことだけれど、私の醜さが、それをつまらないと一蹴する。
この数日間、私はあなたのことばかり考えていた。病院の行き帰りも、ブランとの散歩中も、持ち帰った衣類を洗濯してたたむときも。
行けば必ず会えるから、今日の面会は終了でも明日になればまた会えるから、今日早く帰れると連絡をもらっていたのに、やっぱり仕事が入って今日は帰れなくなったと予定が変わることがないから。私の会いたいという気持ちを必ず受け止めてくれるとわかっていたから、安心してたっぷり考えることができた。そんな日々を、嫌いになれなかった。私にとっては、大切な時間だった。
「変わったハネムーンになっちゃったね」
あなたがいてくれることが大事だった。会えなければ、意味がなかった。
「……ゆかりさんは、ハネムーンが全然わかってないなぁ」
「え?」
私はすっかり、社会から少しの間だけ身を潜めて、二人だけの秘密基地に籠った気になっていたが、夫はまったく納得いっていないようだった。
「ハネムーンの意味とか由来とか、調べてごらん」
言われて早速、携帯で検索をかける。ブライダルビジネスの会社が掲載するページがヒットする。
ハネムーンとは?
ハネムーンは英語で「honeymoon」と書きます。古代ゲルマン民族は、結婚後一ヶ月間、はちみつ(honey)で作ったお酒をひと月(moon)飲んで過ごす習慣があったそうです。はちみつは滋養強壮によく、子宝に恵まれると信じられていました。新婚夫婦は、この間外出を控え、子づくりに努めていたそうです。
「ひえ……」
はっきりと「子づくりに努める」だなんて、なんて攻めた記事だろう。思わず頬が熱くなる。
「わかった?」
「か、和樹さん。これって……」
「どこかに行くことが本来の目的ではないし、ただ一緒にいるだけでは意味がない」
そんなのあんまりだ。私はさっき、会えなければ意味がないと、確信したばかりなのに。
検索を始める際に置いた飲みかけのコップをそのまま、彼はオーバーベッドテーブルをベッドから引き抜いて、私の隣に丸椅子を寄せて腰掛ける。私は画面から変わらず送られ続ける微量な光線の甘さに耐えかねて、とりあえず画面をスクロールする。
「に、日本人で初めて新婚旅行に行ったのは、坂本龍馬だって!」
「そうだね。彼は大変な偉人だけど、趣味嗜好の点においては、僕の理解は到底及びそうにないな」
どこかに行くことが本来の目的ではない。ただ一緒にいるだけでは意味がないから。先ほどから変化をしない静かな表情が、一貫した意見であることを訴えてくる。
「そ、そんな……」
「ここじゃおちおちキスもしていられない……」
一層濃いコーヒーの香りに体全体が包まれる。
「明日は時間通りに上がれそう?」
「え……あ、うん」
意図の読めない質問だった。仕事は時給制だ。それは彼もよく分かっているはずだった。
「ときどき、常連さんにつかまったり、新メニューの試作に火がついたりして、上がりの時間が延びることがあるだろ?」
驚いた。夫が帰宅していない日の仕事では、たしかに時間の管理が甘いことがあるが、それを彼が知っているとは思わなかった。先に連絡をもらっているときは、必ず決められた時間で帰っていたのに。
私は戸惑いが隠せなかったが、彼は把握していることを伝えられて満足したのか、余裕のある表情をしながら、再び顔が触れ合うほどの距離に近づいてくる。
「そういうことがあると……」
君をはちみつのなかに閉じ込めたくなるよ。
そうつぶやきながら。