徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
ゆかりさんと共に暮らす家に十日ぶりに帰宅して、美味い手料理の数々に舌鼓を打ち(ゆかりさんの作る飯は本当に美味い)洗い物を終えてリビングに戻ったところで、彼女に呼び止められた。
「和樹さんそこに座ってください」
ソファを指さし固い声を上げた彼女はいつもと違う様子で、おや? と思う。滅多なことでは怒ることのないゆかりさんが怒っている。
といっても全然怖くない。本人は至って真剣なのかもしれないが、もともと柔らかい顔立ちの人なので少し眉が上がろうが、口をへの字に曲げようが可愛く見えてしまうのだ。けれど、どうやらおかんむりの様子と理解して大人しく言われるがままにソファに腰掛けた。
「和樹さん、私に隠しごとしていますね?」
座るのとほぼ同時に、ずいっとこちらに顔を近づけたゆかりさんは僕に疑いの目を向けているようだ。
「へ……? 隠し……ごと、ですか?」
「そうです!」
間髪いれずに「私を侮ってもらっては困ります」なんて声高らかに言うけれど。隠しごと? 僕がゆかりさんに? ……まったくもって身に覚えのないことだ。たしかに自分の仕事の内容は話せないことも多いのだが。けれどそれは仕事の話だし、プライベートで彼女に隠しごとなんてしない。待ってくださいと、意思表示として両手を前にかざして彼女に尋ねる。
「ちょっと待ってよゆかりさん。何のこと?」
「またまたとぼけて! 私が気づかないとでも思いましたか? 上手く隠したつもりでも……この石川ゆかりの目はごまかせません!」
まったく聞く耳を持ってくれない。僕の返事を待たずにゆかりさんは上体を元の場所に戻した。少し頬を膨らませている。怒った顔も可愛いな……真っ先に思ったけれど、口に出したら怒られそうなので黙っておく。
黙った僕を無視して片方の手を腰に当てたゆかりさんは、反対側の手の人差し指を立てて――勢いよく言い放つ。
「ここ! と、ここ! 怪我してるでしょう!」
右脇腹、左腕の順番でビシッビシッと指さして僕を見下ろすゆかりさん。僕はポカンとして彼女を見返した
「へ? ……怪我、ですか?」
「そう! です!」
私は誤魔化されませんからね、と息をつく間もなく言った後でその場にぺたんと腰を下ろす。見下ろされていた視線が移動して、今度は上目遣いで「んもう」なんて言っている。
怪我。たしかに僕は怪我をしていた。といっても軽い打撲程度のものだ。まぁ……いろいろあったのだ。だが内出血も目立たないし、痛みもほぼない。だからもちろん体を庇うような動きもしていないわけで。なのに、どうして。ゆかりさんは気づいたのだろうか。
「……なーんて、ね」
不思議そうな顔をした僕がおかしかったのか、こちらをじっと見つめていたゆかりさんの瞳が緩んだ。
「実はね、長田さんから教えてもらったの」
「長田?」
「四日前に和樹さんの着替え、とりに来てくださったときにね」
「……四日前」
「そう。長田さんに和樹さんは無茶していませんか? ってつい聞いちゃったんです。だって和樹さんメッセージも既読つかないし、心配だったの。そしたら、怪我したって、いうから」
彼女はあっさり降参して種明かしをした。
長田め。よりによってゆかりさんに話すなんてどういうことだ。明日にでもしっかり理由と経緯を説明してもらおうか。
「和樹さーん? 眉間に皺、すごいです」
つん、と眉と眉の間にゆかりさんが触れたので我に返った。
「長田さんは悪くないですからね。隠しちゃう和樹さんが悪いの」
「隠す、ってそんなつもりは」
「和樹さんにとっては大したことない怪我でも私にとっては重大なことなんですよ」
「大袈裟ですよ」
「じゃあ、和樹さんは私が転んで怪我しても“大袈裟”って言いますか?」
「っ……それは……」
思わずラグの上に座るゆかりさんの膝小僧を見つめる。もちろん例えばの話だから彼女に怪我なんてない。けれどもし彼女がいうようにゆかりさんが怪我をしたら――想像して後悔した。
「……ごめん」
「ん! わかってくれればいいんです」
素直に謝った僕に、ゆかりさんは歯を見せて笑ってくれた。垂れ目がふにゃりと緩んだその笑顔は僕が一番好きな顔だ。やっといつもの彼女に戻ってくれて安堵する。
そういえば、ゆかりさんと付き合う前……見える場所に傷を負ってしまった時も、彼女は怒っていたっけ。
『いくら和樹さんが何でもできちゃうスーパーマンみたいな人だって無茶しちゃいけません!』
なんて怒られたのだ。このくらい大したことありませんと怪我の理由を曖昧に誤魔化したのに、彼女は目を真っ赤にして怒ることをやめなかった。
昔からずっと優しいゆかりさん。誰かのために真剣になれる彼女が誇らしくて愛しいと改めて思った。
「ね、和樹さん。嫌かもしれないけどね、怪我、見せてほしいです」
「そんな……見て気分のいいものでは」
「私が気にするとでも思います?」
「しかし……」
戸惑う僕のシャツにゆかりさんの手がかかり、有無を言わさずにボタンが外されていく。
「ちょ……ゆかりさん、ス、ストップ」
彼女に服を脱がされるなんて初めてのことだったので、妙に照れくさくなって華奢な指を止めようと掴んだ。そもそも脱がされるより脱がしたいタイプなので。そういえばゆかりさんの服を脱がすとき、彼女……よく恥ずかしがっているよなぁ。逆の立場になってみてゆかりさんの気持ちが少しわかったような気分だ。何も言わずにゆかりさんはじっと僕を見上げている。
「……自分で、やるから」
沈黙に観念して、シャツのボタンをすべて外し前を開く。指摘を受けた右脇腹の打撲痕はもう薄い。生活に支障のない傷だし湿布も貼っていない状態だった。
けれどやはり他の部分に傷がない分、真っ先に目が行く場所ではあるだろう。痕に目をとめた瞳が悲しそうに歪み、白い指がこちらに伸ばされた。
「いたい?」
「痛くないよ、もう」
「なら、安心しました」
脇腹を愛撫するように撫でられる。彼女の指は少しひんやりしていた。筋肉に覆われたやや浅黒い肌に浮かぶ白がまばゆい。
肌を直に触れられている……しかも服を半分脱がされて。今の今まで意識していなかったのに、気づいた瞬間から妙な気分が湧きあがった。惚れた女性が自分の肌を撫でているのだ。変な気分になるのは仕方のないことだろう。
いつもの自分であれば、彼女の細い腕を掴んで引き寄せて抱きしめて――そのまま押し倒していたかもしれない。けれど今は……ゆかりさんは僕を心配してくれているのだ。さすがにそんな彼女に妙なことはできない。
けれど、このまま撫でられていたら自分の欲が我慢できなくなるのも時間の問題だろう。
「ゆかりさん、これで大丈夫ってわかってくれましたよね」
だから離してくださいと、彼女の指を上から控え目に握った。きょとんとゆかりさんの瞳が瞬く。そして何かをねだるように首をかしげた。
「傷は、大丈夫ってわかりましたけど……」
「うん……だから」
「和樹さんの肌、凄く綺麗で筋肉もすごくて……ちょっとみとれちゃってました」
「え」
僕の掌から抜け出したゆかりさんの指が、今度は腹の上に着地した。冷たい指先に臍を撫でられ、割れた腹筋がぴくりと反応する。華奢な白い人差し指と中指の二本がつつ……と腹の上を跳ねていく。臍を起点に上へ。短く切り揃えられた爪とその隙間を埋める肉の感触に、じわりと汗が浮かぶ。踊る指先は止まることなく動き、胸の下の窪みまで移動したと思えば臍まで戻り…を繰り返す。
僕の腹に触れる彼女の表情はどこか楽しげで、なぜか色っぽく見えた。そう、まるで組み敷かれた時に見せる欲情した顔と同じような。
「ゆかりさん……ちょっと……もう」
「私に触られるの嫌ですか……?」
「いや、そういうことではないんですが」
「和樹さんだっていつも、私の肌たくさん撫でてくれるのに」
「それとこれとは」
「あなただけ……なんて、ズルいです」
ねぇ、和樹さんもっと触っていい……?
膝立ちになってゆかりさんがソファに身を寄せた。僕の腹に指を置いた状態で顔が近付いて、ふわりとキスされる。彼女の唇から欲を受け取って返すように舌を伸ばすと、すんなりとゆかりさんは唇を開いた。
キスをしているとじわじわとゆかりさんの軽い体が乗り上がってきたことがわかって驚きで目を見開く。
慌てて唇を離し、目の前の細い肩を掴んだ。
「……っ……ゆかりさ、ん?」
とろりと潤んだ瞳と半開きの唇。隙間からのぞく舌。やはり僕に押し倒された時と同じ表情でゆかりさんは微笑んでいる。腹に置かれていた指が臍の下に向かって降りて行き、ある場所で止まった。ピクリと体が反応する。
「今日はね、わたし、が」
空いた手で片側のスカートの裾をつまみ、ゆかりさんは淑女がするように上体を倒す。唇が触れる直前に甘い声が耳朶をかすった。
「……和樹さんをきもちよくしてあげたいの」