徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
エプロンを外して鞄にしまい、休憩用に備えられた小さなソファーに座って軽くメイク直しを始める。ティッシュで皮脂をオフして崩れた部分にファンデーションを塗る。少し下がってしまった睫毛をビューラーで綺麗にカールさせ、コーラルピンクのグロスを唇に。髪の毛を櫛でとかして終了。
メイクポーチをロッカーにしまいながらバックヤードに入る直前に見た和樹さんの顔を思いだす。和樹さんの顔は少し焦っていた。きっと意地悪しすぎたと思ったんじゃないかな。意地悪な笑顔を見せたり、一気に焦った顔になったり。
彼と――和樹さんと出会ってから色々な顔を見るようになった。
喫茶いしかわに通い始めた頃は、彼はよく気配を消して溶け込もうとしていて、それ以外のときは常に笑顔を絶やさなかった。ニコニコ。ニコニコと誰にでもいつだって笑顔を向けていた。怒ったり泣いたり、拗ねたり焦ったり驚いたりという顔を見たことはなかった。だからいつも笑顔で素敵だと思う反面、この人はそれ以外の顔を人に見せることが嫌なのかなって思っていた。
そんな和樹さんは突然お店に来なくなってしまった。結局彼の色々な顔を見られなかった。
だけど一年以上過ぎてから再会して、いろんな表情を見せてくれるようになって。お付き合いをするようになってからさらにいろんな表情を見られるようになって。ああ、これが本当の彼なんだ。そう思うと愛しさが込み上げた。初めて見る顔があればそれだけで嬉しさが込み上げた。
笑顔ひとつとっても、貼り付けた営業スマイルと全然違うものを見せてくれるようになった。嬉しいという気持ちが全面に押し出されたものだった。
私たちの関係が始まったあの日から、それまで知らなかった和樹さんの顔をたくさん見てきた。
私は立ち上がりロッカーの方へ行き、ハンガーに掛けている薄手のカーディガンを手に取り、それを七分丈のカットソーの上に羽織る。
そういえば以前、
「和樹さん年上だからすごい甘えさせてくれそうですよね!」
って聡美ちゃんに言われたことがあったな。
たしかに和樹さんは甘えさせてくれる。だけど彼も結構甘えてくるのだ。久々に会えた時や徹夜続きで帰ってきたときは、ぎゅうぎゅうに抱きしめて、それからひたらすら私にくっついてくる。トイレに行こうとするときだって「嫌だ。一緒に行く」なんて離さない。まぁ強引にでも離すけど。
一緒に朝を迎えられてわたしがベッドから起き上がろうとする時も、「離れないで」とぎゅうっとしがみついてくる。まるで小さな子どものように甘える顔が愛らしくてたまらない。
お付き合いしてるとき、ある日私が突然「和樹さん」と名前を呼んで自分から手を繋いだ時、彼は目を丸くして顔も耳も赤く染めた。
普段からキザな言葉だって平気な顔をして言う彼が赤面して照れるなんて初めてで、それが嬉しくて私が何度も「和樹さん」と呼びながらぎゅっぎゅっと手を握ってみると、最終的に彼は手で顔を覆って照れていたっけ。それで楽しくなってしまって、そのまま手を握っている腕にしがみつくように抱き着いた。
パタンとロッカーを閉め、テーブルに置いた鞄を持ち店内へと入っていった。
「あ、ゆかりさん。お疲れさま。僕もコーヒー飲み終わってお会計も済ましてあるから行こうか」
和樹さんは気まずそうな顔をしている。どうやら私がまだ怒っていると思っているみたい。
「ふふ。行きましょう、和樹さん!」
「ゆかりさん!」
私がにこりと笑うと和樹さんはパッと輝いた笑顔になる。私が笑っただけでそんなふうに笑ってくれる。とても幸せだなぁ。
「マスター、お疲れさまでしたぁ!」
「お疲れさまー。和樹くんもまた来てねぇ」
「はい。失礼します」
カランコロンとドアベルを鳴らし私たちは外に出た。
「じゃあ、お蕎麦屋さんにレッツゴー!」
当たり前のように手を繋ぎ、私たちは商店街へと歩きだす。
「ゆかりさん、さっきは意地悪してごめんね」
「ふふ。謝らなくていいですよぉ。私が悲鳴をあげたのが悪いんですから!」
今度から必ず心の中で悲鳴をあげよう、と私は心の中で誓った。
「指輪……」
「ん?」
「指輪したら今日みたいに声かけられないのに。ネックレスにつけてるんでしょ? いや、指輪してもさっきみたいな奴だったら関係ないのか?」
隣を歩く和樹さんを見上げるとさっきのチャラ男を思い出してか不機嫌そうな顔をしている。
私は自分の首に繋がれたチェーンに触れた。少し長めのチェーンには私と和樹さんの結婚指輪が通されている。彼は仕事中は指輪を嵌めない。嵌めるのは休みの日くらいだ。
「和樹さんが指輪を嵌めない日は私も指に嵌めないで、こうやって一緒にチェーンに通してくっつけておきたいの。そうしたらもっと和樹さんが近くに感じられるんです」
えへへ、と笑うと不機嫌そうな顔をしていた和樹さんは、フニャッと蕩けてしまうんじゃないかと思うくらいも柔らかい笑顔になった。
「ねえ、今日はもう仕事の予定はないんだ。だから指輪嵌めさせて」
「はい! もちろん!」
ネックレスのチェーンを外して和樹さんの指輪を渡して、私も自分の指輪を薬指に嵌めた。和樹さんは指輪を嵌めた自分の指と、そして私の指を見て嬉しそうに微笑む。その顔を見て私も微笑んだ。
再び手を繋いで歩き出す。
「本当に和樹さんのあの顔怖かったなぁ」
「誰だって愛する妻が目の前で口説かれていたらあんな顔になるよ」
「えー、でも和樹さんがたまに喫茶いしかわに来たとき、私が男性のお客さんと普通の会話してる時も怖い顔してますよぉ」
「仕返ないじゃないか。僕は独占欲が強いんだから」
あ、口尖らせてる。可愛いな。
「そうですね。和樹さんは独占欲が強くてヤキモチやきやさんだもんねぇ」
「そうだよ。欲を言えば僕以外の男と話してほしくないのが本音だけどね。まぁ無理な話だけどね」
「ふふ。じゃあ、お腹の子がもし男の子だったらやっぱりヤキモチやく?」
「はは。まさか。自分の子どもにヤキモチなんかやかないよ」
さすが和樹さん。サプライズな報告にもまったく驚く様子がない。う~ん。でもちょっとは驚いた顔見たかったなぁ。
「ん? あれ?」
歩いていた足が止まる。隣にいたはずの和樹さんがいない。手は繋がれているけど、なぜか和樹さんは少し後ろにいる。
「和樹さん? どうし……」
くるりと振り返り、私は目をぱちぱちと瞬かせた。和樹さんはポカーンとした顔で固まっている。
「か、和樹さん? おーい、聞こえてますかぁ?」
和樹さんの顔の前で手を振ってみる。和樹さんはまだポカーンとしてる。うわぁ、和樹さんが驚いてるー! こんなに驚いた顔初めて見た。口は半開きで間抜けな顔なのに、それすらも絵になるんだからイケメンてすごい!
「和樹さーん」
もう一度手を振ると、いきなりその手を力強く握られた。
「あ、和樹さん聞こえてましたか。よかっ」
「今の話、本当?」
「え? 赤ちゃんのこと?」
「そう。本当なの?」
「本当ですよぉ。生理が遅れてて検査薬してみたら反応が出て、定休日の一昨日病院に行ったら七週目だって言われました!」
「なんでそんな大事なこと、すぐに言ってくれなかったの? 一昨日の夜も昨日の夜も、時間は短かったけれど電話したじゃないか」
「大事なことだからこそ直接顔見て言いたかったんですよ」
「そっか。そうだよね」
「ふふふ。和樹さんのあんなに驚いた顔初めて見た! ふふ、ふふふ」
「あんなさらっと言われるなんて思ってもみなかった。いや、でもゆかりさんらしいや」
えへっと笑って私は自分のお腹に手を当てる。今はまだとても、とても小さいけれどここに私と和樹さんの子がいるんだ。
スッと和樹さんの手が伸びてきて、お腹に手を当てる私の手の上にその手を重ねた。暖かい大きな手。
顔をあげると、和樹さんの瞳からは涙が零れていた。
「え、あの、和樹さん? どうしたの?」
「愛する人と結婚することができただけでも幸せなのに、その愛する人と血を分けた子どもができるなんて本当に幸せすぎる」
「和樹さん……」
「ここに僕たちの子がいるんだね」
涙をぽろぽろと流しながら和樹さんは微笑んだ。
涙一粒一粒が宝石のようで、とても綺麗だと思った。その涙が地面に落ちないよう、私は一粒一粒掬った。
ねえ、和樹さん。
あなたの色々な顔ひとつひとつが。そしてその涙一粒一粒が私の宝物なんだよ。