徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
飛鳥たちの隣の、先ほどゆかりが片付けようとしていたテーブルをテキパキした手際で片付けていく和樹を、飛鳥はまじまじと見る。
「和樹さんってゆかりお姉ちゃんにめちゃくちゃ甘いよね」
「そう? あんまり意識したことなかったけど……危なっかしくてほっとけないんだよ」
道に迷うご老人に教えてあげようと、必死で地図を調べているのを見ると。
公園でこけてしまった子供に慌てて駆け寄ろうとして、目の前で蹟かれると。
誰かが落とした小さなアクセサリーを、衣服が汚れるのを厭わず拾い上げる彼女に触れると。
傍で手を差し伸べたくなってしまうのだ。
笑う和樹の顔は、甘やかだ。直接目にした人全員が、老若男女関わらず頬を染めてしまうくらいの、殺人的な甘さ。
サクラはちらりとゆかりを見ると、満面の笑みを浮かべる。
「ほっとけないっていうのは、好きの仲間なんだよ!」
なんという真理。なんという、真実。
サクラからまっすぐに放たれたそれに和樹の思考は見事に停止した。
いつでもにこにこと笑みを浮かべていて、振る舞いは至極スマート。しかし愛想はいいが、何を考えているかわからない。そんな彼が目を見開いて固まっている様子に、珍しいものを見た、と飛鳥はぽかんと口を開ける。
一体何を言われたかわからない、とわかりやすく目の前の男の顔が言っていた。
これまで、この目の前の男には、のらりくらりとかわされてきた。その思考を読み取ることを許されず、彼の思惑通りに利用された経験は記憶に新しい。そんな彼のこんな表情を思わぬタイミングで、それもサクラから引き出されると思わなかった。
「やっぱり! 和樹お兄さん、ゆかりお姉さんみるとき、とっても優しい目してるもんね!」
「和樹にいちゃん、絶対ゆかり姉ちゃんに道路側歩かせねえもんな!」
たまに鋭いこと言うわよね、と飛鳥は小さく笑う。
「え」
「え?」
「え、いや…ゆかりさんってちょっと抜けてて危なっかしいところがあるだろう? それに、とんでもないお人好しで、この前もナンパ男に絡まれてたし……」
その整った顔にふさわしい綺麗な眉を困ったように下げて笑う。優しい目と言ってもらえるような表情だったのは、彼女の柔らかい笑顔につられるからで。危険な目に遭いかねない道路側を女性に歩かせないのは当然で。不思議なことを言われた、というふうな和樹に、飛鳥はまさか……と目を見開いた。
すれ違う女性のほぼ百パーセントに振り返られるような端正な顔を持っているのに。女子高生やOLに本気の告白で迫られているくせに。微笑み一つでハニートラップが成功してしまうような男なのに。
とんでもない恋愛音痴がここにいる。
あんな笑みを見せておいて、一体何を寝ぼけたことを言っているのか。ここまでひどいこじらせ方をした大人を見たことがない。飛鳥は、胸中で乾いた笑いを浮かべる。
こんな百戦錬磨みたいな顔をしたキラキラしい男が、まさか恋を知らないなんて。
ゆかりがご馳走してくれたレモネードを、ストローでくるくる回しながら、飛鳥は顔がにやつくのを止められなかった。
面白い。そんなことを知ってしまうと、常に食えぬ笑みを浮かべる高給取りのエリート様であっても、急に親近感が湧いてくるというもの。とはいえ自覚していないくせに独占欲丸出しのこの男が、もしも彼女への想いを自覚したらどうなるのか。想像だけでも、なんだか怖かった。めんどくさいことは勘弁、と一定の距離から楽しむことを心に決める。
「……この店の常連さんの誰よりも、ラブコメ方面にめんどくさそうだなぁ」
「……うん、そうだね」
目の前では、和樹と友人らが盛り上がっている。この一連の話題のもう一人の中心人物は、常連とレジでの談笑で、一切こちらの様子に気づいていないようだ。――先は長そうである。
飛鳥たちの視線に気づいたらしい彼が問いかけるような視線を投げてよこすが、何でもないよ、と笑っておいた。
夜のメニューの仕込みを始めた和樹の隣では、ゆかりが子供たちの食べ終わったアイスの皿を洗う音がする。子供たちの関心が移るのは早く、早々に話題変更には成功したが、何だか先ほど言われた言葉が和樹の頭の中を離れてくれない。
「もう、和樹さんは本当に心配性ですね。大丈夫なのに」
「……そんなに僕と帰るの、嫌ですか?」
どこか拗ねたような言い方になってしまったことに気づいて、しまったと思うが、言われた彼女は気にするような様子もなく、洗い物をする手を止めて、呆れたように小さく息をつく。
「……隈。隠しきれてないですよ。さっさと帰って、しっかり寝てほしかっただけです! 嫌とか思うわけないじゃないですか。和樹さんと喫茶いしかわの新メニュー相談しながら帰るの、私好きなんです」
「……」
だから嬉しい、ありがとうございますと続く言葉に、これほど胸の奥が暖かになるのは彼女が自分の理想の「平和」というだけだろうか。彼女に優しくしたい。彼女の平和を守りたい。それは決して個人的な感情ではなく強いて言うなら正義感で。
「どうしたんですか和樹さん?」
返事のない和樹を心配したのか、ゆかりが顔を覗き込んでくる。そこには、心配してます、とわかりやすく顔に書いてあった。――どうして。彼女は。
何でもありません、と呟かれた彼の顔に浮かぶのは、いつもの和樹の華やかな笑みではなく、静かで穏やかな笑み。
「私、和樹さんのそうやって笑う顔好きだなあ」
たまにしか見ることのできない、ゆかりの一等好きな表情で。ゆかりの口から無意識にそれはこぼれ落ちる。
「……」
思わず和樹の顔から、表情が抜け落ちた。
――どうしてくれようかこの娘は。どこか怒りにも似た感情を抱きながら、それとは裏腹に、顔はどうしようもなく緩みそうになる。ありがとうございます、と絞り出すように言えば、彼女は無邪気に笑った。
ああ、もう。どうしようも、ない。どうやらこの感情を持て余すと、表情筋が壊死するのだと、知りたくもなかった自分の癖に、頭を抱えたくなった。
この感情に名前をつけてはいけない。心の奥でくすぶる何かに、気づいてはいけない。そして、気づかれてもいけない。でも。
ちらちらと二人の様子をうかがっていた飛鳥の手元のグラスの中で、氷がカラン、と涼しげな音を立てる。ぬるくなってしまう一歩手前のそれを、飛鳥は一気に飲み干した。
初恋は、レモンの味。そう言ったのは、誰だったかしら。
「甘酸っぱいわねぇ」
「ほんと、甘酸っぱいよね」
呟かれた飛鳥のそれに、どこか呆れたような色が含まれているのに気付かないサクラは屈託なく笑う。
「恋と同じだね!」
飲み干されたレモネードに飾られた、レモンの果肉。
みずみずしさを失わないそれに、夏の日差しが反射してキラキラと輝いた。