徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
ゆかりが仕事に行く前までに帰宅しようと引き続き車を走らせ、自宅近くの公園を通りかかると公園で数人の大人や子供たちが集まっていた。
こんな朝早くから子供たちを混じえた行事なんてあっただろうか? と何だか気にかかり、公園のすぐ傍に車を停めて車内から公園の様子を窺うと、その疑問はすぐに解決した。
「あぁ、ラジオ体操か……」
和樹にとっての“ただの暑い夏”は子供たちにとって“夏休み”で。そういえばそんな時代が自分にもあったはずだと思ってしまうほど、自分も歳を重ねているということを改めて思い知らされて苦笑いを零した。
疑問も解決し、出発しようとした和樹の目によく知っている人物と、犬の姿が目に入る。
「ゆかりさんと、ブラン?」
ラジオ体操を始めた集団にゆかりが混ざっている。傍らにブランを連れて。近所の子供たちと一緒に腕を伸ばして体操を始めた妻の姿を見て、今度は苦笑いではなく、笑みを零した。
「はは……」
どういった経緯でラジオ体操に参加しているかは分からないが、何となく察しはつく。おそらく喫茶いしかわの常連客に誘われたのだろう。現にゆかり以外にも、大人が数名混じって体操をしている。
出発するのを止め、エンジンを切って窓を開けた。ハンドルに腕を乗せて覗き込むように、前屈みになってゆかりの姿を眺めた。久しく聴いていなかった懐かしい音楽に合わせて、時々隣にいる子供たちと目を合わせて笑い合いながら体を動かすゆかりの姿を見て何とも言えない幸福感に胸がキュッと締め付けられる。
自分の事で精一杯だった和樹にとって“結婚”はピンとくるものではなく、むしろ今まで結婚願望をあまり感じたことがなかった。他の誰かを幸せにできる自信なんて、なかったのだ。
だがゆかりに出会い、初めて“幸せにしたい”と思った。自分にできることなんて限られていて、何不自由なく彼女を幸せにしてあげられる自信と算段があるのかと聞かれれば、やはり素直に「はい」とは言えなかったが、でもどうしても彼女の“隣”にいたかった。
紆余曲折を経て結婚し、会えない日が続いて申し訳ないと思う気持ちもありつつ“幸せ”が勝っている状況で、それ以上のことを考えたことがなかった。
「ゆかりさんとのこども、か……」
自分に子供がいる未来を想像したことなんてなかった。だが、隣にゆかりがいると、どうだろうか?
「和樹さーん!」
ぼんやりと送っていた視線の先にいたゆかりが、和樹の名前を呼んだと同時にこちらに手を振っている。ハッと我に返ったように瞬きをしてから顔を上げて、和樹も同じように手を振った。
ゆかりがブランを連れて車の方へ向かってくるので、和樹はシートベルトを外して車から降りて駆け寄る。
「和樹さん! びっくりしました!」
「僕もびっくりしました」
「あ、お仕事お疲れさまでした!」
「ありがとうございます」
ジャケットもネクタイも身につけていない和樹を見てゆかりがへにゃり、と笑う。
「お疲れさまでした」
ともう一度言って微笑んだ。
そんなゆかりの首には、子供たちと同じくラジオ体操のスタンプカードがぶら下がっている。和樹がそれを指摘すると、ゆかりは「ああ!」と目を細めて笑ってからスタンプカードをよく見せてくれた。日付の書かれた小さな枠線の中には、様々な絵柄のスタンプが押され、並んでいる。
和樹の予想通り、喫茶いしかわの常連客に誘われてブランの散歩ついでに夏休み期間のラジオ体操に顔を出しているとのことだった。
ゆかりが絡むことで自身の予想が的中すると、和樹はたちまち嬉しくなって頬を緩ませた。
体を動かしたからか、ゆかりの頬はほんのり赤くなっていて、うっすらと額に汗が滲んでいる。
「見てください! 私にもカードをくれたんですけど、今のところ皆勤賞なんですよ! と言ってもまだ三日目なんですけどね」
へへん、と誇らしげにスタンプの埋まっているカードをずいっと和樹の目の前まで出して見せてくれるゆかりの左手薬指には二人で選んだ結婚指輪が太陽にキラリと反射して光っている。
ああ、僕の妻はなんて可愛いんだ! と、和樹の胸は再び甘く痛んだ。ゆかりの笑顔は、太陽さながらの眩しさだ。
さぁ、暑いですから車で帰りましょうと和樹がゆかりの頭をぽん、と軽く撫でてから屈んでブランを抱き上げると、ブランは嬉しそうにふさふさのしっぽをブンブン揺らしてから和樹の頬を舐めた。
「それにしても和樹さん、なんだかぼーっとしてましたよ? 疲れてますよね……帰ってゆっくりしましょ!」
「ああいや、疲れてる……のは事実ですけど、他のこと考えてました」
「他のこと?」
「子供たちと戯れるゆかりさんを見たら“ゆかりさんとの子供も良いなぁ”って思いました」
「ひぇっ!」
「……って、これは僕だけじゃどうにもならない話ですけど」
屈んだ時に首元から零れたネックレスをカッターシャツの中へ戻していると、ゆかりがじっとこちらに視線を送っていることに気がついた。
「どうかした?」
「……私も、思ったこと言っていいですか?」
「……? はい」
和樹が首をかしげると、二人の様子を見たブランが和樹の真似をするように同じく首をかしげた。助手席のドアを開けてからブランを座らせると、ゆかりがもじもじと両手の指を絡ませてから、はにかんだ。
「和樹さんの車が見えた時、ちょっと懐かしくなったんです」
「……懐かしい?」
「結婚する前、よく喫茶いしかわまで迎えに来てくれた時のことを思い出しました。遠くからこの白い車が見えると、凄くドキドキしたんです。実はね、おとぎ話の白馬の王子様ならぬ白い車の王子様が迎えに来てくれたみたいな気分になってたんですよ」
「……」
「さっき和樹さんが手を振ってくれた時に“その”ネックレスがお日様の光に当たって、キラって輝いてね。私とお揃いの指輪が隠れてるんだなぁって思ったら、もっとドキドキして」
「……っ」
「お付き合いしてた時もですけど、でもそれ以上にドキドキして……」
ゆかりが、さらに赤くなった頬を両手でおさえながら、目を細めて幸せそうに笑う。
「和樹さんと結婚して、良かったなぁ……って気持ちで胸がいっぱいになりました。……ああっ、すみません、何だか上手く説明ができないんですけど」
太陽のような眩しい笑顔を見せてくれた妻を見て、和樹は足の先から頭のてっぺんまで、じりじりと熱く焼かれるように、熱くなった。
それは歓喜と安堵の感情で、不覚にもすぐに返事ができずに声を詰まらせた。
「だから、そんな和樹さんとの子供だったら……いつか授かりたいなと、私も思います」
夏は苦手だった。しかしこの暑さのせいでネクタイを外し、そして眩しすぎる陽の光がネックレスを照らしてくれたことで、思わぬ場所でゆかりの気持ちを聞けるシチュエーションを作り上げてくれたことに和樹は感謝した。
手のひらをくるりと返した自分自身に内心自嘲しつつ、和樹は真っ直ぐにゆかりを見据える。
「誰よりもあなたが好きな自信はあります。幸せにしたいとも思います。でも、一瞬でも寂しいと思わせないと誓えるかと言われると、正直自信はありません。……それでも、変わらず僕の隣にいてくれませんか」
「和樹さん、まるでプロポーズみたいですよ。私たち、もう結婚してるのに。ふふふふ」
絞り出した格好のつかない声で告げた二度目のプロポーズを、ゆかりはうっすらと瞳に涙を溜めながらゆっくりと頷き、YESの返事をくれたのだ。