徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「あ、お風呂のお湯はりますね!」
彼女は立ち上がり壁についているお風呂のボタンを押す。
「お風呂あがりは兄が泊まりに来たときに着るスウェットでもいいですか?」
「はい。リョウさんには申し訳ないですがお借りさせていただきます」
「じゃあお風呂がたまったら和樹さん先に入って! どうぞ!」
「ゆかりさんがお先にどうぞ」
「えー、でも」
「なんなら一緒に入ります?」
「むむむ無理ッ!」
「はは。冗談ですよ。僕はコンビニに下着とトラベル用のシャンプーと歯ブラシを買いに行きますから。だからゆかりさん先に入ってください」
「シャンプーは私の使っていいですよ! あと歯ブラシは私のストックがあるのでよかったらそれを使ってください!」
「いいんですか?」
「はい!」
「じゃあお言葉に甘えます。下着だけ買ってきますから、お風呂たまったら入っちゃってください」
「わかりました!」
コートを着て財布をポケットにしまう。
「鍵使ってください」
招き猫のチャームが付いた鍵を差し出された。玄関まで彼女に見送られ、僕はマンションの近くのコンビニへと向かった。
コンビニに着きすぐさま下着を手にとり会計を済ませる。コンビニから出て冷え込むマンションまでの夜道を歩く。今日は帰らなくていい。また彼女の住む部屋に戻れる。お願いだから緊急呼び出しの連絡など来ないでほしい。どうか今日だけは。そう願いながら僕は歩いた。
彼女の部屋へと戻りコートをハンガーに掛けて腰を下ろす。彼女はお風呂に入っているので、テレビを見ながら彼女を待つことに。
しばらく待つと、可愛らしいパジャマを着た彼女が戻ってきた。お風呂上がりで上気した頬に、お化粧を落としたその顔はとても幼く見えた。
「お待たせしましたぁ。冷めないうちに和樹さんもどうぞ!」
隣に腰を下ろす彼女からフローラルの香りが漂う。
「いい匂いがしますねぇ」
彼女の柔らかい髪を一束掬い鼻に近づける。
「そうでしょ? お気に入りなんです」
「それを僕が使ってもいいんですか?」
「もちろん!」
「ありがとうございます」
垂れた目尻を更に下げて笑う彼女の頭を撫でて僕はお風呂へと向かった。
髪と体を洗い湯船に浸かる。ピンク色のシャンプーボトルにコンディショナーのボトル。自分の家には絶対にないものに、あぁ彼女の家にいるんだなぁと実感する。
お風呂からあがり用意されたバスタオルで髪と体を拭く。買ってきた下着を履き、用意されたスウェットの上を着るために袖に腕を通し首を通す。その途中、喫茶いしかわで嗅ぎ馴れた彼女の使う柔軟剤の香りが鼻を掠めた。
首を通し顔を出して、あれ? と思う。袖の長さがぴったり。リョウさんは僕より背が低いから、これだと大きいんじゃ……そう考えつつズボンも履くと、これまたぴったり。これってもしかして?
「僕のために買って用意してくれたんじゃ」
ぴったりのスウェットを見てそう思った。そうだとしたら嬉しすぎる。頬を緩ませながら髪を乾かし、彼女が出してくれておいた歯ブラシで歯を磨き、リビングへと戻った。
リビングに戻ると、彼女はベッドの上で横になっていた。近づいてみると気持ち良さそうに寝ている。起こさないように彼女の横に僕は寝転んだ。お化粧を落とした彼女の目の下には隈があった。昨日はあまり寝てないのだろうか。
五分程あどけない寝顔を眺めていると、閉じられていた瞼が開いて澄んだ瞳に僕が映る。彼女は目を丸くし、がばりと起き上がった。
「ごめんなさい、寝ちゃってました」
「大丈夫ですよ」
僕も起き上がる。
「電気消してもう寝ましょうか。ゆかりさん眠いでしょ?」
「え、でも……」
「ん?」
あの、その……シないんですか? 顔も耳も真っ赤にさせて上目遣いで僕を見る。可愛い、今すぐにでも抱いてしまいたい。
「実は可愛い下着着てるんです」
「それは僕のために?」
「そうです」
「怖くないんですか? ゆかりさん初めてでしょ?」
「大丈夫。全然怖くないって言ったら嘘になっちゃうけど、でも和樹さんと繋がれるのならどんな痛みにでも耐えてみせます」
ふわりと笑う彼女。
「じゃあ……遠慮なく」
彼女の耳元で囁くとビクッと肩が跳ねた。
「と言いたいところですが、今日はやめておきます」
「え?」
僕はぱちぱちと瞬かせるそんな彼女の目の下を撫でた。
「隈がある」
「それは……今日が楽しみすぎて昨日はまったく寝られなかったんです」
「それならなおさら寝ましょう。眠たいゆかりさんに無理させたくありません」
「だ、大丈夫ですよ!」
「駄目です。それに」
「それに?」
内緒話をするみたいに首を傾げる彼女の耳元に顔を近づける。
「実は僕も今日が楽しみすぎて昨日まったく寝てないんです」
これは嘘でもなんでもない。本当に楽しみすぎて眠れなかったんだ。
言い終えて彼女の耳元から離れる。
「本当に?」
「ええ。ゆかりさんと一緒ですね」
「一緒。えへへ、一緒だ」
「ふふ。今日は寝て、明日の朝楽しみましょうか」
「へ?」
「だってゆかりさんは遅番だし、僕も夕方から仕事だから時間はたっぷりあるでしょ?」
視線を彼女の胸元に向けると、ボンッと音でも鳴るかのように顔を真っ赤にさせる。可愛すぎて僕の口からは笑いが溢れる。
「本当に可愛いな」
「うぅ恥ずかしい」
「ねえゆかりさん」
「なんです?」
「スリッパってペアですよね?」
「ーっ!」
「MrとMsって刺繍が入ってる。それと、このスウェットは僕のために買ってくれました?」
ちょっと意地悪な笑みを浮かべてみる。だって確かめずにはいられなかったんだ。彼女は視線を泳がせ、やがて俯くと小さく頷いた。
「引きました? 用意周到すぎて」
小さな声で言う彼女を僕は抱きしめる。
「全然。だって僕のために用意してくれたんですよね?」
「うん」
「もしかして歯ブラシも?」
「はい。ストックなんて嘘でした」
「嬉しい。嬉しすぎる」
「本当に?」
「本当です。ありがとうゆかりさん。大好き」
彼女の腕が僕の身体に回り、ぎゅっと抱き締められる。
「好き。大好き和樹さん」
「大好きだよ」
彼女の丸いおでこにキスを落とし、小さな唇にキスをした。
「寝ましょうか」
「はい!」
パチッと電気が消され部屋が暗くなる。
「和樹さん、私と同じ匂いがするねぇ」
僕の方を向いて横向きに寝転ぶ彼女がクスクス笑う。僕も彼女の方向いて横になる。
「うん。一緒です」
「えへへ、一緒」
「ゆかりさん、次は和食を作ってくれますか?」
「いいですよぉ。お茶碗買わなきゃねぇ」
「お揃いの?」
「もちろん! あとお箸も!」
「じゃあ今度一緒に買いに行きましょうか」
「はい!」
元気よく返事をした後に、ふわぁと大きなあくびをした彼女。
「おやすみなさい、ゆかりさん」
「おやすみなさい、和樹さん。またあした」
「うん、またあした」
彼女はすぐに眠り、スースーと寝息が聞こえる。
夢の中でも彼女に会えますように、とゆかりさんの手を握って僕も重たい瞼を閉じた。