徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
お互いに笑い合っている間に、銭湯に到着した。たつみ湯という看板が掲げられた昭和の雰囲気を残した建物の入り口には、男湯・女湯と白抜きされたのれんが掛かっている。
和樹は男湯ののれんをくぐりながら、ゆかりは女湯ののれんをくぐりながら、同時に言った。
『ゆっくり浸かってくださいね』
和樹にとってゆかりは年下の女の子だ。だというのにその女の子からそんなことを言われるのは格好が付かない。なのでもう一言添えようと口を開く。
『立ち仕事ですから、ふくらはぎを揉むと良いですよ』
また言葉が重なってしまった。なんだか、次も同じことを言ってしまう気がして、和樹は髪もしっかり乾かしてくださいね。という言葉を呑み込んだ。けれど。
『それじゃ、また後で』
また二人の言葉は重なっていて、よく分からない悔しさを噛みしめながら、和樹とゆかりはのれんの奥に進むのだった。
夜遅い時間のせいか、中は空いていた。和樹の他にいるのは彼よりも少し年下の青年と、六十代後半の男性の二人だ。どちらも常連なのだろう。慣れた様子で脱衣籠を取って、脱衣所の中央に設置されたロッカーに向かっていく。和樹としても野郎の脱衣シーンを凝視する趣味はないので、脱衣籠を取り、同じようにロッカーに向かって服を脱ぎ始めた。
腰にタオルを巻いて、浴室に続く引き戸を開きながら、そういえば風呂から上がる時間を決めていなかったなと気付いた。引き返して、メールを送ろうかと思ったが、やめた。基本的に女性は長風呂を好む。和樹が先に上がって待っていれば良いだろう。
「はぁ~」
髪と身体を洗って、浴槽に入ると無意識に長いため息が零れた。
和樹にとっての入浴は、身体の汚れを落とすことが目的であるため、基本的に湯船を使うことがない。そもそも職場にはシャワールームはあっても、湯船がないのだ。自宅に帰ればあるけれど、一人暮らし用のユニットバスでは、長身の和樹が手足を伸ばして湯船に浸かることなどできない。
だから今夜こうして広い湯船に入って、身体を休められるのは僥倖だった。一人で銭湯に来て、一人で帰ることになるゆかりが心配だったのは本当だが、こうしてご相伴にあずかれるなら、大歓迎だ。また言いくるめてお供したい。
そんなことを考えながら、ふくらはぎの辺りを揉んでいると、隣の浴槽を使っていた青年が立ち上がった。そして持参していたシャンプーなどを回収しながら声を上げた。
「かよこー」
男湯と女湯は壁で仕切られているが、完全に塞がれてはいない。大きめの声を出せば、向こう側にも聞こえるようになっている。どうやら青年には連れがいるようだ。
「はーい?」
程なく、女湯から年若い女性の声が返ってきた。
「先上がるぞー」
「はーい」
再び返ってきた声を聞き終わる前に、青年は浴室から出て行った。照れくさかったのかもしれない。なんとも甘酸っぱい気持ちになりながらも、和樹はやらずにはいられなかった。
「ゆかりさーん」
壁の向こう側に届くように、彼女の名前を口にすると、ばしゃん! と一際大きな水音が聞こえた。
「ひえっ、えっ、はい!」
顔を真っ赤にして湯船に浸かりながら、慌てて返事をする彼女の姿が目に浮かぶようだ。和樹はくつくつと笑って、また声を上げた。
「もう少ししたら上がりますねー」
「は、はいぃ……」
恥ずかしがっているだろうゆかりの表情を思い浮かべていると、少し離れたところにいた男性が笑った。
「新婚さんかい?」
違います。と否定しても良かったけれど、なんだかそれはもったいない気がして、和樹は笑った。
「うるさくてすみません」
「なに、かまわんさ。俺もたまにはカミさんに声かけてくかな」
「なんでしょうね。気恥ずかしいのに、ちょっと嬉しいですよね」
「なんでだろうなぁ」
見ず知らずの人と、こうして何でもないことで笑っていられることも、和樹には喜ばしいことだ。ゆかりを言いくるめてついてきたのは正解だった。心の中で、壁の向こうにいるゆかりに感謝して、和樹は湯船から上がった。
「それじゃ、お先に」
「おう」
男性の短い返事に小さく会釈をして、和樹は脱衣所へ向かった。
しっかりと髪を乾かした和樹は、自販機でコーヒー牛乳を買って、そのまま外に出た。なんとなく、予感があったのだ。
そしてその予感は、正しかった。
銭湯の入り口前に設置されたベンチに座って待っていると、程なくゆかりがやってきた。その手にはやはりコーヒー牛乳がある。
ゆかりも和樹の手にあるものに気付いたのだろう、小さく笑って、隣に腰を下ろした。
「開けますよ。かしてください」
「おねがいします」
備え付けてあった栓抜きで、蓋を外したそれをゆかりに返すと、特に示し合わせた訳でもないのに、お互いの瓶でカチリと乾杯をした。
「いいお湯でしたねぇ」
「ですねぇ。大きな湯船っていいなぁって再認識しましたよ」
「そうですよぉ、シャワーだけだと疲れはとれないんですって」
「じゃあまた来ないとですね」
「えっ、また一緒にですか?」
「何か問題でもありましたか?」
「ないですけども……」
腹をくくりましょうよ。と笑いかけると、ゆかりは観念したように夜空を見上げて。
「あのですね、うちのマンション、古いんですよ」
「はい?」
脈絡のないことを言われて、和樹は首を傾げる。急に何の話だ。
「マンションの給湯設備が壊れて。だから今日からしばらく銭湯通いなんです」
「えっ」
「私はちゃーんと断りましたよ? でも和樹さんが一緒に来たいって言うんじゃ仕方ないですよね?」
ああ、しまった。と今度は和樹が夜空を見上げる。和樹はゆかりに近づきすぎないようにしていた、ゆかりもそれを無意識に理解して、距離をとってくれていたのに、気がついてみれば、こんなに近くにまで接近していた。
いけない、と思う。なのに、彼女のそばはこんなにも居心地が良くて。
腹をくくらなくてはいけないのは、僕の方だった。そう思い知りながら、和樹は冷たいコーヒー牛乳を一気に飲み干した。