徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
三日後の正午、ゆかりはリョウに指定されたホテルのロビーにいた。
「お前、釣り書き読んでないんだって? 和樹さんから聞いたけど。頑固だね~。ま、いいけどさ」
そんな兄の声を思い出して、危うく眉間に皺が寄りかける。
お見合いと言っても当人同士で顔合わせするだけだから気楽に気楽に、と一番暢気に電話で笑っていた元凶を、心の中で呪う。机の角にでも足の小指ぶつければいいのに。人の気も知らないで。
できうる限りのおしゃれはしてきた。靴も新品。普段はつけないアクセサリーも装着済み。化粧もいつもより念入りに、けれど濃くなりすぎないよう注意した。苦戦しつつもなんとかとか上手く結い上げた髪がほつれていないか気になって、こめかみのあたりを指でなぞる。ふと、耳に触れた途端、頬がカッと赤らんだ。和樹に噛まれた――実際には唇で触れられただけだが、そのことを思い出すと勝手に動悸が激しくなる。
(あんなに怒ることないのになあ……)
というか、怒ったからってあんなことしない。普通は。和樹を普通と形容するのはかなり抵抗があるけれども。
ゆかりを唯一無二だと、大切な人だと言ってくれた。けれど同じ口で、お見合い頑張ってと送り出されもした。つまり和樹にとっての『大切』は、友情という意味だ。そのことにがっかりしている自分に、ふと苦笑が零れる。
まさか言えるわけがない。
いいお嫁さんになりますね。――あんなことを言われて、本当は何度も何度も、和樹との結婚生活を想像していたなんて。彼がゆかりの理想のお嫁さん像の条件を見事に満たしているのも事実だけれど、それ以上に、理想の恋人像であり旦那さん像であったことなんて。和樹のことが――ずっとずっと好きだったなんて。
やっぱり、お見合いはお断りしないと。好きな人がいるままで、他の人と付き合うわけにいかない。きっぱりと和樹にフラれたならまだしも、ゆかりはまだ何も伝えていないのだから。
もしかしたらお相手のほうから断られるかもしれないけれど、という考えは持たないようにした。そんなの、また和樹に怒られてしまう。ゆかりを大事だと言ってくれたその言葉を足蹴にすることなどもうできない。
お見合いが終わったら、和樹に会いに行こう。ダメで元々、ちゃんと気持ちを伝えよう。
ソファに腰かけながら、逸る気持ちを静めようとコーヒーに口をつけた時だ。
「――石川ゆかりさん」
背後から声をかけられた。
兄には適当に座っていろと言われた。相手のほうがゆかりに気づいて声をかけるから、と。ゆかりも一応ではあるが、相手の顔を知っている。私の知っている人なんだよね、という質問にも、兄はそうだよ、と答えた。だから問題はないと思っていた。
でも。
だけど。
今の声は。
弾かれたように振り返ったゆかりは、我が目を疑った。
立っていたのはスーツ姿の男性。けれどゆかりの記憶の中にいた人物ではない。
日の光に輝く髪も、健康的な色の肌も、涼し気な双眸も、ずっと前から――今でも、もっと、恋い焦がれていた人。
「か……ずき、さん?」
夢でも見ているのかと呆然としているゆかりの視線の先で、幻ではない和樹が困ったような苦笑を漏らした。
「だから、釣り書き読んでないのかって訊いたんだよ」
結局読まなかったんですね、と肩を竦めながら言われて、ゆかりは慌ててバッグの中に入れてきた封筒を取り出す。中には三つ折りの紙が、ぺらりと1枚。
そこには和樹の名前、年齢、勤務先、趣味、特技、家族構成がさらりと書かれていた。
「しっかりしたお仕事で、イケメンで、お兄ちゃんの先輩だって!」
「うん、仲人挟んでの正式なお見合いじゃないから、リョウさんもご両親も電話口で適当に情報交換したみたいだね。それでお母さんも僕の歳聞いて先輩と勘違いしたんだろう。ゆかりさんに僕じゃない人間を予想されてて正直ちょっと複雑でした。それに、あんまり嫌がってるから今日もすっぽかされるんじゃないかと不安で、あの日もついゆかりさんの様子を窺いに行ってしまって……あ、ちなみにですが、その先輩さんとやらはとっくに結婚してらっしゃいましたよ」
にっこり、と擬音がつきそうな笑みを浮かべて答えた和樹に唖然とする。
リョウにでも確認したのか、気になることはすぐさま調べ上げるあたりが和樹らしい、とゆかりは引きつりそうになる口元をなんとか堪えた。
「じゃあ、最初っからお見合いの相手って和樹さんだったの!?」
「そう言ってるでしょう」
言ってない。断じて言ってないよ、和樹さん。
抗議したい衝動に駆られそうになったが、それよりも、何よりも。
「な、なん、なんで」
「言ったでしょう。――君は僕の唯一無二だって」
和樹が一瞬だけ見せた縛りつけるような視線に、ゆかりは小さく息を飲んだ。
「と、友達って意味じゃ……」
「それであんなに抱きしめたりしませんよ。僕はあなたが好きです。ずっと、あなたと結婚したいと思っていました」
「……」
「朝は優しく起こしてあげるし、味噌汁だって好きなだけ作ってあげますよ。子供産むのはさすがに無理だけど、あなたが産んでくれた子供なら全員溺愛する自信があります。なにより、僕は同じ日当たりの良さでも、広いだけの高層マンション最上階より畳に転がってのんびりひなたぼっこできる四畳半の部屋のほうが愛しい」
だから、と和樹はゆかりに向かって手を差し出す。
「お友達からなんて悠長なこと言わず、僕と結婚を前提に付き合ってもらえませんか」
その手のひらを、ゆかりはじっと見つめた。その視線を和樹の顔へと移せば、真っ直ぐ見つめ返されたことに少しだけ和樹が怯んだように見えた。
「なんで、お見合いなんてまどろっこしいことを」
「……性格と言いますか職業柄と言いますか、外堀をきっちり埋めてから本丸に攻め込むタイプでして」
「外堀というのは、まさか」
「ゆかりさんのお母さまです。『お袋が乗り気になればゆかりは絶対に逆らえない』って、リョウさんからアドバイスを」
「おにいちゃん……っっ」
やっぱり机の角に足の小指ぶつけてほしい、何度でも。ゆかりは本気でそう願った。
そして、目の前の和樹にも。何かしら仕返ししないと気が済まない。
ゆかりは差し出された手に、そっと自分の手で触れた。和樹がホッと息をついた瞬間、ぐいっとその腕を引っ張る。
前のめりにバランスを崩した和樹の唇に、下から突き上げるように口づけた。
これ以上ないというほど目を見開く彼に、小さく、けれどはっきりと告げる。
「好きです、和樹さん。私をあなたのお嫁さんにしてください」
次に会ったら告げると決めていたその想いに、もう一つの願いも付け足した。