徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「ただいま戻りました……」
カランとドアベルが鳴り、小さな声が聞こえた。
「お帰り、遅かったね……って、どうしたの、二人とも!」
コーヒーカップを磨いて片付けをしていたマスターは、慌ててカウンターから出ていく。
入り口に立っていたのは、出かけた時の颯爽とした美丈夫と、溢れんばかりの若さと愛らしさに輝いていた女性の姿ではなかった。
二人とも髪はボサボサだし、服も着崩れているのか草臥れて見える。看板息子はまたと言って良いだろうが、頬に複数の擦り傷、シャツに皺が寄り、ボタンは1つなくなっているし、真っ白だったスニーカーにも泥汚れがついている。
看板娘の方は、ケガはないようだが、今にも泣き出しそうだ。
「え? 一体どうしたの、ゆかり」
と言いながら、思わず和樹に視線を向けて、説明を促す。
「遅れてすみませんでした。いえ、あの、公園で……」
と、和樹が言いかけるのを遮ってゆかりが頭を下げる。
「マスター、ごめんなさい! あの、公園で、私、スケボーの男の子とぶつかりそうになって……」
「え? 大丈夫だった? 怪我は?」
「いえ、あの、和樹さんが庇ってくれたので、ぶつからなかったんです」
「じゃあ、良かったけど……」
「でも、あの」
「僕がゆかりさんを無理矢理」
「無理矢理って何!?」
「和樹さん、言い方……炎上!」
看板息子は「あ」とか「ごめん」とか言っているが、その実、全然反省していないことは明白だ。
「和樹さんが私を庇ったまま、植木に突っ込んで……」
「ちょっと枝折っちゃって」
「いえ……かなり」
「一応、公園の木だから市の公園緑地課に連絡したりして」
「真面目だねえ」
「来週、ちょうど剪定作業があるから、多少ならいいですって言ってもらったんですけど」
「それで遅くなりました!」
二人でそろって頭を下げる。
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「いや、二人が無事ならいいよ。和樹くん、ゆかりを守ってくれてありがとう。これでも年頃の娘だからね。顔に大怪我させるのは困るし」
「和樹さん、本当にありがとうございます」
ゆかりは今度は和樹に頭を下げている。
「もう、いいですって。ゆかりさん」
和樹も照れたように笑っている。
「ところで、君たち」
「はい?」
「ずばり、君たちが突っ込んだのは金木犀だね」
二人はきょとんとしてから、はっと何かに気づいた顔になって、慌てて胸元やら、袖口の匂いを嗅いでいる。
「いやあ、さっきから、すごくいい匂いだなあって」
「わあ、ごめんなさい、マスター……」
「匂いますか?」
「一生懸命、花粉、はたいたつもりなんですけど」
「倒れたところにちょうど、先日の台風で折れた満開の金木犀の枝があって……」
二人で口々に言い訳するのをマスターは笑いながら「秋らしくていいんじゃない?」なんて返す。
「でも、コーヒーに匂いが」
「大丈夫、そこまで気になるほどじゃないし」
「あ」
ゆかりが何かに気付いて、和樹をじいっと見上げている。和樹が瞬きした後、訊き返す。
「え?」
ゆかりの手が伸びた。和樹は固まったまま、ゆかりを見つめている。
ゆかりの指は和樹の頬をかすめ、そのまま伸びて、髪に到達し、そっと触れる。マスターまで息を止めてその光景に見入ってしまう。
「あった」
ゆかりがすっと手を引くと、そこにはオレンジ色の金木犀の一枝。和樹はふっと息を吐く。ゆかりがにっこり笑う。
「和樹さんの髪に馴染んじゃってたんですね」
「――ああ……えっと……ありがとう……ございます」
いつもの一分の隙もない和樹じゃなかった。自信を失ったような、毒気が抜けたような、一言で言えば呆けた表情になっている。もしかすると、これが素かなとマスターはちらりと思う。
「さて、和樹さん。匂いの原因は分かったし、ぱかぱか働きますよ! 荷物、片付けちゃいましょ」
突然、ゆかりが通常モードになる。
「……ぱかぱか?」
「そうです。のんびりしている時間はないですよ! もうすぐJKで混みますからね」
「……JK?」
なぜかまだ、ぼんやりしている和樹が、機械的に買ってきた荷物を広げ始める。
「あ、和樹さん、卵! タイムサービスでお一人様一パック、合わせて二パック……割れてない? 無事ですか?」
「え? 卵、大丈夫?」
マスターが慌てて和樹と一緒に荷物を確認し始めた。
ゆかりは、カウンターの下を開け、今は使っていない古いグラスを取り出す。そこへ水をいっぱいに満たすと、持っていた金木犀の枝をそっと挿した。
小さなオレンジ色の花がふわりと揺れて、ゆかりは微笑む。
「あちゃーっ、卵、割れちゃってる」
「じゃ、もう、溶いておきましょうか?」
和樹の頭がようやく動き出したようだ。
「殻に気を付けて濾してから、カップインフレンチトーストで。本日限定のセットスイーツです」
「あ、いいですね。ケーキよりもお腹いっぱいになりそうだし。生クリームとフルーツを添えたら豪華でJK大喜びです!」
ゆかりが応えると、和樹が笑う。
そうして二人は、テンポよく限定スイーツの下拵えをし、食器やフルーツを準備し始める。
パタパタと二人が小気味よく動くたびに、ふわりふわりと、金木犀の香りが漂う。
マスターはそんな光景をにこにこしながら見ていた。グラスの金木犀も、もう少し、咲いていてくれるといいなと思いながら。