徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
ゆかりはさっさと表の看板をしまい、入口にかかるプレートを「CLOSED」にしてカチリと鍵をかけ、のんびりと店内を片付け始めた。
洗い物を済ませ、さて店内の掃除でもと思ったところでコツコツと窓ガラスを叩く音がする。
そちらを見ると、仕事終わりでスーツ姿の和樹が小さく手を振りながら、店内から漏れた明かりに照らされていた。
「和樹さん!」
ぱっと表情を明るくするゆかり。和樹はゆかりが和樹を認識したことに気付くと表情を和らげ、入口の方を指し示している。
「あ! すぐ開けます」
慌てて入り口の扉の鍵を開けると、すぐに扉が開いて和樹がするりと入ってきた。和樹は後ろ手に鍵をかけるとゆかりをそっと抱きしめる。
「お疲れさまです、ゆかりさん。今日は閉店が早めなんですね」
ゆかりもそっと抱きしめ返す。
「お疲れさまです。お客さんの波が途切れたからちょうどいいかなって、マスターの許可もらって閉めたところだったんですよ。あ、マスターは奥で子供たちと一緒です。あの子たち、すごくがんばってくれてね。疲れて寝ちゃったの」
「そうですか。明日、うんと褒めてあげましょうね」
「はい。明日は子供たちの好きなごはんにするつもりです」
「じゃあ僕は、あさひ堂さんでおもちを使った商品を買ってお土産にしましょうか」
ふたりで顔を見合わせてくすりと笑う。
「さ、お席にどうぞ。すぐコーヒー淹れますから。あ、あとね。ハロウィン限定メニューなんですけど、かぼちゃのシチューがひとり分残ってます。和樹さん、食べませんか?」
「あるんですか!? それはぜひ、いただきたいです!」
今週は閉店間際にしか喫茶いしかわに寄れないのがわかっていたから、ゆかりが考案したハロウィン限定メニューを食べるのは半ば諦めていたのだ。
「あ、でも……ゆかりさんは? 夕飯食べましたか?」
「ううん、まだ。他の、ちょっとずつ残った材料でぱっと作って食べちゃおうかなって思ってて」
「では、かぼちゃのシチューも、ありあわせのごはんも、全部半分こにしましょう。ゆかりさんと一緒のものが食べられるなんて嬉しいなぁ」
「ふふ。和樹さんったら。せっかくなので特別メニューです。シチューにグリルで焼いた野菜も使うので、できあがるまでに十分以上かかりますから、コーヒー先に淹れますね」
「ありがとう」
やや表情を緩めてゆかりに礼を言った和樹だが、コーヒーを淹れるべくゆかりが背を向けると、本当に小さくだが、疲れを隠し切れない溜め息を吐いていた。
「はい、コーヒーどうぞ。それからこれ、ハロウィンで配ったクッキーです」
「へぇ。スターですか。ゲームアイテムの」
「はい。これを食べたら和樹さん無敵です! お疲れ吹き飛んじゃいますよ、きっと」
「ふふ、そうですね。……ん? これ、なんだか目のところが、ちょっと……」
クッキーをつまんでじっと見てから、おもむろにゆかりを見てクッキーと見比べる。通常のスターはまっすぐ横に線を引いた糸目状態のはずだが、ちょっとぱっちりしたたれ目になっている。
「ふっふっふ。気付いちゃいましたか。それは“ゆかりスター”です! 他のお客さんには出してません。和樹さんオンリーの特別仕様ですよ! 効果倍増でしょ?」
どや顔で説明してから、くすくす笑って和樹を愛おしそうに見つめるゆかりに、和樹の目元も緩む。
「そうですね。僕には一番効果があります」
「でしょう? それ食べてコーヒー飲んで、晩ごはんできるの待っててください」
「はい。そうします。ゆかりさんも一緒に食べてくれるんでしょ?」
「ええ」
静かな店内にはゆかりの使う包丁の音やグリルで焼かれてる野菜のパチパチという音、シチューがくつくつと煮える音とバゲットを焼くオーブントースターのチリチリした音。それからたまに、コーヒーカップを置くカチャリという音が響く。ゆるやかで穏やかな時間が流れていた。
扉が開いて畳の部屋からマスターが顔を出す。
「おや和樹くん、いらっしゃい」
「お邪魔してます。子供たちを見ていただいてありがとうございます」
「いいんだよ。僕にとっても孫の寝顔は癒しだから。ゆかり、僕はそろそろ帰ろうと思うけど、戸締り任せていいかい」
「はい。私は和樹さんとごはん食べてから子供たちを連れて帰りますね」
「今日は車移動だったので、そこの駐車場に停めてありますからご安心ください」
「うん、じゃあ後は任せたよ」
またふたりになって静けさを増した店内。できあがったメニューが次々とゆかりから和樹へ、カウンター越しに渡される。
「これで最後です。あ、和樹さんコーヒーのおかわりいりますか?」
「うん、もらおうかな」
ゆかりは和樹と自分のコーヒーを店員用のマグカップに注いで持ってきた。
「さ、食べましょう。いただきます」
「いただきます」
さっそく、以前ゆかりが自信作だと言っていたかぼちゃのシチューに口をつける。かぼちゃのやさしい甘さとクリームのまろやかさが口いっぱいに広がる。鶏肉を食べれば、じっくり煮込まれた柔らかさで噛むと肉の味がじゅわりと溢れてくる。これは常連のお年寄りにも好評だっただろう。ゆかりが自信作だと言うのも納得だ。煮込まれた野菜もいいが、追加で乗せてくれたグリル野菜はまろやかなシチューに香ばしさと食感を加えてくれてさらに美味しく感じる。
シチューに添えられたバゲットはカリッとしていて、シチューのいいアクセントだ。
豚汁セットを注文した客に添えていた、かぼちゃを砂糖醤油で煮た定番のおかずもある。
そして縦半分にしたナスをグリルで焼き、しょうゆをさっと垂らしてパラリと山椒をふったただけのシンプルな焼き物が実に美味い。これは喫茶いしかわで出すような料理ではない。和樹に向けた特別追加メニューだろう。
和樹はゆかりから今日の様子を聞き、ぽつりと「僕も参加したかったな」と寂しそうに一言。それからいつもよりずっと忙しい喫茶いしかわでがんばった妻をねぎらった。
今度は和樹がコーヒーを淹れ直し、クッキーをかじりながら夫婦の語らいで一息入れていると。
「ところでゆかりさん。今日は客の男にキスされたそうですね」
「は?」
「SNSにそう書いてありました。どういうことでしょう?」
ひんやりした笑顔をゆかりに向ける和樹。ゆかりはきょとんとしてから一日を思い出す。
「……あ。ああ! あっはっは」
「……心当たりがあるんですね」
「遥ちゃんの下のお子さんですね。ちょうどクッキーが切れてて、新しいのを焼き始めたタイミングでご来店されて。いたずらで、ほっぺにちゅうされました。可愛かったですよ」
「僕以外の男にキスされたことを笑顔で語らないでくださいよ」
和樹がふてくされると、ゆかりは仕方ないなぁと苦笑する。
「いいじゃないですか。やっと幼稚園に通えるくらい幼い子供のしたことなんですから、目くじら立てないの」
「納得はしてませんが、いったん置いておきましょう。それで?」
「それで、とは?」
「他にも、男に髪を乱されて驚いてるゆかりさんが可愛かった、という投稿を見つけましたけれど、それも同じ子ですか?」
「いいえ。それは上のお子さんの“いたずら”ですね。あの子、いたずらはダメなことだからって遠慮してたんですけど、小学校にも上がってない子に我慢させることでもないし、兄弟で差をつけるのも良くないなと思って、いたずらしてもいいよって言ったんです。そしたら帽子を取られました。すぐ返して謝ってくれましたけどね」
ゆかりは笑いながら、右手の人差し指で赤い帽子をとんとんと叩く。
「チッ。僕のゆかりさんに……」
「もう、和樹さん。子供のしたことです。それにね、丸一日トイレに行く暇もなさそうなくらい忙しかったのに、帽子を取られたおかげで私、少し休憩取れたんですよ。むしろ感謝です。ね?」
「……まあ、いいでしょう。家に帰ってからじっくりと話を聞かせてもらいます。覚悟してくださいね?」
夜特有の色気を漂わせながら、うっそりと嗤う和樹。
「ひえっ。お、お菓子あげたんですから、いたずらはナシですよ!」
「いたずらじゃなくて夫婦のコミュニケーションです。楽しみですね。それじゃ、さっさと食器を片付けて閉店作業して、子供たち連れて帰りましょうか。手伝いますよ」
ネクタイを外して首元を弛め、背広を脱いでワイシャツを腕まくりする和樹。そそくさと食器を流しに運んで洗い始めた。そのあまりの素早さに呆気にとられていたゆかりは、小さく溜息をつく。これは人の話を聞く気がないやつだ。
「……はい」
諦めてダスターを手にとりテーブルを拭き始めた。
翌日。とても眠そうなゆかりが喫茶いしかわにいたとか、いなかったとか。