徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
・真弓 〇歳
梢はよく、真弓が眠っている姿を見ていた。
目を開けたかとおもえばふにゃりと表情を崩し全力で泣く真弓に、慌てておむつを替えたりミルクを飲ませたりもした。
さすがに母であるゆかりには負けるだろうが、真弓が二番目に懐いているのは自分だと、夫と張り合ったりもした。
「だってミルクを飲ませてげっぷさせたあと、安心したように私のおっぱいに手を当てて眠るのよ。それが懐いてる姿でなくてなんだっていうの?」
わざとどや顔をしてそう言ってやると夫は悔しそうだった。
「くっ。さすがに僕も赤ちゃん好みのおっぱいは持ち合わせてないな。うーん……服の下に座布団でも入れたら少しはそれらしくなるだろうか」
そうやって、お互いに笑っていた。
三ヶ月を過ぎた頃から、母となったゆかりは喫茶いしかわに通い、おしゃべりや情報交換がてら皆に顔を見せるようになった。そして、それまであまり使われていなかった店の和室には子供のものがいろいろ置かれるようになった。
「うわ、ゆかりちゃん、目の下のクマ、和樹くんよりひどいよ」
なんて心配した常連客が、店内での真弓の世話を引き受け、ゆかりを和室で寝かせるようになった。
カフェインダメだけどたまにはコーヒー飲みたいと溜め息をつくゆかりの姿を見たマスターはデカフェやカフェインレスのコーヒーも扱うようになった。
そうして、喫茶いしかわの客層は小さい子やコーヒーが苦手な人、飲めない人も来店しやすいものに変わっていった。
喫茶いしかわの大人たちは思った。真弓は私たちにとって良い変化を与えてくれる天使だ! と。
・真弓 一歳
そろそろ真弓も一歳になるし、保育園に入れて、少しずつ喫茶いしかわに復帰しようかななんて言っていたゆかりだったが、第二子の妊娠が発覚した。
進が産まれ、ゆかりの日常は、また眠れない日々になった。和樹もなんとか手助けしようとはしているが本業の忙しさでなかなかままならない。
姉らしさに目覚めた真弓が進の世話をしようとして慌てて止めることも増えた。
ベビーベッドにいる進をじーっと見ていたかと思ったら手を伸ばしてばしばしと叩き始めたのだ。
「よちよち、しゅしゅぅくん、いーこいーこ!」
いきなり叩かれた進は目を見開いたかと思うとギャン泣きを始め、ゆかりが慌てて飛んできた。
「えっ、真弓ちゃん何してるの!?」
「んぅ? しゅしゅむにいーこいーこしてた! こぇでおねんねしゅるんでちょ?」
けっこう大きな声でこもりうたを歌いながら、またバシバシと叩き始め、進がさらに泣く。
「んもう、なかにゃいの。いーこいーこ」
「まっ、真弓ちゃんストップ!」
ゆかりは慌てて真弓を止める。真弓はなぜお世話を止めるのかと不満そうだ。唇が尖っている。
たしかに進を布団の上から叩いていて、それはおそらく両親の真似で、お世話をする気満々なのは感じられたのだが、いかんせん力の加減を間違えている。全力で叩いてはダメなのだ。
「真弓ちゃんが進くんのお世話してくれるのは嬉しいのよ。でもね、あんなに叩くと進くんが“痛い痛い!”ってなっちゃうからね。こんなふうに、お布団の上からさすってあげて。そのほうが進くん気持ちよくなっておねんねできるんだよ」
「うん! わかった!」
それから、真弓はよく「いいこでおねんねしてね」と進をさするお世話をするようになり、そのまま眠くなってコテリと進の隣でお昼寝することが増えた。
その頃、梢の提案で真弓は週に数回、梢と共に喫茶いしかわに出勤することになった。
常連客は母業のベテランだらけだ。このくらいの子供に食べさせるもので気に入りそうなものは何か、交代で持ってきてはいろいろと食べさせるようになった。好奇心旺盛な真弓は毎日いろんなものが食べられてご機嫌だ。
真弓のおもち好きが周知されたのもこの頃だ。最初は小さく作った白玉ぜんざいをご機嫌で食べている姿を見て「あら、あんこ好きなのかしら。食の好みは和樹くんに似てるのかもしれないわねぇ」なんて言っていたのだ。
真弓は喫茶いしかわ常連客のマスコット的アイドルとなった。
「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ばせたいマスター夫妻が呼び方の練習をさせると、真弓が舌足らずなしゃべり方で「じーあ」「ばーあ」と呼ぶようになって、マスター夫妻の相好はさらに崩れるようになった。
真弓はやっぱり天使だった。
・真弓 二歳
真弓は進とともに保育園に通い出し、かなり活発に動き回るようになった。ゆかりも短時間ではあるが忙しいランチタイムだけ喫茶いしかわの勤務に復帰するようになった。
真弓の祖父の呼び方は「じいじ」に変わった。マスターはでれでれになった「じいじだよー」なんて手を振ったりお気に入りのごはんやおやつをたべさせたりしている。進にも「じいじ」と呼ばせようと奮闘中だ。
そして祖母の呼び方は。
梢が必死に「おばあちゃん」と言わせようとしていたら、なぜか「あーやん」になってしまった。梢はがっかりだ。
「はぁ。おばあちゃんって呼ぶの、そんなに難しいのかしら」
「まあまあ、“あーやん”ならまだ可愛らしいじゃないの」
「それはそうだけど……真弓ちゃんなら練習すればまだチャンスはある! “おばあちゃん”」
「あーやん」
「まゆみ」
「まぅみ」
「おばあちゃん」
「あーやん」
交互に指し示しながら練習していくと、ついにあーやんから脱却のときが……!
「おばあちゃん」
「……ばっちゃ!」
梢は思った。“あーやん”のほうがマシだったかもしれない……。その日はちょっと落ち込んで黄昏た。
・真弓 三歳
真弓はすっかりおしゃまさんになってしまった。
知ってることは聞いてほしいし、好奇心旺盛で「まゆみもやる!」を口癖のように使っている。
そして今。
進がにこにこしながら「あーやん」呼びをしていて、真弓が教える側に回っている。
「ちがうでしょー。あーやんじゃなくて、おばあちゃんってよぶんだよぉ」
去年の真弓の様子を思い出しながら、微笑ましい気持ちで喫茶いしかわの大人たちは見守っている。
常連客が真弓を構い、遊んでやっていると、真弓は時折ちらちらとゆかりやマスターや梢の様子を興味津々でじっと見ている。
和樹がただの常連客だった頃から二人の仲を応援していた大島のおばあちゃまが、そんな真弓の様子を見て、こっそりと聞く。
「ねえ、真弓ちゃんは、お母さんやおじいちゃん、おばあちゃんみたいになりたいの?」
ぱっと振り返って大島の目をじっと見た真弓は、ふにゃりと表情を崩してコクコクと頷く。
人差し指を唇に当ててシーッのポーズをしながら大島にこそこそと教えてくれる。
「だれにもいっちゃダメだよ。あのね、おかあさんは、まほうつかいなの」
「まあ」
大島が驚いて見せると、さらに続けた。
「おうちでね、おかあさんがちゃいろのどろどろのおさらをはこにいれて、ふたりで“おいしくなーれ”っていったらね、はこのなかでいいにおいがして、けぇきができたの! おかあさん、けぇきのまほうつかいなの」
「あら、それは素敵な美味しい魔法ね。きっと真弓ちゃんも使えるようになるわ」
大島は穏やかに微笑みながら、真弓の頭を撫でる。
「うん。でもね、けぇきなくても、えぷろんしてるおかーさんかっこいいの。まゆみもおかあさんみたいにかっこよくなるの」
「ふぅん、そうなのね。まゆみちゃんがお母さんみたいになれるの、楽しみにしてるわね」
大島は近い将来、笑顔のそっくりな看板娘が増えるのが楽しみで仕方ない。それまではなんとしても健康で生きていなくては! と決意を新たにするのであった。