徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「そういえば、どうしてユウが彼女だと思ったんです? 寝顔が幸せそうだったとしても、もしかしたら男の名前かもしれないとは思わなかったんですか?」
「それは……まったく思いませんでした」
「なぜ?」
小首を傾げながら訊くと、隣を歩く彼女は「だって……」と白い息を吐きながら眉を下げる。
「だって“ゆう”って名前の女の子は学生時代に何人かいたし、それに和樹さんは女性に対して“さん”付けで名前を呼ぶでしょう?」
「うん、そうだね」
「それに男性に対しても“くん”付けや名字に“さん”付けで。長田さんのことを長田って呼んだりしているのは知ってるけど、性別問わず誰かの名前を呼び捨てするのは、わたしは今まで一度も聞いたことがなかったから……だからそんな和樹さんが呼び捨てにするってことは特別な人なのかなって思ったんです」
結果的には勘違いでしたけどねとゆかりは、アハハと乾いた笑いを溢す。
『和樹さんが呼び捨てにするってことは特別な人』
なるほど。彼女の中ではそういう認識で、特別な人=恋人なのか。
「……ゆかり」
そう呼んだ瞬間、隣を歩くゆかりの足がピタッと止まり、同じように足を止めて和樹は彼女の顔を覗き込む。
「顔、真っ赤」
街灯の下。愛しい人はまるで林檎のように顔を真っ赤にしている。
「ゆかりは僕の特別な人だから」
「……び、ビックリした……って、あれ? 和樹さん顔赤いですよ」
「……言われなくても自覚してます」
頬だけじゃない。身体中が熱を帯びて熱いし、心臓はバクバクと激しい音を立てている。
「好きだと言えたから、呼び捨てくらいハードルが低いと思ったけど、まったくそんなことがなかった」
「緊張した?」
「ええ、かなり」
「ふふっ。可愛い」
「可愛くなんかありません」
「和樹さんはそう言っても私からしたら可愛いの。こんなふうに照れるんだぁって、また新たな和樹さんの一面を知ることができて嬉しいです」
ふにゃりとゆかりは笑う。
「ねえ和樹さん」
「なんです?」
「私も和樹さんのこと呼び捨てでで呼んでみてもいい?」
「えっ?」
「だって私にとって和樹さんは特別な人だもの。ダメかな?」
上目遣いでそんなことを言われたら。というかお願いされなくても答えは決まってる。
和樹がコクりと頷くと、彼女の笑顔が更に輝きを増す。
「和樹」
「……っ」
名前を呼ばれる、たったそれだけのことなのに。世界で一番愛しい女の子から呼ばれるとこんなにも胸が締め付けられて、こんなにも嬉しくなるなんて知らなかった。
「ふふっ。和樹さん顔が真っ赤。お揃いですね」
「……お揃い」
彼女とお揃いというだけで、顔が赤くなるのも悪くないなと思ってしまうんだから自分は単純な男だ。
自分の頬と和樹の頬。交互に指さしながら楽しそうに笑うゆかりにつられて和樹も笑った。
「さぁ、寒いから行きましょうか」
「はーい!」
満月が輝く夜空の下を二人は再び歩き出す。
右手と左手。二人の繋ぐ手はあの日と違って、褐色の指と白い指が絡み合っていた。