徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「ちょっ、ちょっといいですよ! 和樹さんも忙しいでしょう? これは私のお仕事ですから」
スタスタと強風をモノともせずに歩く和樹の後をゆかりはポテポテと追いかける。
「忙しくありません。むしろ仕事が終わって帰るところです。帰る前に喫茶いしかわのコーヒーをのんびり飲もうと向かっていたら、不審な格好のぬいぐるみを見つけたんです」
「ぬいぐるみじゃありません! それならこのまま喫茶いしかわに行ってください! 和樹さんみたいな軽装じゃ風邪ひいちゃいますよ!」
強風が和樹の髪を乱暴に撫でている。今現在、雪は降っていないけれども舞い上がった粉雪が和樹の全身にうっすらと積もっている。
「煩いぬいぐるみですね。そんなにコロコロしてたら風で煽られて大切な商品落としますよ。ぬいぐるみはぬいぐるみらしく大人しく付いてきてください」
「ぬいぐるみじゃありません!!」
風が強いのでゆかりは大声で文句を言うが、和樹は声を張り上げている様子はない。それでもしっかりと声が届くのはアレか、舞台俳優がどんなささやき声も会場の隅まで届かせることができるという発声方法と同じなのだろうか。
結局、和樹が言った通りゆかりは何度も強風に背を押され体制を崩しながらも、なんとか転ぶことなく目的のビルに着いた。保温ポットを持っていない方の腕と肩でガラスの扉を押し開け、和樹を建物に入れると、ふう、と溜息をついた。風がないだけで、ずいぶんと温かく感じる。
ゆかりは手袋を外しコートのポケットに突っ込むと、マスターに『無事に着きました』とメッセージを送った。すぐに既読になったので、やはりマスターも心配してくれていたのだろう。ゆかりはフードをはぎ取り、ロングマフラーを解いて腕に引っ掛けると和樹を見た。彼はオードブルを持ったまま、空いている方の手で全身の雪を払っている。
「和樹さん、ありがとうございました」
そう言ってオードブルを受け取ろうとすると、再び不機嫌そうな顔でゆかりを見下ろしてきた。たしかに和樹の方が長身だけれども、こうもギロリと見下ろしてこなくてもいいではないかと思ってしまう。何がそんなに気に入らないのだろう。
「オードブルを右手で持ったら、どうやってエレベーターのボタン押すんですか?」
「え? ボタンくらい押せますよ?」
「いいから、何階ですか?」
「十七階です」
素直に答えると和樹はスタスタとエレベーターのボタンを押してくれた。どうやら十七階まで一緒に行ってくれるつもりらしい。ポーンという音と共にエレベーターの扉が開くと和樹がさっと乗り込み『開』のボタンを押して待ってくれた。二十階建てのビルは各フロアで入っている会社が違う。そこそこ大きな会社は二フロアにまたがっているけれど、大体はワンフロアに一社か、多いと三社ほど入っている。
ポーンという音と共に目的の階に着くと、二人はエレベーターを降りた。無人の廊下があり、ゆかりの目指す会社は廊下を進んだ先のガラス扉の向こうだった。
「持てますか?」
和樹が聞いてきてくれた。さすがにどう見ても喫茶いしかわの店員ではないスーツ姿の和樹にこれ以上ついてきてもらうわけにはいかない。それにこんなイケメンがいきなり現れたら黄色い悲鳴がフロアに響いて、事情を知らない人に通報されてしまう。
「はい! ここまでありがとうございました。それでは、いってきますね」
ゆかりはオードブルを受け取ると和樹にペコリと頭を下げた。何か言いたそうな和樹だったが
「いってらっしゃい」
と言うと今度は素直にゆかりを見送ってくれた。
「ありがとうございました」
一礼して配達先の会社のガラス戸から出る。オードブルのお皿は廃棄してもらっていいモノだし、空になった保温ポットはそのまま回収してきた。喫茶いしかわのコーヒーが大好きだという所長さんはとても喜んでくれた。こんな天気の中、ありがとうと笑顔で言われればゆかりはそれだけで幸せな気分になれた。ポットのコーヒーを保温用の紙コップに入れ、ミルクと砂糖、マドラーをセットしゆかりは退出した。
「あれ?」
エレベーターに向かうとイケメンがいた。
腕を組み、背中を壁に預け目を閉じている。長身で引き締まった身体のイケメンはいるだけで絵になるなぁと思いながら近づいた。
「終わりましたか?」
和樹と書いてイケメンと読む男性がチラリと目を開けてゆかりを見た。
「はい。とっても喜んでもらえました」
「それは良かったですね」
「あの……和樹さん?」
「はい?」
「もしかして、待っていてくれたんですか?」
「……まさかさっさと帰るような薄情者と思われていたんですか?」
「そういうわけじゃないんですけど、まさか待っていてくれるとは思ってなかったので」
「こんな悪天候の中、ぬいぐるみみたいなゆかりさんが風に飛ばされるんじゃないかと心配だったので、喫茶いしかわに戻るまで見届けることにしたんですよ」
「え!?」
「なんですか? 不満ですか?」
「いえ……でも、和樹さんお仕事で疲れてるんだから、帰られたほうが……」
「なんですか? 迷惑ですか?」
ああ、これはダメだ。どんどん不機嫌になっていく。普段なら見せないイラついた表情で和樹はエレベーターのボタンを押した。
「……和樹さんが迷惑でなければ、一緒に喫茶いしかわまで行きませんか? お礼に温かいコーヒーをご馳走します」
そう言うと、和樹がチラリとゆかりを見てニヤリと笑った。これは笑顔というより不敵な笑みというヤツだ。
「初めから素直にそう言ってくれればいいんですよ」
和樹が言うと同時にエレベーターのドアが開いた。
小さなモーター音が響く室内でゆかりは階の表示を見ている。和樹はエレベーターの奥の壁に寄りかかっている。
ゆかりはチラリと和樹を見て心配になる。疲れてるんじゃないのかなぁ? 早々に帰って休息をとってもらいたいけれど、あまりしつこく言うと再び機嫌が悪くなってしまう。このまま喫茶いしかわにきてもらってマスターの絶品コーヒーと軽食をとってもらって、少しでもリラックスしてもらえればとゆかりは思っていた。
ブツン
「?」
変な音とともにエレベーター内が暗くなる。響いていたモーター音もしておらず、痛いくらいの静けさが辺りを包んだ。
「あれ?」
階の表示を示していたモニターも真っ暗になっている。これは……まさか……
「止まっちゃった?」