徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
草木もねむる丑三つ時に、僕は煌々とした照明のもと、無心でキーボードを叩いていた。時折周囲から長い長い溜息や、缶を机に置いた時のコンっという音が静かな部屋に響く。
会社に缶詰になってもう何日だろう? 日付を数える暇があるならキーボードを叩いて早く帰りたい。
ふあっと欠伸を噛み砕く。チラリと机上にあるスマホを見ればそろそろ仮眠交代の時間であることに気づく。
仮眠室はあるが数に限りがあるため、こうして大人数で缶詰するときには交代で使うか諦めてデスクで寝るかの二択だ。
僕としては仮眠する時間があるならさっさと終わらせて家に帰りたいのだが、周囲から
「倒れたらどうするんですか! 奥さん泣きますよ!」
と脅されたのでこうして仮眠をとることに決めたのだった。
何時間も座りっぱなしだった下半身はミシミシと嫌な音を立てるが気合で立ち上がり、首を一つコキッと鳴らして、仮眠室へと足を向ける。
ふと、月明かりが眩しいと廊下の窓から外を覗くと雲ひとつない星空が広がっていた。
「ねえ、和樹さん! 星が綺麗ですよ!」
いつか、僕の方へくるっと振り返った彼女の眩い笑顔がふと、頭を過ぎる。いるはずのない彼女の声が聞こえた気がした。
ああだめだ、会いたい。彼女の声が聞きたい。
会いたくなってしまうと思って思い出さないようにしていたのに、こうしていとも簡単に思い出してしまう。
でも時間が時間なので会いにも行けないし、電話をかけることも躊躇われる。でも……。
しばらく逡巡し、僕は胸ポケットからスマートフォンを取り出す。
五コールだ。それで出なければ帰れる日まで我慢をする。己にそう言い聞かし、左耳へ当てる。
プルル、という音が一回、二回、三回。
「はい」
僕は息を呑む。
「はい……もしもぉし……」
「あ、あの……」
「んん……和樹、さん?」
寝起きなのだろう、彼女の声はとろとろに溶けていて今にもまた眠りにつきそうなくらい甘い。
「ごめん、寝ていたのに電話して……」
「ふふ、大丈夫ですよお……どうしたんですか?」
非常識な時間に電話をかけているにもかかわらず彼女は小さく笑う。
「えっと、その……」
「はい……」
「ゆかりさんの声が聞きたくて、電話をしてしまいました」
我ながら直球だな、と照れ臭くなり右頬をポリ、と掻く。電話の向こうの彼女はしばらく沈黙し、その後へへっと笑った。
「和樹さん直球ですね……何日も寝てないんでしょ」
「仰るとおりで……」
「もう、睡眠は身体のために不可欠だと夜更かしした私にお小言を言っていたのはどなたでしょうね」
「……耳が痛いです」
「……ふふ、冗談です。でも本当に寝てくださいね?」
「善処します……」
「あ、それしないやつ」
一瞬の間のあと、お互いに「ふっ」と堪えきれずに吹き出す。彼女との何気ない言葉の応酬が心地よくて、ずっと聞いていたい気持ちに襲われる。
「和樹さん、いま休憩中なんですか?」
一通り笑い終えた彼女は普段通りの口調で訊ねてくる。
「うん、これから仮眠するところなんだ」
「え、じゃあ早く寝ましょ! わたしとお話ししてたら寝るの遅くなっちゃう」
「大丈夫、寝るよりもゆかりさんと喋ってる方が何百倍も元気になれるから」
「もう……」
照れと呆れが混ざった顔をしているな、と彼女の声音だけでわかるようになってきたのは、僕らがそれだけ共に過ごした証だと頬が緩む。
「ああ……声聞いていたらもっとゆかりさんに会いたくなってきたな……」
ポツリと呟いた声はシンと静まり返った廊下に吸い込まれる。
彼女に会ったら抱きしめて、手を握って、髪を撫でて、鼻先を擦り合わせて、キスをして……だめだ、会えないのに想像したって余計に会いたい想いだけが募ってもどかしくなるばかりだ。
不毛な妄想を頭から追い出そうとしたその時、彼女の小さな声が鼓膜を揺らした。
「会いに来てください……夢の中でなら会えます」
ねっ? と笑みを含んだ声に僕は一瞬呆気に取られる。だがすぐに彼女の可愛いお願いに僕は笑い声を返した。
「それは、早く会いに行かないとですね」
「そうそう。だから早く来てね。じゃないと帰っちゃいますからね」
彼女はやっぱり笑い声とともにそんな一言を返してくれた。