徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
どんなに完璧な人間だって、時にはミスをする。
どんなに優しい人だって、時には怒りたくもなる。
どんなにさすが看板娘と褒めてもらえても、そんな看板娘をお休みしたい日だってある。
「つ、疲れた……」
力の入らない足をなんとか引きずって、カウンターチェアに腰を落ち着ける。座り込んだ瞬間に「あ、これはしばらく動けないな」と悟ったけれど、もう座ってしまったからどうしようもない。
イベントがあったわけでも、新作や季節限定メニューの初日でもなんでもない、ただの平日。それなのに、なぜか今日はモーニングからお客様がひっきりなしに来店し、ゆっくり座ることもままならないほどの盛況ぶりだった。
本来であれば、これだけの繁盛は接客業を仕事にしている身としては喜ぶべきところなのだろうけれど、あいにく今日の私は素直に喜べなかった。
「うう、腰痛い……」
座った途端に薬の効果も切れたようで、腰が鈍く痛み出し、思わず小さく唸りながらカウンターに突っ伏してしまう。
今日は生理初目で、私にしては痛みも経血量も普段より多い日だった。朝から下腹部と腰に鈍い痛みを感じていたけれど痛み止めを飲み、騙し騙しで今日一日を過ごした。忙しさに加えて生理痛も手伝い、正直笑顔が若干ひくついていた感は否めない。
「今くらいはいいよね、誰もいないもん」
ポソっと小さく呟き、顔に貼り付けていた笑顔を取り外す。
笑っていればいいことがあるし、自分も周りも明るくなれる。笑うことは苦ではないし、むしろいつだって笑顔でいたい。
でも、私だって人間だ。しんどいこともあれば、泣きたくなることだってある。そして、笑顔でいることが辛い日も。
無意識に口から溢れる溜息をそのままに突っ伏していると、突然ひんやりとした僅かな重みが頭上に加わり、「ひぇっ」と情けない悲鳴を上げる。
ぐるりと視線を巡らせると、その元凶である彼が笑みを浮かべて背後に立っていた。
「お疲れさまです、ゆかりさん」
「え、和樹さん!? びっくりしたぁ、音がしないからもう帰ったんだと思ってたのに……」
「ゆかりさんへ何も言わずには帰らないですよ」
そう笑った彼は私の隣に音もなく腰掛ける。
「和樹さんもそういうイタズラするんですね」
「はは、僕だってイタズラくらいしますよ? それに、ゆかりさんにこれを渡そうと思って」
コト、とテーブルに置かれたのは私が大好きなバニラ味のアイス。
「これって……」
「頑張っているゆかりさんにささやかですがプレゼントです。ご褒美アイス、でしたよね?」
ふわりと微笑む彼に私は思わず息を呑む。
たしかに以前、彼に
「もう無理! って疲れた時に食べるご褒美アイスなんですよ」
と話したことがある。
でもそれは、いつ話したか思い出せないくらいありふれた些細な会話だったはずだ。なのに、彼は覚えていてくれて、そして今日の私が普通ではないことも、すべてわかっていたのだ。
「全部お見通し、なんですね……」
「これでもそれなりに目端は効くつもりなので」
はい、と彼から差し出されたアイススプーンを受け取ると、彼は席を立ってカウンターの中に入っていく。
「和樹さんの分は?」
「僕はコーヒーを飲むので大丈夫。ゆかりさんも飲みますか?」
「あ、はい……」
一つ頷いた彼は私に背を向けてコーヒーの準備に取りかかる。ペリ、とアイスのフィルムを剥がす音とお湯が沸く音だけが静かな空間に響いた。
「……今日ね、すごく頑張ったんです」
「……はい」
ポツリとつぶやいた私の言葉に彼は静かに相槌を打つ。
「お客さんいっぱい来てくれて、『ゆかりちゃんの笑顔みたら疲れも吹っ飛ぶよ』って私の笑顔を褒めてくれて……。本当は笑っている余裕なんて全然ないのにね。でも、皆が喜んでくれるなら、看板娘って言ってもらえるように頑張らなきゃって無意識に気を張っていたみたいで」
でも話してすっきりしちゃった、と笑いながら言えばツンと鼻奥が痛む。突然の痛みに顔を歪ませれば、視界がじゅわりと滲んだ。
「やだ、なんで……」
泣きたいわけじゃないのに意思とは裏腹に言葉尻は震えてしまい、耐えきれず零れ落ちた一粒の雫がテーブルに染みを作る。
「ふっ、うっ……う~~っ」
ぽろぽろと流れては止まらない涙を手の甲でぐいと拭えば「強く擦ってはダメです」と、それまで静かに聞いてくれていた彼がおしぼりを差し出してくれる。
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら「ごめんなさい」と素直に受け取れば彼がふっと笑みを零した。
「泣きたいときは泣いた方がいいんですよ。涙にはストレスホルモンを体外に排出するデトックス効果があります。それに泣くことで副交感神経が活発化しますから、起きている状態でも寝ているときと同じくらいのリラックス状態になれるんです」
「……ふふ」
「え、おかしなところがありましたか……?」
「あ、ごめんなさい……。和樹さんならこういうとき、少女漫画のヒーローみたいなイケメン台詞言うのかなって勝手に思ってたからつい。なんだかお医者さんみたいなこと言うから」
「あっ、すみません……もっと気の利いたこと言えればいいんですけれど」
「いえ、大丈夫ですよ! それにほら、涙引っ込みましたし」
両目を指差してニッ、と笑いながら彼の方を見る。
「……みたいですね」
和樹さんは眉を下げ、少しだけ困ったように微笑んだ。きっと、私の目元が真っ赤に腫れて痛々しいからだろう。彼は自分の痛みには鈍感なのに、人の痛みには敏感すぎるきらいがあるのだ。
「あーあ、和樹さんがホルモンって言うからホルモン食べたくなっちゃった」
「そう言いながら食べてるの、アイスじゃないですか」
「アイスは別腹ですから」
少しだけ溶けてしまったアイスをスプーンで掬い取り、舌の上に乗せればひんやりとした甘さが口いっぱいに広がる。へへっ、と頬を緩ませていれば、少しだけ呆れたような顔をした彼がカップを二つ手にして、カウンターチェアに腰掛ける。
「じゃあ、食べに行きます?」
「え?」
彼の言葉に驚いた私はゴクリと口に入れたばかりのアイスを勢いよく飲み込み、喉を滑り通る鋭い冷たさに少しだけ顔を歪ませる。
「その、無理にとは言いませんが……」
「あ、いやこれはアイスが冷たくてですね……。その、い、行きたいです! ホルモン食べたいです!」
ただの同僚とはいえ、仮にも異性。初めて和樹さんと二人で食事に行くのがホルモンとは、なんとも色気がないけれど、『ホルモンを食べたい』という己の欲には抗えない。抗えるわけがない。
子供のように元気よく「はい!」と右手をあげれば、彼はコーヒーを啜りながら「じゃあ決まりで」と目元を緩ませて笑った。
◇ ◇ ◇
「ふふ」
あの時のことを思い出してクスクス笑っていれば、両手に持っているマグカップをテーブルに置き、私の隣に座った彼は不思議そうな顔を向けてくる。
テーブルから香ってくる嗅ぎ慣れた芳ばしい香りに、思わずほぅっと溜息が溢れ出た。
「どうしたの?」
「和樹さんにご褒美アイスをもらった時のことを思い出して」
「ああ……ホルモン食べに行ったときのこと?」
シャク、という音とともにスプーンで真っ白なそれを掬って頬張れば、あの時と変わらない甘いバニラが口いっぱいに広がる。
「そうそう、初めての食事がホルモンって! って。今考えても面白くて笑っちゃった」
美味しかったですけどね、と笑えば空色のマグカップを手に取った彼もまた笑う。
「僕は、ストレスホルモンの話をしたらホルモンを食べたくなるゆかりさんの方が面白かったけどね」
「えぇ? そうですかねぇ」
「そうだよ」
お互い数秒見つめ合い、どちらからともなく失笑する。
「また連れて行ってくれますか?」
「もちろん」
可愛い奥さんの可愛いお願いだからね、と彼はそっと私の唇にその唇を落とす。
「甘い」としかめ面をする彼に、私は「苦い」と笑って返すのだった。
彼がくれる“小さなご褒美”が私にとってなによりも嬉しくて、今までもこれからも大切なものなのは、私だけの秘密なの。