徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
和樹の手のひらがゆかりの柔い頬を包んだ。色の濃い手のひらに重ねられた頬は日に焼けていないため、その手の下では肌が一際白く見える。
その色のコントラストを見るのが和樹はとても好きだった。ゆかりに触れている、と視覚ではっきり実感できるからだ。
柔い頬を包んだまま、和樹はゆかりの顔に影を落とす。唇と唇が触れ合うまであと少し、というところで和樹は吐息を溢すように言葉を紡いだ。
「目、瞑らないんですか」
「うん。きれいだから」
この距離まで近付けば、いつものゆかりならその澄んだ瞳を瞼の裏に隠してしまうはずなのに今日はまん丸のまま和樹を見つめている。
きれいだから、とぼんやりした声が返ってきたけれど何のことだか和樹には分からずその言葉を鸚鵡返しにすれば、ゆかりがふにゃりと元々下がっている目じりをさらに下げて笑みを浮かべた。
「和樹さんの睫毛と瞳が重なっててね、とてもきれいなの」
ぱっちりと目を開いたゆかりと違い、少しだけ瞼を下ろしていた和樹の視界にはゆかりが言うように睫毛が透けて見えていた。その重なった様を和樹は見ることができないけれど、正面に座っているゆかりからは見えている。立っている時だと身長差があるから遠くて見えなかったし、ベッドの中だと暗くて見ることができなかった。そんな余裕もない、というのもあるけれど。
だからこそ、初めて気付いたのだ。
長い睫毛と瞳が重なるそれと、彼の瞳の奥の奥で揺れる熱のこもった色彩がとてもきれいだということを。明かりのついたまま、まだ穏やかな気持ちでいるこの時にだけきっと見れるのだ。
それを知ったいま、ゆかりは目を離せそうになかった。
そんなゆかりに対して和樹は、いつもと違うゆかりの反応を少しつまらなく思ってしまった。いつもであれば照れながらも和樹を受け入れるため、目を瞑るゆかりが見れるはずなのに。大の大人が、しかも男がやっても可愛くないと分かりつつ和樹は口を尖らせて、お風呂上がりの何にも覆われていないゆかりの唇を親指でそっと撫でた。そして口の端に親指を添えたら少しだけ下へ力を加えゆかりの口をほんの少し開かせる。
「キスしていい?」
「んー、だめです」
ゆかりは膝の上に置いていた手を持ち上げて和樹の顎へ指を掛ける。抵抗するというより、添えられただけの指先では和樹を止めることはできない。けれど和樹はおとなしくゆかりを見つめていた。不満です、と眉間にシワを寄せればゆかりがパチパチとまばたきをして小首を傾げる。その動きに合わせて髪がさらりと肩を滑った。
「もっと見ていたいの。だって、こんなに近くで見られるのはわたしだけの特権でしょう?」
唇が触れ合うほどの近い距離で、丸腰の状態で、愛おしいと告げるような熱を持った瞳で、ゆかりを見つめてくれる。こんなに近いところにいることを許されているのはきっとゆかりだけ。それをわかっているからこそ、この瞬間が惜しくなる。ずっと見ていたいと思ってしまうのだ。
それに、もうひとつ。どうしても譲れないのは。
「それに、キスしたら目瞑っちゃうもん」
ほんのり頬を赤く染めたゆかりは和樹とのキスを思い出したのか、和樹がぐっと距離を縮めてから初めて照れた表情を見せる。
和樹がくれるキスはいつも優しくて甘くて激しくて、受け止めて感じることに精一杯になってしまうから和樹の瞳を見ている余裕なんてなくなってしまう。だから、こんなにもきれいな瞳を見ていられるのは今だけ。だからもう少しだけ、その色を見ていたい。
けれど、和樹にだって譲れないものがある。
「……なにそれ」
ゆかりが和樹の持つ色彩を見ていたいというように、和樹は和樹にだけ許されたゆかりの熱を感じたいと思うのだ。柔い頬だけではなく、唇にはもちろんのこと、首筋から鎖骨から胸からお腹からその下も余すとこなくすべて。ゆかりを形作るものすべてに触れたくて、その熱に浮かされたくて、蕩けてそのままひとつになってしまいたくて。ゆかりの最奥まで触れることを許されているのは和樹だけだから。一刻も早くそれに触れて、ずっと抱きしめていたいと思うから。
それに、あまりにも可愛いことを言うもんだから和樹はゆかりの要望を叶えてあげられそうにない。
「ん……っ」
ゆかりの緩い制止を振り切り、和樹はゆかりの唇に蓋をした。ぺろりと下唇を舐めてからそれを優しく食む。その弾力を堪能してからゆかりの口内へ舌を侵入させて和樹は閉じていた自身の瞼を少しだけ開いた。
ゆかりは先ほど言っていた通り、澄んだ瞳の色はそこにはもうなくて、瞼の裏側にぎゅっとしまわれている。和樹を受け入れるのに忙しいのだろう。そんな顔がとてつもなく愛おしくて、目が離せないと言ったゆかりの気持ちがわかった気がする。
お互いがお互いの特別で、許されている。その距離感があまりにも優しくて温かくて愛おしくて仕方ない。腕の中の幸福を噛み締めながら和樹はゆかりの熱を感じとった。ゆかりがきれいだと告げた瞳にゆかりだけを映して、ふたりは特別を許し合う。
きっとこの先も、永遠にずっと。
そう続けばいいとふたりは願っている。