徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
ゆかりと目を合わせた瞬間、首にスタンガンでも当てられたのではないかと思うほどの衝撃が和樹の脳髄を直撃した。彼女と和樹の瞳が交差しただけで倒れそうな程に目眩がした。「はじめまして」と紡ぐ彼女の声が鼓膜を刺激するだけで胸の奥が締め付けられた。和樹はひくつく喉からようやく声を絞り出して「はじめまして」と返した。彼女はふわりと微笑んで「よろしくお願いします」と元気よく返事をくれた。その笑顔だけで死ねる。そう思いながら、和樹は出ない声の代わりに何度も首を縦に振った。
和樹の人生の中で初めての経験だった。理屈じゃない。理由なんてすべて後付けだ。本能が叫んでる。運命とさえ思える。和樹はこの瞬間、石川ゆかりに一目惚れした。
土曜の朝、喫茶いしかわには叔母とその娘・飛鳥が朝食を食べに訪れていた。店内に他の客はいない。平日はサラリーマンで賑わうモーニングも土曜は閑古鳥が鳴くため、いつもより遅い時間の開店からゆかり一人で切り盛りしている。親戚かつ気心の知れた仲である常連二人と店員の会話は、いつもの朗らかな世間話ではなく、ゆかりの悩み相談になっていた。
「私、和樹さんに嫌われてるのかも」
ゆかりは深く溜息をつく。悩みの種は最近入ってきた年上後輩店員だ。本業があるためシフトにはなかなか入らないが、勤務態度は真面目でお客さんに対する丁寧な対応が評判のイケメン店員の地位を築きつつある。ゆかりにとってそこは問題じゃなかった。
「どうしてそう思うのかしら?」
「だって……いつも目を合わせてくれないし、たまに少し会話できたと思ったら、すぐどこかにいっちゃうの」
「あー、たしかに……で、でも嫌われてるわけじゃないと思うわよ」
叔母は口では同意したものの、その原因が分かるが故に、もどかしさに悶えたくなった。
和樹はゆかりに恋をしている。態度を見れば誰でも分かる。目を合わせないのも、会話も満足にできないのもすべて和樹が恋に不器用すぎるからだ。ほんの少し会話した後にゆかりの見えないところで耳まで真っ赤にしてるのを何度か見たことがある。ああ恋ってすごく眩しいんだねと園児の飛鳥にさえ思わせる純情っぷりだ。
二人の青春劇はもはや喫茶いしかわの風物詩。和樹に当初熱を上げていたJKたちさえも、その甘酸っぱすぎる大人たちの青春を見守っている。SNSの裏アカで「カズキさん頑張って!」と和樹がアクションを起こす都度書き込まれているのを叔母は知っていた。最近の書き込みは「ゆかりちゃんのくしゃみにびっくりして真上に飛び上がるカズキさんの前世はきっと猫」だ。思わず“イイネ!”を押した。
うーん、と唸る叔母を横目にトーストを食べていた飛鳥も苦笑するしかない。あの和樹という男は只者じゃない、はずなのに。突然現れて喫茶いしかわでの作業のあれこれをあっと言う間に習得してしまった。本業のほうもとても優秀な成果を出しているらしいことは公園でランチしていた部下らしき男たちの会話で耳にした。
そう、ゆかりの前ではポンコツでも本来の和樹は如才ない男である。
飛鳥は時計をちらりと見る。今日はそろそろ和樹がバックヤードに来ている時間帯のはずだと気付く。ここで悪戯心がちょっぴり疼いてしまった。
「ゆかりお姉ちゃんは、和樹お兄さんのこと嫌いなの?」
「うーん……嫌いじゃないよ。というより好きや嫌いになる以前の問題かな。彼のこと全然知らないから」
それ一番あかんやつ。親子は同じ言葉を頭に浮かべ、再び苦笑するしかなかった。
「……え?」
早めに店に到着し、バックヤードの出入り口で話を齧りつくように聞いていた和樹も愕然とする。なぜこんな爆弾に被弾するはめになったのか。無邪気な子供のしたことだと脳内で自分に言い聞かせつつ「くっ、後で覚えてろ」と負け惜しみを呟くくらいしかできない。
ゆかりは和樹の気持ちにこれっぽっちも気づいていない。それは恋を自覚する本人にとっては悲しい事実だ。だが恋心に左右されてやるべきことがおろそかになるのも良くない。そう考えた和樹はこれを機に、あまりゆかりを意識しないと決意した。さほど難しいことではない……はずだった。
(静まれ僕の心臓! いちいちときめくな! ゆかりさんが可愛いのは分かってる。把握済みだ。いいか、今日のミッションはゆかりさんに話しかけることだ! 「おはようございます、いい天気ですね」の十六文字だけだ! そうだ、挨拶の時だけは胡散臭い口説き文句でもさらっと言えてしまうジゴロになりきってしまえばいい! 大丈夫、やればできる! やれるやれるやれるやれる! さあ今だーー!)
という脳内戦争を挨拶の度に和樹は繰り返した。その様子は草葉の陰から見守る部下が思わず涙を浮かべるほどだった。そんな努力の甲斐あって、ようやくゆかりと軽い世間話までできるようになってきた頃。
くしゅん、と閉店作業中の静かな店内に響き渡るくしゃみにゆかりはくるりと後ろを振り返る。最近徐々に距離感が掴めてきた年上の後輩ポジションの和樹。嫌われているわけじゃなさそうだ、と感じ取っていたゆかりにとって和樹は他人から兄に近い同僚までランクアップを果たしていた。だからこれも、ゆかりにとっては悪気のない純粋な心配からくる行動だった。
「風邪ひいちゃいましたかねー?」
「~~っ!」
ゆかりの白く細い指が和樹の前髪をぱさりと横に流し、そして手のひらが額にぺたりと触れる。その感触と、今までにない至近距離に彼女が近づいてきたことで和樹のマインドコントロールは一瞬で粉砕された。限界はとっくに超えてる。ぶわっと体の奥から熱が吹き出る。蒸気が出てるんじゃないかと錯覚するくらいの熱量。
「え、和樹さん大丈夫ですか!? 頰が真っ赤!」
「あ、あの……」
「大変! やっぱり体調悪いんですね! さあ、奥で休んでください!」
額から離れた手は、和樹の手首を掴んでぐいぐいと引っ張る。トレーニングが好きで身体を鍛えていて部下や同じジムで鍛えている面々にはゴリラ並みと影で囁かれるほど腕力に自信のある和樹が、成す術もなくバックヤードのソファに押し倒される。
(は? 押し倒される? なんでゆかりさんが上に乗っかってるんだ? もうだめだ。僕はここで死ぬんだろう。今にも魂がひゅんと身体から抜け出しそうじゃないか!)
「もう! 無理しちゃダメですよ。とりあえず冷えピタ貼りますね~」
「ひゃ、い」
いつの間にか持ってきた冷えピタを額にペタッと貼られる。
(あ、気持ちいい。火照った肌をぐんぐん冷ましてくれる……)
「薬……はないし、あとは寝る!」
「あの、ゆかりさん。もう治ったので、大丈夫です。後片付けしましょう」
「和樹さんは寝ててください! あとで起こしにきますから。ちゃんといい子にしててくださいね?」
「はい、いい子にします」
言いつけ通りに和樹が目を瞑るとゆかりはフロアへ行ってしまった。しんと静まり返ったバックヤードには「ゆかりさんマジ天使……」という和樹の声だけが響いた。