徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
珍しいものを見た。
それはもう、ツチノコやネッシーにも負けず劣らずの凄いものだ。今、私の手元に拡声器があるならすぐにスイッチを入れて、商店街中に叫んでしまいたいくらいにはレアだ。
でもそれはちょっと、いやかなり可哀想なので心の中で叫ぶだけに留めておく。
「いっ、つ」
「ああ、痛いでしょうけど動かないでください!」
私の手元にはピンセットと消毒液をたっぷりつけたコットン。
目の前には額を見せる和樹さん。
そう、彼は店のドアに勢いよく衝突したのだ。
今日はマスターが朝からランチタイム終了の三十分後まで、私がランチタイムからラストまでのシフトで、彼はマスターと入れ替わりでティータイムからお手伝いしてくれることになっていた。
ランチタイムも終わり、私はうーん、と伸びをする。
「ゆかり、賄いできたよー」
「はーい! もうお腹ぺっこぺこ!」
カウンターからマスターののんびりとした声が聞こえてくる。ナポリタンの甘酸っぱい香りにお腹をぐうと鳴らしながら私はドアのプレートをひっくり返そうと振り返ると、キラッと何かがドアの前で光ったと思った瞬間に、ガシャンという衝撃音と「っだ」という聞き慣れたテノールボイスが聞こえてきた。
「え、あ、和樹さん!?」
「和樹くん!?」
「お、お疲れさまです……」
私とマスターは慌てて駆け寄る。カランというベルの音ともにドアを開けた先には、額を抑えながらへらっと力なく笑う彼がいた。
「いやあ、びっくりしたよお。冷静沈着な和樹くんがまさかドアに正面からぶつかるなんて」
はっは、と笑いながらもカウンターで一足先にナポリタンを啜るのはマスターだ。
「本当にすみません……」
彼はマスターにペコリと頭を下げるので、消毒液を染み込ませたコットンをチョンチョンと切り傷に強く当てないように慎重に動かしている私は「動かないで!」と目の前の彼にピシャリと言う。彼は私の気迫に負けたのかピタリと止まった。
「まったくもう! そんなに濃い隈作るからドアにぶつかるんですよ」
「まったくもってその通りです」
はは、と笑う彼の目元には擦ってもなかなか落ちない頑固な黒コゲのような隈があった。
「ボーっとしてたらファンのお嬢さんたちがガッカリしちゃいますよって前にお話ししたじゃないですか! ちゃんと寝れてます?」
ドラマで見かける警察の尋問のようにじいっと見ると、彼は言葉を探すようにあっちへこっちへ視線を動かしていたが、しばらくして両手を挙げて降参のポーズをする。
「最近はあんまり……」
「だろうと思った!その隈は一日、二日どころじゃなさそうですね」
「仰る通りで……」
彼が店にやって来てからちょっとずつ中身が充実し始めたた救急ボックスを開き、ガーゼとテープを取り出す。
「わざとじゃないんでしょうけど、どんなお仕事でも体が資本なんですからね! ちゃんと寝てください!」
言い切ると同時にペチンと貼り終えたガーゼを叩くと、「いっ!」と彼は小さく肩を揺らした。
それにしてもレアだ。
マスターも言っていたけれど冷静沈着、隙を一切見せない彼が真正面からドアへ激突したのだ。今も彼のスッと鼻筋の通った綺麗な高い鼻は赤いまま。いつも百点満点、一つ笑えばお金が取れそうな笑顔も今日は弱々しく、せいぜい四十点というところか。
あの三日以上はろくに寝てない証拠の隈と力のない笑みから相当根を詰めているのかな、倒れたりしないかなと不安になってしまう。
マスターと談笑する彼を見ながら救急ボックスを片付ける私は考える。
和樹さんのために私ができることは……。
◇ ◇ ◇
「じゃあ、片付けましょうか」
最後の客も見送り、残すは閉店作業だけとなった。彼はモップを取りにバックヤードへ向かおうとする。
「あ、待って和樹さん!」
「お、っと」
私はそんな彼の腕を後ろからグイッと引っ張り、呼び止める。普通ならたたらを踏みそうなところだけれど体幹がしっかりしているのか彼はびくともしない。
「どうしました? ゆかりさん」
「その、和樹さん……この後のご予定は……」
「え」
静かな店内には時計のカチ、カチという音だけが響く。腕を掴まれたままの彼は口を開け、目を見開いていた。
「あ、ゆかりさん何を」
「だから……今日この後何か予定あるんですか?」
「よ、予定って……」
聞こえないほど小さな声だったかしら? と思いながらももう一度質問を繰り返すと、彼は口元を掌で覆い、なぜか私から視線を逸らしながらボソッと呟く。
「い、いえ……特には」
「わあ、良かった!」
私は嬉しさのあまり、両手をパチっと叩く。
腕が解放された彼は「んんっ」と一つ咳払い。
「それで、ゆかりさんどうしてそんなことを……」
「決まってるじゃないですか! それは、私と一緒に来てほしいからです!」
ゴクっと喉を鳴らす彼に向かって私は「耳を貸してください」と内緒話をするように彼の左耳に手を当てて囁いた。
「岩・盤・浴・に!」
彼の左耳から離れて
「ねっ、いいでしょ?」
と笑うも「いいですね!」と賛同してくれるはずの彼はなぜか固まっていた。
「おーい和樹さーん」
フリーズしたままの彼の目の前で手をヒラヒラとかざすと、不自然なくらい笑顔の彼にガシッと両手で掴まれる。
一瞬、彼の背後に黒い何かが見えたような気がした。
「い、いいですね……岩盤浴……」
「でっしょーっ! 岩盤浴でいい汗をかいたら今日は絶対ぐっすり眠れますよ! オススメの岩盤浴の施設、和樹さんにも教えてあげますね。それで、帰りはコーヒー牛乳買って帰りましょ! あ、和樹さんはフルーツ牛乳派ですか?」
深いため息をつく彼に気づかない私は、この後実現するであろう和樹さんとの楽しすぎる未来を想像し、ふふっと笑うのだった。