徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「何か思っていることがあるなら言ってください。何でも聞きますから」
誠実で切実な和樹を振り切ることはゆかりには無理だった。どろどろに濁った想いを全部ぶちまけて楽になりたかったのもあるかもしれない。たとえ、彼との関係が続けられなくなっても。
「――きっと、めんどくさい奴だって思いますよ」
「そう思うかどうかは僕が決めることだ」
「…………」
「それに、こうやってゆかりさんと距離を感じてしまう方が僕は御免です」
そう強く断言されては誤魔化しきれない。
遅かれ早かれ伝えなければ、彼との関係は破綻してしまうだろう。ゆかりはついに腹を括った。
「その……和樹さんが私のことを好きになってくれた理由がいくら考えてもわからないんです。和樹さん、イケメンさんだし性格も爽やかだし、頭だっていいし。女性のエスコートだって完璧で。そんな和樹さんのとなりにいるのはせっかくのデートなのに大して着飾ってないTシャツとデニム姿の平凡な女で。さっき和樹さんが落とし物を拾ってあげた女の人みたいに綺麗だったら、もう少し考え方も違ったかもしれないですけど……」
ゆかりが胸の内を語れば語るほど、和樹は驚いたような顔を見せた。やはり、ゆかりの身勝手さに呆れ返ってしまったのだろう。ゆかりはあまりの羞恥心にこの場から走り去りたくなった。
「テーマパークを楽しむなら、デニムとスニーカーで十分ですよ。それに、よく似合ってる。好きですよ、そのコーディネート」
本心から言ってくれているのだろう。それが余計居たたまれなくなってしまうなんて、ゆかりの劣等感は想像以上に根深いらしい。あまりの情けなさに涙まで滲んでくる始末だ。
「和樹さんがくれた言葉だけで充分だと思いたいのに……たぶん私、どんどん欲張りでワガママになってるんだと思います。やっぱり、和樹さんの重荷になる前に、私たちは一度距離を置いた方が……」
不意に口をついて出たゆかりの本心は、言い切る前に途切れた。頬を両手で包まれたかと思えば、ぐいと持ち上げられて、言葉と呼吸が塞がれたのだ。
拒絶や軽蔑されるどころか、和樹から与えられたキスはこれまで交わしたものよりも情熱的で、何よりひどく優しかった。
「ゆかりさんの本心なら、いつだって喜んで聞きますよ。頼ってくれるなら、全力で応えます。だけど、僕から離れていくのは……許しません」
唇を離した和樹は至近距離でゆかりの瞳を覗き込む。
「絶対に、許さない」
和樹は眦を決していた。普段は涼しげに見える和樹の瞳の中で、ゆかりの知らない熱量を孕んだ焔が燃え盛っている気さえした。
「ゆかりさんがたとえ嫌だと言っても……もう二度とこの腕から離してはやれそうにない」
「で、でも……」
「それ以上同じことを言うなら、また口を塞ぐから覚悟して」
「――っ!」
和樹らしからぬ強引な物言いにゆかりはビクリと肩を揺らした。予想外の和樹の言動にいつの間にかゆかりの涙は引っ込んでしまっている。それを見た和樹は目を細めると、まるで繊細なガラス細工でも触るかのようにゆかりの頬をそっと撫ぜた。
それは、大切にされているのだとゆかりを自惚れさせるには充分な仕草だった。
「かわいいな」
「……へあっ!?」
自惚れがまさかの現実となり、ゆかりは素っ頓狂な声を上げた。「かわいいな」と言われたことに驚いた形をしたままのゆかりの唇に和樹のそれが再び覆うように重なる。啄ばむように唇が降ってきたかと思えば、後頭部をぐっと抱え込まれた。逃げ道を断たれてゆかりが戸惑う隙に、彼の舌がするりと滑り込んでくる。驚いて逃げても、追われては吸われ、まともな息継ぎさえ許してもらえない。
――もう、止めよう。不安な気持ちを抱え込んでしまうのは。
甘く長いキスに翻弄されながらもゆかりは思った。いつだって、真正面からゆかりと向き合ってくれる和樹を疑うことはもう止めようと。
言葉と行動のすべてでゆかりのわがままに応えてくれている和樹の想いを疑い続けろというのが土台無理な話だったのだ。恋人同士になる時からそうだったのだから。ゆかりが一人で抱え込んで勝手に不安になって劣等感に苛まれていただけだ。
ゆかりは、ようやく素直になって和樹の背中に両腕を回した。すると、吐息を零すようにして和樹が笑ったのがわかった。それで胸が痛くなるほどわかった。和樹も、ちゃんとゆかりのことを想ってくれているのだ。
「僕は、あなたが好きだ」
「……うん」
心行くまで堪能したのか、口づけを止めた和樹がゆかりに笑いかけてくれた。ゆかりも、和樹の言葉に神妙に頷いた。
「ゆかりさんは僕が完全無欠のように見えてるみたいですが、ゆかりさんが思うような清廉潔白な男ではないですよ」
「……え?」
「言ったでしょう? 僕、横目で一八〇度以上見るスキルがあるって」
「言ってましたね」
「さっきゆかりさんがどんな顔をして僕から距離を取ったかわかりますか?」
「わからないです」
嘘だ。本当はわかっている。嫌な顔をしていたに違いない。彼のとなりに立つに相応しい美貌の女性に対して嫉妬して歪んだ不細工な顔だ。
「僕のことが好きで好きでしょうがないって顔ですよ」
「それ、絶対錯覚ですよ」
せっかく和樹がなだめてくれたというのに即答で真っ向から否定してしまった。しまったと思ったが、覆水は盆に返らない。さすがの和樹も心外だと言わんばかりに眉をひそめた。
「そこまで言うのなら教えてあげる。僕がどれほどゆかりさんのことが好きか」
そう言うと、和樹はゆかりの耳元へ唇を寄せる。語られるのはゆかりの容姿、性格、何気ない仕草、ゆかり自身が無自覚だった癖の数々。一切のよどみもなく滔々と、枚挙に遑いとまがないと言わんばかりに。それこそショーが始まる直前まで和樹からの告白は続いたのだった。
頬だけでなく全身が燃え出しそうなほど熱を帯び、恥ずかしくて仕方ない。でも、それを心底うれしく思ってしまうなんて。
恋とはとかく面倒で、ままならないもので、それでいて単純なものである。