徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「ちょっと、和樹さん!?」
「寝てくれるんでしょ」
機能性を重視して作られたオーダーメイドのスーツは、ゆかりにとっては粗末に扱う対象ではない。しわになったらどうするの、と自分よりも腕に引っ掛けていた上着とネクタイの心配をしながら肘をついて上半身を起こすと、その腰の横に和樹は両腕をつき、ずいと体を進めてきた。
そして額が触れ合うほどの距離で片方の口角を上げる整った顔が、その辺のセクハラオヤジのような言い回しで漏らした言葉に、ゆかりは呆れ半分、相当疲れているのだろうといういたわりを四分の一、残りの四分の一はこの人まさか真面目に言ってないよね、という心持ちで迫る顔から仰け反り離れる。
「わたしは寝ませんて……寝ませんよ!? そっちの寝るじゃないです、眠ってください眠って!」
「やだ」
やたらきっぱりと、拗ねたような口ぶりでアラサー男はゆかりにぐいぐいと迫り、とうとうぱふん、と適度に柔らかく軋む音も立てないマットレスに背中から倒れ込む。
それに寝室の窓から差し込む日の光を逆光に、軽く添えるように薄く開いた唇がゆかりの唇を覆った。
和樹の上着とネクタイは、ゆかりの腹の上で抜け殻のように折り重なっている。
その抜け殻の本体はゆかりの華奢な体へ覆い被さり、触れるだけの口付けを何度も繰り返して、見た目よりも硬い髪をぐりぐりと首筋に押し付けた。そして唇は徐々に顎から首筋、鎖骨へと下がって行き、ゆかりは慌ててがっしりとした体を押し返す。
「やだじゃなくて……ちょっ、とぉ……和樹さ……ダメですって、疲れてるんでしょ!?」
「んー」
「聞いてる!?」
「聞いてない」
駄々っ子だ。
和樹は基本、冷静な姿勢を崩さない。それはゆかりとの年齢差からでもあるだろうし、ゆかり自身末っ子気質だということもあるだろう。
たまにわざとらしくゆかりをからかうために甘い言葉を投げてきたり、戯れに手を弄んできたりするがどこにも余裕があるもので、余裕がないとすれば夜か明け方、互いに熱に浮かされながら重ねる肌と視線の上であり――と、そこまで思い浮かべてしまい慌てて首を振る。
睡魔がピークなのか、触れてくる和樹の唇が普段よりも熱く、その時を思い出すせいだ。
今はその時ではなく、和樹が寝ぼけている所以だと知っている。だが悲しいかな、ゆかりの力では見た目よりもずっと筋肉質で重い和樹の体を押しのけて逃れることができない。
軽く布地の擦れる音がして胸元に視線を落とせば、両手で必死に目の前の男の体を押し退けようとするゆかりをものともせず、和樹が片手でゆかりのシャツのボタンを外していた。
ああ、なぜ今日に限って前ボタンのシャツを着てしまったのかと悔やんでしまうが、そんな現実逃避にもあっという間に胸の下辺りまでボタンを外され、薄手のキャミソールとそこから下着に整えられた胸の谷間に和樹の顔が埋まる。
「ちょっとぉ!」
「あー、ゆかりさんのおっぱい落ち着く」
「イケメンが口にする言葉じゃないですからね!?」
「そんなこと言ってゆかりさん、僕の顔なんて気にしないだろ」
どうでもいいから胸に顔を埋めて、さらにはぐりぐりと動かしながら喋るのは止めてほしい。髪がデコルテをくすぐり、うなじの辺りが泡立つのを感じながら先ほどよりもはっきりとしている口調に困惑しながらも応じる。
「ええぇ……好きだってのと和樹さんの顔が良いの関係な……起きてません?」
「おきてる」
「寝てる! 半分寝てるから! 寝るんならわたしどきますから、ねえ、和樹さぁん」
気のせいであったし、本格的に寝ぼけているのだと気づいて、ゆかりは押し退けようとして落ちてきた和樹と自分の体の間に挟まれた腕を、右腕だけ何とか救い出し、広い背中をばしばしと叩く。疲れていようがとにかく一度起こして、仮眠を取るなら取るで、スラックスまでせめて脱がさなければ。
ジャケットもネクタイも、もちろんゆかりの体の上にあるまま和樹に潰されている。このままではゆかりごと、和樹の体でアイロンされかねない。
「……あれ?」
そして気付く。胸元に顔を埋めた和樹から、くたりと力が抜けて、さらに重みが増したことを。
「嘘でしょ!?」
ゆかりの声に応えたのは、すっかり安堵しきった子どものように健やかな寝息だけだった。
◇ ◇ ◇
「本当にごめんなさい」
それから約一時間半ほど経ち、ゆかりも和樹の体温にうとうととしかけていたところで、彼はぱかりと目を覚ました。慣れなのだろう、そういえば共に寝るときも朝はアラームとほぼ同時に目を覚ましている。ゆかりがそんなことを考える間に、和樹は「夢じゃなかったのか」と呟いてそろりとゆかりの上から起き上がると、深々と頭を下げた。
ゆかりもまた、なんだかぎしぎしと痛む体を起こし、自由だった右手で左腕をさすると、鈍い感覚を覚える。長く正座して痺れた足を思わせた。
「いいんですよ、別に。ええ、だーいすきな彼氏が寝ぼけて襲いかかった挙げ句に人を敷いたまま寝ちゃっててもぜーんぜん、わたし気にしませんから。左腕がしびれてぜーんぜん感覚ないのも気にしませんから」
「え、大好き?」
「都合のいいとこだけ繰り返さない」
恨めしげな目で見つめると、和樹は苦く笑って軽く首を傾げた。その表情は確かに先ほどよりもずっと人間らしい。帰宅したときは幽鬼かなにかかと思ったが、少しでも睡眠を取れたことはよかった、と思ってしまうことにゆかりはまた難しい顔をする。怒っているし怒りたいのに、よかったという思いの方が先に来てしまうのは絶対に惚れた弱みだ。
たとえ、案の定スーツの上着はしわくちゃになってしまっていても。
「でもすっきりした、ありがとう、ゆかりさん。本当にごめん」
「何について謝ってますか」
「今度は枕にするんじゃなくて、時間のあるときに起きててきちんと気持ちよくしてあげるから」
「そこじゃない!」
内容に(あからさまな言い方をしない程度の気遣いはあったものの)思わず声を上げると、和樹は軽く声を上げて笑って本当だよ、と告げる。
そこの本当ではなく、食事は体力が資本であるから取っているようだが、きちんと休養も取ってほしいしいきなりセクハラみたいなことを言わないでほしい、と色々と言うべきことがあった。
だが、今度は意識がはっきりとした状態で触れてきた上機嫌な唇にすっかり飲み込まれてしまった。