徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「ゆかりさんはどうしてここで働いてるんですか?」
なんの気なしに紡いだ言葉に自分自身で驚く。何をもってそんなことを問いかけたのか。彼女の手が止まり、少しだけ首を傾げて僕を見つめる。不思議そうにしながらも、こくん、ともう一口だけ喉を潤して、それでも「そうですねぇ」と柔らかく言葉を紡ぎ出した。
「喫茶店って、なくても困らないと思うんですよ」
「え」
今度は僕が手を止めて彼女を見つめる番だった。その様子に気付いたのか、彼女が「喫茶店員がこんなこというのはおかしいと思うんですけど」と慌てた。
「喫茶店って、たとえば……お医者さんとか、おまわりさんとか、消防士さんとか。そういう必要不可欠な存在というか、場所っていうわけでもないと思うんですよね。なかったらなかったで誰も困らないし。今はこういう風にコーヒーも紅茶も美味しいものがたくさん売られていて、家で誰でも美味しく楽しめるじゃないですか」
「まあ、そうですね」
「でもね、私はお店でコーヒーや紅茶を飲むと、家で飲むよりも幸せな気持ちになるんです」
カップを手にしたまま、彼女の穏やかな目が僕を見つめた。
「なくても良いかもしれない。でもあったら幸せな気持ちになれる。ほっと一息がつける。そんなお手伝いがしたいなぁって思ったんです」
彼女の眩しさに。真っ直ぐさに動揺したのは何故なのか。何も言葉を返せないでいると、そのことにおそらく気付いていない彼女は柔らかく笑った。
「誰かの幸せになれるお手伝いができるなんて、こんなに素敵なことはないなあって思うんです」
少し恥ずかしそうに微笑んで、ぽつりと呟く。
「まあ、巡回で来てくださる警察の方とかに比べれば、私の力なんて微々たるものなんですけど……」
と、そう言ってカップに口を付ける。
「でも、そういうみんなのために頑張って下さってる方こそ、幸せになって良いと思うんですよね」
「……そう、ですか?」
「だって、誰にでも幸せになる権利はあるでしょう? 誰かのために頑張っている人なら、なおさら」
「……自分の、全うすべきものを蔑ろにしても、ですか?」
なぜか無様なほどに動揺しているのに、必死に笑顔の仮面を貼りつけようとする。思考が忙しなく働いて、ただの同僚の、彼女の綺麗さに動揺する。
「うーん、そういう方って正義感が強いから、そもそも蔑ろにするってことはないと思うんです。でも、もし私が同じ立場だったら……両方叶える、かな」
「……っ」
少し考えたように視線を宙に漂わせた後、彼女から発せられた言葉に衝撃を受ける。
「お仕事だから、それを全うしたいから、たくさんの人も護る。でも、私も幸せになる。欲張りで無謀かもしれないけれど……私なら両方諦めたくないです」
来店と共にかけられる彼女の明るい声。穏やかな笑顔。気遣いも心配りも、彼女自身を象徴しているかのように柔らかい。話し上手で聞き上手。コーヒーの香りと共に過ごす穏やかなひと時。そんな優しい時間を届けることに誇りを持っている彼女は、間違いなく平和の象徴だ。
彼女の言うように、僅かかもしれない。けれど、その「僅か」は誰かにとっての「かげがえのないもの」になる。
彼女の言うように「欲張り」で「無謀」なのかもしれない。けれど、それさえも乗り越えていけるような強さを彼女は持っている。
「……ゆかりさんはすごいな」
「え?」
「いえ……それは本当に、素敵なことですね」
彼女の導き出した理想ともいえる答えに、僕は思わず詰めていた息をゆっくりと吐く。
肩の力が抜けるような、穏やかな気持ちにさせてくれるような、そんな安らかなかけがえのないひと時を。それを望んで良いのか。むしろ、それを望む権利が僕にはあるのか。知らなかった。知ろうともしなかったし、知りたいとも思わなかった。望んでもいなかった。けれど、彼女はそれを望み、僕が望むことも許してくれるのだろうか。けれど、それと同時にその想いすら掻き消そうとする自分がいる。
「何言ってるんですか。和樹さんだってそうですからね」
「え……」
今度は僕が呆ける番だ。少しだけ怒ったように僕を見つめたかと思うと、今度はふにゃりと笑う。
「和樹さんだって、たくさんの人を笑顔にしてるじゃないですか。皆さん和樹さんの和風たまごサンドを楽しみにしてますし、コーヒーを頼む時は和樹さんご指名の方だっていますよね。和樹さんとお話しするのを楽しみに来てくださる方もいるし。この間だって、そんな気配なかったのに雨が降りそうだって言って年配のお客様に傘を貸してましたよね? あの後すぐに土砂降りになって、後日お客様が傘を返しに来られた時に、和樹さんにとっても感謝していました。あげたらキリがないけれど、料理だって上手で、誰も気付かないような気配りができて、お客様一人一人に真摯に対応している。そんな和樹さんが誰かを幸せにしてない訳ないじゃないですか」
最後は少しだけ怒ったように
「どうして自分は違うみたいな顔してるんですか?」
と眉をひそめた。
「……」
誰かの心に寄り添うような、そんな優しさを彼女のように当たり前に分け与えられるわけでもない。自分はこの夢のような、穏やかで甘いひと時には相応しくないと思っていたのに。
「現に、私は和樹さんが買ってきてくれたコーヒーを飲んで、今、とっても幸せな気持ちにしてもらってます」
彼女はどんなハードルをも難なく飛び越えてくる。どんなに高い壁を作ろうとも、その手を振り解こうとも、その笑顔を携えながら、まるで何の問題もないかのように僕の手を引いて、温かいこの場所にいても良いのだと笑いかける。敵わない。その無垢な心には敵うはずもない。
「僕も、ゆかりさんに幸せな気持ちにしてもらってますよ」
彼女が淹れてくれた、甘い香りを携えたコーヒー。カップを掲げて笑うと、目が合った先で少し恥ずかしそうにした後、眩しい程の笑顔が花開いた。
「幸せな気持ちにしてもらったお礼に、今日はゆかりさんの好きな賄い、僕が作りますよ」
「えっ、ほんとですか!?」
「お昼までに何が良いか決めておいてくださいね」
「あのっ、ワガママ言っても良いですか?」
「何でしょう?」
「お昼にふわふわのオムライスと、それから和樹さんが上がる時に私の休憩が重なると思うので……和樹さんが淹れてくれたコーヒーが飲みたいです」
「良いですよ。特別にパンケーキも付けます」
「ほんとですか!? やったぁ!」
雲一つない快晴の空を彩る陽射し。それに負けないくらい眩しい笑顔を見せる彼女を目にして、いつしか芽生えていた心のわだかまりが消えていくのを実感する。自分でも気付かないうちに、いつしか増えていった暗闇を払拭するかのように、心の隙間に入り込んでいく彼女の言葉。
きっと、自分が抱えているものは、自分が考えているものよりもシンプルなものなのかもしれない。
彼女の言うように、「無謀」でも「欲張り」でも「ワガママ」でも良いのかもしれない。
そう思うことで、投げ出して放置していたままのパズルのピースが綺麗にハマるかのように、自分の中に様々な事柄がすとん、と落ちてきた。
きっと、ここぞという時に、僕は彼女には太刀打ちできないのだろう。ぼんやりとしているけれど、なんとなく確信する。どんなものでさえも、その笑顔で明るい色に塗り替えてしまう。それも悪くないと思っている自分がいる。
彼女の細く、しなやかだけれども、たくさんの人を幸せにする強く優しい手。
まだ、自分の気持ちだけではその手を取れない。
相応しくはないのかもしれないけれど、もしかすると何としてでもその手を引き寄せたくなる時がくるのかもしれない。その時は思うままにその手を取って良いのだと、かつての親友の声がどこかから聞こえた気がした。
まずは、街中の喧騒とともに、あと三分で始まるモーニング。人が集う賑やかなランチタイム。
笑顔と優しさの溢れるこの空間を護っていこう。隣でカップを手にして幸せそうに笑う、彼女とともに。