徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
また変なことし始めたな、と和樹は思った。
疲れた体に鞭を打ち、ようやく溜まりに溜まった案件を片付けてきた。
緊急を要するもののみで、すべてではないが、それでもひと段落といった言葉が当てはまるような状態だった。
大きな案件を片付けふと肩の力が抜けた時、逢いたいな、と思った。
チラリと時計を確認する。自宅に辿りつけるまでに日付が変わるのは確定だ。仕方ないと分かっていても、そんな時間になってしまうことを苦く思ってしまうのは止められない。
今日もいつもと同じように音を立てないよう静かに鍵をまわし、しんとした自宅へと足を踏み入れる。
そっと子供部屋の扉を開け、廊下からの明かりで可愛い寝顔を確認する。顔を覗き込むタイミングで狙ったようにむにゅむにゅと唇が動き、「かばやき」とか「おいも」とか呟く子供たちには間違いなく愛する妻の食いしん坊遺伝子が受け継がれているなと、妙な形で実感する。
小さく「おやすみ。良い夢を」と囁いて、忍び足で子供たちから離れる。
引き続き忍び足で移動し、廊下の明かりを消してからゆっくりと夫婦の寝室の扉を開けると、和樹のために点けられたフットライトに照らされて、愛しくて丸い塊が規則的に動いている。あ、少しだけ寝息が聞こえた。
ようやく自分が安心できる領域に、帰って来たんだなと思う。
就寝の挨拶すらできない時間の帰宅を申し訳なく思うものの、音を立てずにゆっくりと近付くと、掛布団に隠された顔が少しだけ見えた。
もっと見たいな、と思うけれど、それは朝まで我慢しよう。だって、こんなに気持ち良さそうに寝ている。
職場にいた時とは比べものにならない程に緩み切った心。
その心の中に、ただ目の前にいてくれるというだけで、温かいものがするりと入り込んでくる。
こんな気持ちなんて知らなかった。ゆかりに出逢うまでは。
認識した途端、急に訪れる睡魔が和樹を襲う。
ああ、こんなにも自分を緩み切った気持ちにさせるなんて、ゆかりしかいないんだろうなと、どこか感覚の麻痺した思考でぼんやりと思う。
ただ、今はその体を抱き寄せたかった。
起こしてしまうのは悪いと思うものの、自分の欲求のままに動いても良いのだと教えてくれたのはゆかりだった。
毎回、こんな時間に帰宅する自分を嫌な顔一つせず、むしろ心から喜んでくれた。
起こしてほしいと言われたものの、それはさすがに気が引ける。
なるべく起こさないよう、ゆっくりゆっくり。
彼女の背中から入り込み、その小さな頭の下に自分の腕を滑り込ませ抱き締める。
彼女の香りを吸い込んで、腕の中にいるゆかりを感じて、ああ、幸せだなと思う。
少しきつく抱き締めてしまったことに気付き、慌ててその力を緩めると、腕の中で愛しい人物が少しだけ身を捩った。
「ん……かずき、さん?」
「うん。ごめんね、起こしちゃった」
「……いいんです……嬉しい。おかえりなさい」
ふにゃ、と笑って見せるゆかりを目にして、更に愛しさが込み上げる。
腕の中の彼女はそれでもやはり睡魔には勝てないようで、更なる微睡へ引き寄せられるかのように眠りへと落ちていく。
「ただいま、ゆかりさん」
そう告げたと同時に、和樹も彼女の温もりと共に心地良い眠りへと誘われた。
陽射しが昇り、目を開けないまでも朝か、とぼんやり思う。
腕にかかる重みは消えてしまっているから、ゆかりは起きたのだろう。
そろそろ自分も目を開けようか、と思った時だった。
密かに感じる自分の指先への感覚に、和樹はその目を開けるのを躊躇った。
いつからそうされていたのかは分からないが、ちょん、と親指に細いものが触れた。……ゆかりの指だ。
撫でるように指先に触れ、爪の形にその細い指がなぞられる。
次に人差し指。中指と一緒に、躊躇いがちに握られた。
慌てて離されたかと思うと、次は薬指。指の腹をなぞって小指。
自分の指と比べているのだろうか。揃えられている感覚が伝わってきて、爪を撫でられた。
満足したのかと思うと、躊躇いがちに小指に触れ、きゅっと握られた。
もう、限界だった。
その細い指を握り締める。
「なに可愛いことしてるの」
「……っ、起きてたんですか!?」
堪えきれなくて肩を震わせながら目を開けると、そこには真っ赤な顔をしたゆかりの姿があった。
起きているとは思いもしなかったのか、そこまでかと思うほどに首まで真っ赤に染め上げ、目が潤んでいく。
ああ、可愛い。ゆかりが慌てて掴まれた手を離そうと試みているが、絶対に離してなんかやらない。
「なにやってるのかなって思ってたけど。可愛いからそのままにしてた」
「……寝たふりなんてズルい」
「こんな可愛いことされたら仕方ないだろ」
その細い手を掴んだままゆっくり起き上がり、ゆかりの正面に座る。
ベッドの上で二人。まだゆかりは顔を真っ赤にして目を合わせてくれない。
こっちを見てほしいな、と思う。
こういう時は無理矢理にでも覗き込もうとすると、余計にその顔を見せてくれなくなる。
そんな仕草も可愛いけれど、今は早くその目に映りたい。
彼女を横向きに抱き込んで、その手は離さないまま、今度は自分がその細い指をなぞる。
……ああ、もしかすると彼女が触れた理由と、自分が触れている理由は同じかもしれない、と思う。
けれど、彼女の口から聞きたいではないか。
「起こしてごめんなさい」
「大丈夫。ゆかりさんに起こしてもらえるなら幸せ」
「……っ」
腕の中で身を固くしたゆかりに気付かれないよう笑う。
だって、素直になって良いと教えてくれたのは彼女なのだから。
自分がこんな甘い言葉をすらすらと口にできるなんて思いもしなかった。それもすべてゆかりにだけなのだが。
こういう時は急かしてはいけない。
妙に大胆で、妙に気遣い屋で。自分の言葉を飲み込んでしまうところがあるから、ゆっくりと言葉にしてくれる時を待つ。
ああ、僕たちは変なところで似ているのかもしれない。
横抱きにしていることで、ゆかりの長い睫毛が震えたのが分かった。
髪にキスを落として、細い指を順になぞる。
親指も、自分のものとは比べものにならない程に細い。
綺麗に切りそろえられた人差し指の爪をなぞると、細い肩がびくっと震えた。
それに応えるようにもう一つ髪にキスを落として、中指の節をなぞる。
薬指には、自分だけのものだという証。
細い小指に自分のを絡め、彼女の手の甲に自分のを重ねて上から包み込むように握りしめる。
親指をなぞると、細い手が自分の手の下で震えた。
……愛しいな、と思う。
彼女をかたちどるすべてが愛おしいと思う。
「──和樹さんの」
「うん?」
「和樹さんの手にね、触れたいなあって思ったんです」
「うん」
「私と比べものにならないくらいに大きいし」
「うん」
「指も、ごつごつしてるのに、長くて綺麗で」
「ありがとう」
「……和樹さんの寝顔を見てたら。好きだなあって。触りたいなあって思ったんです」
……ああもう。
「ゆかりさん。顔、見せて」
「……いや、です」
「だめ。僕が見たい」
「恥ずかしいもん……」
逸らそうとする顔を反対側の手で支えて、ゆっくりと覗き込む。
真っ赤にしながら固く目を瞑る仕草を見て、思わず笑いが込み上げる。
可愛いな、ほんと。なんなんだ、この気持ちは。ゆかりに逢うまで知らなかった。
「恥ずかしい?」
「……っ」
「ねえ、ゆかりさんの目に映りたい」
「……恥ずかしい」
「僕だって恥ずかしいよ。でも、ゆかりさんの目が見たい」
「…………」
「ゆかり」
ちゅっ、と、固く閉じられた瞼に口付けをする。
真っ赤に染まったその頬と鼻の先、額にもう一つ。
それに応えるかのようにゆっくりと、蕾が開くように瞼が開いて、その目に自分が映る。
躊躇いがちに揺れて、それでも僕を映そうと視線を合わせてくれる。
その仕草が堪らなく可愛くて愛しくて、笑みを隠し切れないままその唇に触れ合わせる。
「やっと目、合わせてくれた」
「……だって、恥ずかしいんですもん」
「可愛い」
「かっ、可愛くないです」
「ゆかりさんはなにしてても可愛いよ」
今すぐに抱き締めたい気持ちを必死に抑える。今は、その目に映りたい。
「……また、そんなことを」
尻すぼみになるその唇にもう一つキスをする。
「本当だよ。愛しくて仕方ない」
「なっ……もう恥ずかしい……」
「だーめ、目ぇ閉じないで」
「だって……和樹さんが恥ずかしいことばっかり言うから」
「ゆかりさんが可愛いことするからでしょ」
「もう、私ばっかりどきどきしてて悔しい……」
「そんなことないよ。僕だってどきどきしてる」
そう言って、握ったままだったその細い手を、自分の手を重ねたまま首筋に持っていく。
彼女の温かい体温を首に感じて、余計に速くなる鼓動。
頬は赤く染めたまま、ゆかりの丸い目が大きく見開いて、そこに自分が映る。
幸せだな、と再認識して握った手に力がこもる。
白い手に早鐘を感じたのか、少しだけ驚いたように目を瞬かせて、その後、心から嬉しそうに柔らかくその目を細めた。
「どきどきしてた」
「だろ? ゆかりさんが傍にいるんだから」
「はい」
「ゆかりさんだけじゃないよ。僕も、ゆかりさんの傍にいてどきどきするし。触れたいなって思うし。愛しいなって思う」
「……はい」
「ゆかりさんが僕と同じ気持ちでいてくれて、嬉しい」
視線を合わせた先で、花開くように綻んだゆかりの笑顔を、一生忘れることはないだろう。
「……和樹さん」
「うん?」
「私、和樹さんの手が好きです」
「え」
動揺して思わず離しそうになる手を離さなかったのは、ゆかりがぎゅっと握り締めたからだ。
「手だけじゃないんです。全部好き」
「……ありがとう」
言ってほしいと願うくせに、素直に告げられると照れくさくなるのはなんなのか。
「和樹さん、照れてる?」
「……照れてるよ。くそ……」
「そんな和樹さんも大好きです」
先程の自分と反対に、今度は自分を覗き込む愛しい彼女の目が、幸せそうに細められる。
ああ……愛しいな。
こんな感情を知ることができたのは、ゆかりに出逢ってからだ。
こんな気持ちになれたのは、ゆかりが傍にいてくれるからだ。
まるで付き合いたての頃のように動揺して、きっと先程のゆかりのように顔を赤くしている自分と。
どこか落ち着いたように穏やかな笑顔を見せるゆかりと。
きっと、未来はこんな感じでずっと続いていくんだろうなと、和樹は思った。
隠し切れなくなった恥ずかしさと愛しさを込めて。
溺れているのは一体どちらなのだろう と、そんなことを思いながら、和樹はゆかりの細い体を抱き締めた。