徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
日付が変わったばかりの時計の針は、私の心とは裏腹に一定の音を刻み続ける。
こんなにも胸が高鳴って仕方がないというのに、その原因となる彼はとても落ち着いていて、まるでいつもと何ら変わりない日常を過ごしているかのよう。
『今日、行ってもいいですか?』
と尋ねられた文章に、私はいとも簡単に幸せな気持ちにさせられる。
『日付が変わるまでには行けると思うんですけど』
と、こうして彼が遠慮がちな敬語になる時は私を案じてくれている時。
たとえば、今日みたいに遅い時間の訪れ。私を気遣ってくれる彼の優しさ。
そんなこと、気にしなくて良いのに。
どんな時でも、どんなことでも彼は私をこんなにも無条件に嬉しくさせてくれるのに。
そんな彼の優しさに私はもっと嬉しくなる。
『はい。待ってますね。』
と返信をして、彼がこの部屋の扉を開けたのは、予告通り日付が変わる少し前だった。
「あ! シワになっちゃうじゃないですか」
「いいよ、別に」
「よくないです! 高そうなスーツなのに」
そう言って、ソファに放り出されたままのスーツのジャケットを慌ててハンガーにかけると、持ち主である当の本人はまるで人ごとのように可笑しそうに笑った。
自分でかけるからいいよ、と私からハンガーを受け取ったかと思うと、流れるような仕草でキスをくれる。
久しぶりに逢えたことと久しぶりの温もりと。明らかに動揺して、すでに彼がこの部屋に訪れてから数分の間、すっかり頭の片隅に追いやられてしまっていたけれど、まさかハンガーと共にソファに投げ出されていたなんて。
和樹さんは自分のことに対してわりと無頓着だ。
私が出会った和樹さんは『完璧』という言葉がぴったりの人だった。
柔らかな身のこなし、誰に対しても紳士的な振る舞い、細やかな気遣い。
先回りして相手の望むことをさらりとやってのけ、それこそ店に訪れるすべての人を虜にしてしまうような笑顔と仕草は、女性なら誰もが一度はときめくオトナの男の人そのもので。訪れる女性たちにまるで王子様みたい、と揶揄されていたこともあったほどだ。
あの頃はそんな姿を見るたび、年を重ねると自分もそんなふうに大人の女性になれるのかな、と思いを巡らせつつ、歳の差を大きく感じていたものだったけれど。
想いが通じ合って、和樹さんと付き合うようになって。
それから私に見せてくれるようになった新しい一面は、本当にどれもが愛しくて仕方ない。
「ゆかりさん、こっち来て」
ほら、今だって。久しぶりに逢えて心臓が頭で鳴り響く私に気付いているのかいないのか。
有無を言わせない可愛い笑顔で、おいでおいで、をする。
そんな仕草ですら完璧なんだから悔しい。
「でもご飯の準備しなくちゃ」
「いいから」
「何か食べますか?」
って聞いたら
「少しもらおうかな」
って言うから用意しようと思ってたのに。そんな笑顔を見せられたら手を止めるしかないじゃない。
用意していた小鉢を元あった場所に置いて近付くと、ソファに腰掛けたまま彼がぽんぽん、と隣を叩いて座るよう急かされる。
「きゃっ」
言われた通りに彼の左隣に腰掛けたと同時に訪れるのは、優しく膝にかかる彼の温もり。
予想していなかった重みに動揺する。
「ちょっとだけ休憩」
膝枕、なんてそんなの初めてで戸惑っていると、動揺する私を下からじっと、彼の綺麗な目が面白そうに見つめていた。
その視線に恥ずかしくて耐えきれなくなり、
「みっ、見ないでくださいっ」
と慌てて自分の手で彼の目を隠す。
「痛って!」
と告げた彼が向きを変える。
「まあいいけど」
と、少しだけ不貞腐れたような声が届いて、私のお腹にうずくまるようになった。かと思うと、彼の腕が私の腰にまわされた。
「ちょっ、和樹さん……っ」
予想外のことが立て続けに起こって、私の心臓はもう張り裂けそうだ。
あまりにも恥ずかしくて声を上げると、堪えたような彼の笑い声が届いた。
こんなにも恥ずかしいのに、預けられた彼の重さが心地良い。
先ほどよりも少しだけ緩まった腕は、私の背とソファの間に投げ出される。
表情は見えないけれど、少しすると等間隔の寝息が聞こえた。
「…………」
……疲れてるのかな。
疲れてる、よね。だって、前に顔を合わせた時より隈が濃くなってた。
……それでも、こうして来てくれた。
自分の感情を優先せずに、私を案じてから逢いに来てくれた。
そんなこと、気にしなくていいのに。
いつでもどんな時でも、和樹さんに逢えるだけで、私はこんなにも幸せなのに。
彼のその優しさに愛しさが募る。
長い脚はソファに収まりきらなくて投げ出されている。
綺麗な、さらさらな髪はかきあげたのか、少しだけハネているのも愛おしい。
惹かれるようにそっと髪を撫でると、びくっと彼の肩が震えた。
「ごめんなさい、起こしちゃいましたね」
慌てて手を放すと、彼の強張った肩の力が抜けたのと同時に、お腹に顔をうずめたまま囁くような声が届いた。
「……やめないで。安心する」
そう告げて、私の腰に巻き付いた腕の力が少しだけ強くなる。
彼と想いを通わせるようになって、こうして時折見せてくれるようになった甘えるような仕草に、私は彼に気付かれないよう綻ぶ。
「…………」
出会った頃の柔らかさとは違う、彼本来の不器用な甘やかさ。
私だけに見せてくれるその姿に胸が苦しくなる。
誘われるかのようにゆっくりと彼の髪を梳くと、ここに来る前にシャワーを浴びてきたというから、少しだけ濡れている。
以前、「風邪引きますよ」って言ったら「僕、結構強いから大丈夫ですよ」と意味不明な返しをされたっけ。
私が濡れたままでいると、乾かしてくれようとまでするのに、自分のことに関しては無頓着なところがとても心配になる。
それと同時に、そんなところがとても愛おしい。
ワイシャツのボタンもここに着いてからもう一つ開けられて、ネクタイも更に緩められている。
それほど時間が経った訳でもないのに、再び規則正しく届く寝息が聞こえて私は安心した。
浅くてもいい。少しだけでも眠りに就いてくれれば。
ほんの少しだけでもいい。何も考えず、自分の疲れを癒すことだけに時間を費やしてくれれば。
「…………」
私の腰に巻き付いている逞しい腕。
その肩に、どれだけのものを背負っているのだろう。
きっと、私なんかでは計り知れない、とてつもなく大きなもの。
人一倍正義感も責任感も強くて。
自分にたくさんの物を課して。
誰よりも自分に厳しくて。
大切なものを護るためなら自分のことをいとわない。
きっと、誰よりも器用だからこそ不器用で、優しすぎる人。
全部とは言わない。
でも、ほんの少しだけでもいいから、彼の背負っている重圧を少しだけほどいて。
あなたを。
和樹さん自身を大切に想っている人がいる、ということを、覚えていてもらえたら嬉しいな。
私が、こんなにもあなたのことを愛しく想っている、ということが、伝わればいいな。
そして、手放しとまではいかないけれど、彼がその重たい羽根を少しでも休ませることができて、和樹さんの心が少しでも休まるような、そんなお手伝いができたら……とてもとても幸せだな。
──きゅるるるるぅっ!
「……っ!」
──ちょっ、ちょっと待って!
どうしよう……気付いた、かな。
気付いてない、かな。
熟睡……とまではいかないけれど、きっと寝てた、よね?
……そうだよね?
寝てるから気付かなかったかな?
大丈夫だよ、ね?
でも、こんなに近くにいるし……いや、でも寝てたっぽいし大丈夫かな……でも……。
突然のことに動揺していると、膝の上で堪えるように肩を震わせている愛しい人の姿。
「ごっ、ごめんなさい! 聞こえちゃいましたよね……」
「……っ、くっ……」
私のお腹に顔をうずめ腕を巻き付けたまま、必死に笑いを堪えている姿に、一気に頬の熱が上昇する。
あぁやっぱり気付かれていた。どうしよう。
「あ、あのっ! 別にお腹すいていたとかそういうわけじゃなくて! あの! 不可抗力というか……なんで鳴ったのかもよく分からないし!」
「…………くっ」
……ああもうだめだ。これはだめなやつだわ。
何か言えば言うほど、どんどん深みにはまっていく……これぞ墓穴を掘るっていうやつだわ。
「せっかく寝てたのに……本当にごめんなさい!」
……もうだめ。なんで私はいつもこうなの。
せっかく和樹さんが私を頼ってくれたのに、癒すことすらできないなんて。
しっかりしてよ私のお腹……もう……恥ずかしくて申し訳なさでいっぱい……。
「……さっすがゆかりさんだなぁ」
巻き付いた腕をほどいてゆっくりと起き上がる。その肩はまだ少し震えているけれど、怒った様子など微塵もなくて、その綺麗な目に堪えきれなかった涙すら浮かべている。
恥ずかしくて堪らないけれど、その様子に私は少しだけ安心する。
「傍にいてくれるだけで癒されるって、こういうことなんだなあって。ゆかりさんといて初めて知ったよ」
可笑しそうに笑っていたその目が優しく優しく細められて。ちゅっ、と綺麗に整った唇が降りてきた。
逞しい腕が伸びてきたかと思うと、きつく抱き締められて、今度は耳元に口付けが降りてくる。
「ひゃっ」
「久しぶりに逢えたし。大人しくしてようと思ったけど」
「えっ……?」
「ゆかりさんが悪いんだからね?」
そう言って意地悪そうに笑い、膝の裏に大きな手が回ったかと思うと、気付いた時にはいとも簡単に抱きかかえられていた。
「ちょっ……和樹さん! 疲れてるんじゃ……」
「今ので十分癒された。これからたっぷりゆかりさんをいただくことにする」
「明日……もう今日か。は、シフト入っていないんだもんね?」
にやり、という言葉がしっくりくる表情を見せた後、降ってくるキスの嵐。
その足は私の意思とは反対に寝室へと向かっていく。
和樹さんは……と思ったのも束の間で、あっという間にその熱に飲み込まれていく。
ああもう、ゆっくり休んでほしいのに。
疲れを癒してほしいのに。
どうやら今夜は、眠れそうにない。