徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
その日。
ゆかりさんの昼食をつくったのは僕だった。
カルボナーラとブレンドを乗せたトレイを手に、にこにこと嬉しそうにゆかりさんがバックヤードに引っ込み、ひとつだけ埋まっていたテーブルでおしゃべりに興じていたご近所の奥さんたちが帰ってしまうと、店は空っぽになった。
ランチタイムはそれなりに賑わったものの、朝からの悪天候で客足は鈍い。窓に当たる雨は強まったり弱まったりを繰り返している。
テーブルを片づけ、食器を洗い、ティータイムに備えて足りなくなりそうなものを補充する。
まだドアのベルを鳴らす人影はない。
これがゆかりさんが一緒のときなら、とりとめない世間話をしたり季節のメニューの案を出し合ったりで時間はすぐに過ぎてしまうのだが、やはり雨のためかいろいろタイミングがずれている。
正直手持ち無沙汰だが、かと言って、あまり勝手に店内をいじりすぎるわけにもいかない。
ならばこれもいい機会だ、毎日はやらない部分の掃除でもしてしまおう。
来客にすぐ対応できる、においの強い洗剤は使えない、等の条件を考えて、冷蔵庫の掃除をやることにした。業務用の大型冷蔵庫は背も高く、ゆかりさんなら踏み台が必要だ。上からやっておけば、中断しても日を改めて続きがやりやすいだろう。食材が温まらないよう進めるべく手順を考えながら、アルコールスプレーのボトルを手にした。軽い。
ストックを探して棚を開けたがキッチンにはないようだった。だとすればバックヤードだろう。
ゆかりさんの休憩時間を邪魔してしまうが、取りに行くことにした。
バックヤードのドアを叩いたが、返事がない。
眠ってしまったのだろうか。
「ゆかりさん? すみません、入りますよ」
声をかけながらゆっくりドアを開けた。
ゆかりさんはちゃんと起きていて、こちらを見ていた。目も合った。ソファに座ったゆかりさんは、パスタが半分ほど残った皿を前にして、何か小さなみかん色のものを口元に当てていた。目を見開いて、驚いた顔をしている。
僕が入ってくるとは思わなかったのだろう。八の字になった眉の下、目は赤く、潤んでいる。よく見ると、みかん色はタオル地のハンカチだとわかった。
それらの情報を読み取る一方で、僕は動揺していた。
なんで泣いてるんだ。
何があった。
誰が。
この部屋には、僕の目を避けて入る方法などなかった。
ほかに外部から接触する手段を考えるなら、携帯電話か。誰かに何か言われたのだろうか。
最近はいかがわしい画像を送りつける痴漢もいると聞く。まさか今回はその類ではないだろうな。
彼女がそんな目に遭うことを想像した一瞬で、うちの大事なウェイトレスに何してくれてんだと怒りが湧き上がった。
本当はもっと高そうな可能性を頭におきながら。
「……どうしました」
いかにも絞り出しましたという声が出て、我ながら驚く。改めて、僕は動揺している。
だってそうだろう、さっきまで本当ににこにこ笑っていたんだ。それがどうして、ひとりきりで、小さくなって泣いてるんだ。
ゆかりさんは僕を見上げて、首を横に振った。
「あの、違うんです、大丈夫ですから」
彼女の声は涙に濡れてはいたが、存外しっかりしていた。ハンカチを顔から離さず、隠すようにして訴える。
「なんでもないんです。ほんとに、大丈夫、なので」
ソファに近づく僕を押しとどめるように片手を伸ばした。こちらに向けられた手のひらは小さかったが、しかしその光景は、おまえの立ちいっていいことではない、と拒絶するようで。
思ったより衝撃が大きかった。
だからこそ、きっちり平静を装わねばならない。
ゆっくり歩み寄り、彼女のそばにひざまずく。
「……だからって、泣いてる女の子ほっとけるわけないでしょう」
できるだけ静かに言った。つもりだった。
普段なら声音などいくらでもコントロールできるはずなのに、さほどうまくいっている気がしない。
今は僕と目線の高さを同じくしているゆかりさんは、困惑したように何度か瞬きをした。心細げなその姿に、先刻は意識して先走るまいと抑えこんだ考えが再び首をもたげてくる。
お手伝いと称し喫茶いしかわのウェイターを始め、仮初めとはいえ同僚の立場を得た。とは言え僕は知り合ってそこまで長い年月を過ごしたわけではない。そのへんの客よりは近いポジションにいるとは思うが、うら若き女性なら、わざわざそんな男になど話さないことの方が多いだろう。
例えば、本当に彼女の涙の原因が携帯電話越しにやってきたものならば。
知人が事故に遭ったとか、悪質な画像を送りつけられたとか、SMSやSNSで中傷されたとか、そういったことならば僕のような同僚に訴えることもありそうだ。心配や恐怖や怒りなら。だが、親しい誰かから投げつけられた言葉などは、その限りではないだろう。
家族、友人、あるいは恋人。想う相手。
親しい誰かと諍いになったとか、思わぬ言葉を浴びせられたとか、そういった理由で泣いているのではないかと、最初に想像したのはそれだった。彼女のような、朗らかだが無防備で、人を信じる善性の人なら、いちばんありそうな可能性に思えたのだ。
実在するかどうかわからないその相手にも、そんな奴に心を許した挙句泣いている(のかもしれない)ゆかりさんにも腹が立った。
我ながら理不尽だ。根拠もないのに。
だが、そういったケースだからこそ彼女は頑なに僕を拒むのではないかと、そう思った。理不尽だとわかっていても苛立ちは消えない。故に僕は年長者の気遣いのふりをして、無遠慮に彼女の領域に侵入する。
「ゆかりさん」
拒むために差し出された手のひらをやんわりとつかみ、包むように握った。
「僕には、言えない?」
顔が近くなると、ハンカチで口元を隠したままの彼女の目がうっすら涙を帯びたのがわかった。
今は僕が泣かせているのだろうか。
僕が。
我に返った。
何やってるんだ僕は。
密室も同然の場所でよく知りもしない男に詰め寄られているようなものじゃないか。
握った手に思ったより力が入ってしまったことにも気づいて、手を離した。
解放されたゆかりさんは、いよいよ困った顔で僕を見ると、ハンカチをくしゃりとつかみ、目元に当てた。涙はハンカチに吸い込まれ、ゆかりさんは一度しゃくりあげるように肩を上下させた。はあ、と息をついて、僕を見る。
「ほんとに、なんでもないんです。その、ほんがね、」
何かを探すように彷徨わせた視線がテーブルを捉え、ゆかりさんは動きを止めた。
「ごめんなさい、冷めちゃった」
僕はぽかんとした。なんでパスタの心配なんかしてるんだ。僕は今、君を怯えさせたのに。
悲しそうに項垂れて、ゆかりさんは話し出した。
「……あのですね。聡美ちゃんがね、勧めてくれたミステリーがあって」
全く予想しなかった固有名詞の登場に思わず「えっ?」と声が出た。
「そういえば、あのとき和樹さんいなかったですね。こないだね、遥ちゃんと聡美ちゃんが、話してた本が面白そうだったから、タイトル教えてもらったんです」
近くにひざまずいて初めて気付いたが、ソファの上、ゆかりさんの陰になって見えなかったところに厚めの文庫本が置かれているのが見えた。
「さすが、遥ちゃんと聡美ちゃんの、お勧めでね、とっても面白くて、毎晩睡眠時間、削って読んで。もうすぐ、事件、解決しそうなとこまで来たんですけど、今日早番だったから、昨日は読むの我慢して、早く寝ることにしたんです。それで、休憩のときに読もうと思って、持ってきたの」
涙の名残で途切れ途切れの声を聞きながら、安堵とともに言いようのない脱力感がせり上がってきた。
「もう、ごはん食べながら読んじゃおうと思って、読み始めたら割とすぐに犯人はわかって、それもすごく爽快な解決の仕方で、これが伏線かーって気持ち良かったのに、それも、伏線でね、最後っ」
ゆかりさんはまた眉を下げ、涙声になった。
「まさか、こんな、展開になるなんて」
伏せた目に当てられるみかん色。
少し迷ったが、かくりと落ちた肩をそっと叩いてなだめた。
何事もなかったことにほっとしたし、素晴らしい読書体験だったようだから彼女の人生の充実を喜びたいが。
「ごめんなさい、せっかくつくってもらったのに。食べながら読むなんてお行儀悪いから、和樹さんには言いにくくて」
テーブルの上を見ながらゆかりさんはしょんぼりする。いや、もうパスタのことはいいですから。
「……まあ、それは。喫茶いしかわのお客さんの半分はお行儀悪いってことになりますし」
「……それも、そうですね」
自分にほとほと呆れて細く長く息を吐いた。
僕は一体、何をやってるんだ。
何やってんだよ。
早とちり、いや思い込みもいいところだ。
僕のため息を誤解したのだろう、ゆかりさんが濡れた目で上目遣いに僕を見た。
「ごめんなさい、呆れました?」
一瞬、声が出なかった。思わず唾を飲み込む。
「……呆れてるのは、自分にです。すみません、早とちりで。ゆかりさんに何かあったのかと焦ってしまって」
「や、和樹さんが謝ることじゃないですよ、ごめんなさい、私が紛らわしいことしたから」
二人で謝り合い、だんだん可笑しくなってきて一緒に笑った。
「何事もなくて良かったです。……すみませんでした、さっき。痛くなかったですか」
「えっ、何です?」
「手を。いきなり掴んでしまったから」
「そうだっけ。全然! 大丈夫です!」
ゆかりさんはいつもの笑顔になった。
雨の音は弱くなっていた。まだ新しい客の姿はない。
冷めて固くなったであろうパスタを「残りも食べます!」と主張するので、インスタントのポタージュに牛乳と粉チーズを加えて簡単なソースをつくり、スパゲティグラタン風に焼いてみた。ダメ元だったが案外いけたらしく、ゆかりさんはすごいすごいとはしゃぎながら、カウンター席でそれをにこにこと食べている。
その様子をながめながら、冷蔵庫の掃除をあきらめた僕は先刻の自分の狼狽ぶりを省みた。
泣いていようと怒っていようと、外部との接触があったと思い込むのは早計だ。ネットで触れた一言に感情を揺さぶられることだってあるだろう。だがなぜか、先走るなと一度は自分を牽制しておきながら、その可能性を捨てられなかった。
女性に限らず、涙などシチュエーションに差はあれ僕には珍しいものではない。それでもことのほか動揺した自覚がある。
考えたところで無意味だ、ここは選択肢にはない。
無意味?
今の思考の流れがよくわからない。
どうせ深入りしてもおまえにはわからない、とブレーキをかけたような気もした。
ブレーキ。誰がだ。
僕が常日頃ゆかりさんをちょっと危なっかしいとはらはら見守ることがあって狼狽える場面だったからだろう。何しろ彼女は素直で、お人好しで、いつも笑っていて。
警戒心が薄いように見えて仕方ないのだ。
「ごちそうさまでした」
ゆかりさんは手を合わせ、皿に向かって軽く頭を下げた。次いで、僕を見て微笑む。
「美味しかったです! 和樹さん、アレンジもさすがですねえ!」
つられてこちらも笑った。
きっと誰でも、こんなふうに日々幸せそうに笑ってくれる人がそばにいたら、ずっとそのままでいてほしいと願うだろう。
彼女を傷つけられたくない。そう思うのはもう仕方がない。ふと、妹がいたらこんな感じなのだろうかと思った。
「時間と手間を考えたら、スパゲティグラタンは喫茶いしかわじゃあまり現実的じゃないですかねえ」
「ですねえ」
早速検討を始めた仕事熱心な先輩に、つい口元を緩めながら相槌を打つ。
窓の外は次第に明るくなり、弱い雨もあがったようだった。学生やサラリーマンがぽつぽつと訪れ始める。
「いらっしゃいませ!」
ドアのベルが鳴るたびに、看板娘の快活な声が響く。それを心地よく聞きながら、僕も同様に声を上げる。彼女が告げるオーダーのメニューを、僕は次々に仕上げていく。彼女もキッチンに入れば自然と役割を分担し、息の合った仕事ができる。
面白いものだ。
これまで大して気に留めてこなかったが、僕はこの場所で自分を思い通りに操り、納得のいく仕事ができている。
いまさらながら、ここでの仕事は僕にとって何なのだろう。
本来の僕とは関わりのない小さな場所のはずなのに。
僕がただのカフェの店員だったなら。
この場所で、何を思うのだろう。
遠くない未来に必ずここを離れる道しか見えない僕には、わからない。想像するのも難しい。
喫茶いしかわと喫茶いしかわを取り巻く人間関係を、自分のテリトリーのように感じているのかもしれない。
ここが平穏で、訪れる人たちにも憩いの場を提供していると実感することは、僕にやわらかな満足感をもたらす。
別の人生を生きている。これまでの自分が選択肢にすら加えなかった遠い場所で、出会うはずのなかった人と肩を並べて笑っている。
僕は人生を楽しんでいるのだろう。
通過点に過ぎないとわかっているが故の小さな充足であり、選択肢にないからこそ僕が関わったことでここを壊してはならない。
だからきっと、あんな場面では大いに狼狽えるのだ。
なんだか可笑しくなった。
いや、結構なことじゃないか。
開店からシフトに入っていたゆかりさんは、今日は夕方で上がりだ。
雨も止んだし、今夜はどこか出かけるんですか、と何の気なしに聞いてみた。
ゆかりさんは照れたように笑って「今日はさっきの本をもう一度読みます」と答えた。
面白かった本をぱらぱらと読み直し、気に入ったシーンや好きな台詞を振り返る。そうすることで鮮明な記憶を自分の中に残しておける気がするのだという。
この人はそんなふうにお気に入りをつくっていくのか。胸のなかにごく静かに波が立ち、寄せて、また引いていった。
「和樹さんて、ミステリー読みます? そういうのはあまり読まないかな」
「ああ、あまり多くはないけど、読むこともありますよ。仕事で参考になることもあるし取引先との雑談に出てくることもあるし」
「そっかあ。……これはあまり、お仕事の参考にはならないかもしれないですけど」
ゆかりさんははにかむように僕を見上げた。
「さっきの本、読みます?」
「僕ですか?」
少々面食らった。
「うん。面白かったから和樹さんにもシェア。あ、明日以降になっちゃいますけど」
「ああ、はい」
相槌をうちながら、あの分量を読む時間があるだろうかと考える。しばらくは無理だろう。ざっくり粗筋を追えばいいというものではないからだ。
ゆかりさんのお気に入りを分けてもらうとなれば、流し読みなどできようはずもない。
「……今、ちょっと忙しくて、すぐには読めないと思うので」
自分でも驚く台詞がすべり出た。
「タイトルを教えてもらえますか。作者名も。長く借りっぱなしになると思うので、自分で手に入れます」
ゆかりさんは「え」と小さく声を上げ、ぱちぱちと瞬きすると笑った。
「いいですよう、私もすぐには読み返さないと思うし。お貸しします! いつでもいいですから!」
自分の言動に呆れているのを笑顔で覆い隠す僕に、ゆかりさんは混じり気のない笑顔で対峙する。
「私が好きな本、和樹さんも読んでくれたら嬉しいし」
一瞬言葉に詰まって、「ね!」と駄目押しされて、ありがたく申し出を受けることにした。
普段の言動から、ゆかりさんは押しに弱いと思っていたが、和樹も大概ではないか。
無意識、無自覚にやってるんだろうなあこの子、とちょっとため息をつきたい気もした。
本業の、頼りにはなるが無骨で(僕も含め)あまり細やかとは言えない連中や、駆け引きや打算を交換するのみの者とばかり接していると、こんなふうに素直に優しく生きる人は、なんとも言えず安らぐ。
自分とは真逆の、というより違う次元で生きている人と親しくコミュニケーションが取れるのは、悪くないものだなと思った。
新鮮だ。
と、作業の手を止めたゆかりさんが凄い勢いで僕を振り返った。
「ごめん、和樹さん! そういえば私、すっごいネタバレしてましたよね!?」
さも恐ろしいことをしてしまったというように顔をしかめているのを見て、申し訳ないが吹き出してしまった。
「えっ何、なんで笑ってるんですか」
と謝ったり拗ねたり忙しい人に、こちらも笑ったり謝ったり忙しく対応する。
大丈夫、どこでゆかりさんが泣いたか推理しながら読みますよとからかうと、笑って小さな拳を振り上げてきた。
彼女は僕をどんな風に見ているんだろう。
さぞ胡散臭い男に見えているだろうと思うと、少し残念な気がした。