徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
作戦その一。
「……ゆかりさん、寒くないですか」
「え、暑いですけど」
「……ですよね」
そりゃそうだ。だからこんなことになっているのだ。上着を羽織らせる作戦は、あっさり失敗した。
作戦その二。
「……ゆかりさん、暑いですね」
「ですねぇ。和樹さんずっとキッチンにいるから、私よりさらに暑いですよね。すいません」
「大丈夫です。こんな暑いと、汗かいちゃいますね。体拭きたいくらいです」
「あ、私さっき裏で汗拭きシートで拭いちゃいました。和樹さんも使います?」
「え、あ、いや、タオルあるので」
「水分、たくさん取ってくださいね。今日の賄いは、ちょっと味濃い目にしましょうね」
「……ありがとうございます」
逆に気遣われてしまった。というか、もう拭いていたか。
すぐに服が乾くわけではないし、またすぐに汗をかいてしまうのだろう。
汗を拭かせる作戦も、普通に失敗した。
作戦その三。
「……ゆかりさん、顔に何かついてますよ」
「えー? なんですか?」
「埃かな……鏡見てきたらどうです?」
「今、手、放せなくて……和樹さん、取ってくれません?」
ゆかりが目を閉じて、顔を近付けてくる。
予想外の彼女の行動に焦るが、何かついていると言った手前、何もしないわけにはいかない。
手を伸ばして、指先をそっとゆかりの頬に触れさせる。
暑さのせいなのか、想像以上の肌の温度と、その柔らかさに戸惑う。ありもしない埃を取るように、親指と人差し指を、彼女の肌の上で挟むように動かした。
「……ありがとうございます」
はにかむように微笑んで、ゆかりは離れていった。
よく分からない胸のざわつきと指先の熱さを残して、鏡を見に行かせる作戦も、あえなく失敗した。
(……どうする)
ミックスサンドとホットサンドは四セットもできてしまったが、肝心の解決策は一つも見つからない。
思案する和樹をよそに、ゆかりはくるくると店内を駆け回っている。相変わらず、背中の水色のラインが目に沁みる。店の壁に掛かる時計の針は、もうすぐ正午をさすところだ。
「いらっしゃいませ!」
ドアのベルの音に反応したゆかりが、元気よく客を出迎える。和樹も続けて声を掛けようとして──止まった。入ってきたのは、ゆかり目当ての、常連サラリーマン二人組だった。
笑顔でサラリーマンたちに駆け寄るゆかりの髪が、扇風機の風に煽られて、ふわりと舞う。露わになった首元から、白い素肌と、水色のラインが覗いて──
「ゆかりさん!」
和樹はカウンターから飛び出て、後ろから、両手でゆかりの肩を掴んだ。振り向こうとする彼女の肩を押さえたまま、自分の方に引き寄せる。
「え、な、なんですか?」
「いいから来て!」
ゆかりの肩を掴んで背中を覆ったまま、客席に背を向けて、バックヤードまで押し込んだ。
「ど、どうしたんですか和樹さん?」
後ろ手に扉を閉めた和樹を振り向き、困惑した表情を浮かべたゆかりが見上げてくる。
直接彼女に指摘するのは避けたかったが、こうなったらもう、はっきり伝えるしかない。
和樹は覚悟を決めて、ゆかりの目を見返す。
「大変、申し上げにくいことを言いますが……」
「はい?」
純粋な目で見つめてくるゆかりに言葉が詰まるが、咳払いをして、なんとか続ける。
「その……す、透けているので、何か羽織るとか、された方が……いいと思います……」
何が、とは言えなかった。が、意味は十分伝わったようだった。ぼんっ、と音を立てたように、ゆかりの顔が一気に赤くなった。
「──え? え、やだ、すいません……」
あたふたと、ゆかりは手を顔の前で振ったり、腕で体を隠そうとしたりしている。
そんなゆかりに、和樹もどうしていいか分からなくなり、無意味に腰に手をやって、頭をかいてみる。
「こちらこそ、なんかすいません……」
「なんで和樹さんが謝るんですか。もう、ほんと、お見苦しいものを……ほんとやだぁ……」
若干涙目になってきたゆかりに、和樹も本気で申し訳なくなってくる。
割と長い時間、ばっちりじっくり見てしまっていたし。
もう少し、スマートに教えられなかったものか。
若干自分への情けなさを感じつつ、和樹はゆかりに問いかける。
「あの、上着とか持っていますか?」
「あ、えーっと、ない……です……」
「じゃあ、使ってください」
ロッカーから自分のカーディガンを取り出して、ゆかりに渡した。
ゆかりは素直に受け取って、申し訳なさそうに項垂れる。
「ありがとうございます……」
「あっちは、僕がやっておくので。ゆっくり来ていいですからね」
「はい……」
俯いたゆかりは、眼に浮かぶ涙と赤い頬が相まって、どことなく色っぽい。
そんな彼女と、再び感じる胸の奥のざわつきに背を向けて、和樹は思い切り扉を開けた。
バックヤードから店内に戻ると、一斉に客からの視線が集まった。
自分たちで空いたテーブルに座ったらしいサラリーマンたちは、まるで容疑者を見張る刑事にでもなったかのように睨み付けてくる。とりあえず視線は無視することにして、お冷やを彼らのテーブルに持っていく。営業用の笑顔も忘れない。
「お待たせして申し訳ありません。ご注文はお決まりですか?」
「……特製ナポリタンセット二つ」
「ちょっと今ゆかりさんが──少しお時間いただきますが、よろしいですか?」
「ゆかりちゃん、どうし」
「ご注文ありがとうございます。少々お待ちください」
一方的に会話を切り上げて、カウンターに戻ることにする。変に追及されることは避けたい。
ナポリタンはゆかりが作るので、先にサラダを用意することにする。レタスをこれでもかというくらいたっぷり盛り付けていると、カチャリ、とバックヤードのドアが開いた。
そっと顔を覗かせて、ゆかりがおずおずと扉から出てくる。
彼女の頬は、まだほんのりと赤い。シャツの上から、和樹の黒いカーディガンをしっかり羽織っていた。だぼっとしたシルエットが体の線の細さを強調してはいるが、先程よりはよっぽど健全だ。
安全に覆われた背中にほっと胸を撫で下ろすと同時に、少し残念な気がするのは、完全に気のせいのはずだ。
ゆかりは和樹の側まで駆け寄ると、背伸びをして顔を耳元に寄せてきて、囁いた。
「……あの、やっぱりカーディガン着ると暑いので、買ってきてもいいですか……その、キャミソールとか」
「あ、あぁ……それがいいと思います。店は僕に任せて、行って来てください」
「すいません」
顔を赤らめたままのゆかりが、店から走り出て行った。
そんなゆかりの、もう透けていない背中を見送って店内に目をやると、一層微妙な空気に包まれているのを感じる。
年配の客達は、微笑ましいものを見守るような。サラリーマンたちは、絶望と不審に満ち溢れたような。そんな視線が一斉に和樹に注がれている。
両極端の視線を浴びながら、ふと、和樹は気付く。
和樹がゆかりを抱き寄せて、無理矢理バックヤードに押し込む。二人が密室に入ってしばらく経った後、心ここにあらずな様子の和樹が先に出てくる。後から、明らかに男物のカーディガンを羽織ったゆかりが、恥ずかしそうに出てくる。二人は耳元で何かを囁き合って、顔を赤らめたゆかりが店を走り出て行く。
客から見えたこの一連の流れは、彼らに何らかのあらぬ想像をさせるのに十分かもしれない、と。
何か言いたげな、でも誰も何も言わない生暖かく突き刺すような空気の中、和樹は、普段から炎上を気にしているゆかりの様子を思い返す。
これはさらに申し訳ないことになってしまったかもしれない、と一瞬考えるが。
(まぁ、今の時間帯は女子高生はいないし……)
あまり気にしないことにした。
先ほどまでのあられもない彼女の姿を不埒な輩に見られることに比べれば、多少視線が痛かろうが大した問題ではない。看板娘をこれ以上傷つけずにすむだろう。
長年喫茶いしかわに勤めるゆかりと違って、和樹はまだ、完璧には理解できていなかった。
幅広い年齢層で構成される常連客のネットワークの広さと、女子高生顔負けの年配者の旺盛な好奇心と、嫉妬した看板娘のファンの恐ろしさと、そんな彼らの軽率なまでの口の軽さを。
平和な喫茶いしかわにおいて、新たな大事件が、発生しようとしていた。