徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
誰も連れ込んだことのない、和樹のマンションの一室。そこの寝室にすやすや眠る姫君を降ろし、和樹は疲れたように溜息を吐いた。
軋んだ音を立ててベッドに腰を下ろす。
子供のように両手を軽く握りしめて、丸くなって眠るゆかりをじっと見下ろしているとなんとも不思議な気がしてきた。
(まさかこんな日が来るとは……)
ここは頭を抱えて苦悩するところだろう。間違いない。
だが気付けば自分もベッドに横になって、肘を付いて身体を半分起こし間近からゆかりを見下ろしている。
(僕がどういう男か……知ってたらこんなふうに安心しきって寝ていられないはずなんだがな……)
いや、それ以前に「同僚」というだけで「男」の目の前で気絶するように寝ていいわけがない。しかも、変態野郎に部屋に押し入られた直後にだ。
あまりの危機管理のなってなさに、思わず手を伸ばしてふに、とほっぺたを押してみる。途端、むーん、と唸る声が聞こえ和樹は慌てて手を離した。彼女はそのままむにゃむにゃ呟いた後。
「!?」
硬直する和樹に向かって彼女がころり、と寝返りを打つと彼の着ているシャツをぎゅっと握り締めたのだ。
(勘弁してくれ……)
片手で目元を覆い、呻きながら顔を反らす和樹に気付くことなくゆかりはすやすや眠り続けている。
まあ、無理もないだろう。
今日は早朝から深夜まで気を張ることが多かったはずだ。特に盗撮は相当なショックとストレスだったと思う。
(まぁ……そうは感じてなさそうなところが彼女らしいというか……なんというか)
苦く笑いながら、和樹はそっとゆかりに視線を落とすとゆっくりとシャツを握り締める手に自らの手を重ねた。
多分、今現在ここにある時間は、奇跡の時間なのだろう。
自分の人生には無縁と思える時間。
隣にいる誰かが、自分にここまで安心しきって身を委ねている、なんて状況は遠い未来にならあるかもしれないが、近い将来にはないはずだった。
彼女にここまで身を委ねて貰えているという事実になんとも言えない温かいものが胸に広がる。
再びむにゅむにゅいう声が聞こえ、和樹はハッと我に返った。
(まったく……)
軽いドアベルの音の先、ガラスの扉を開けばそこにはコーヒーのいい香りと柔らかな話声と光が溢れている。その中で毎日慌ただしく働いている彼女がいる。
「僕が悪い男じゃなくて良かったですね、ゆかりさん」
起きる気配のない彼女の耳元に唇を寄せてそっと囁くと、和樹は彼女をそうっと抱き寄せてそのまま目を閉じた。
このままこうしていられるのは今だけだと、極夜に見付けた日の出を思いながら、和樹は珍しく何も考えない眠りへと落ちていった。
ぱちり、と目を開けると。
「おはようございます」
目の前に見慣れたはずの端麗な顔と綺麗な瞳がありゆかりは目を瞬いた。
「おはようございます」
ここがどこだとか、この状況はなに、とか和樹の顔が横にあるのはなぜ? とかいろいろ思うところがあるが頭が回らない。
馬鹿みたいに挨拶を返したところで、額に掛かっていた髪を指先で梳かれてゆかりはようやく我に返った。
「和樹さん」
「はい」
「なんでここに?」
「それはここが僕の家だからです」
「家?」
「はい」
「和樹さんの?」
「ええ」
………………はて。
「ああ、そのゆかりさんの仕草、猫みたいですね」
くすくす笑う和樹がそのまま優しくゆかりの額を人差し指でなぞり、頬へと滑らせていく。撫でる手が気持ち良くてつい、猫のように掌に頬を摺り寄せると、びくりと和樹の手が止まった。
じっと見つめる彼の目が驚いたように見開かれている。
あれ? 何か失敗した? ていうかえっと……ええっとおお……お?
「って、なんで私和樹さんのお家にいるんですか!?」
ようやく回路が繋がり、飛び起きるゆかりに大きく伸びをしながら和樹も身体を起こした。
「なんでって、ゆかりさん、昨日のこと覚えてます?」
「昨日?」
「……二人で楽しくベッドの上で」
「ストーカー! ストーカーが部屋に侵入してました!」
和樹の言葉など一切無視して真相を叫ぶゆかりに、和樹が複雑な顔で閉口する。それからやれやれと肩をすくめると「ゆかりさん」と笑顔で声を掛けた。
「今日は休んでください。僕が代わりにシフトに入りますから」
言いながらベッドから立ち上がり、淡々と続ける。
「警察の事情聴取は終わってますし、部屋片付けたり防犯しっかりしたり、色々やること多いはずでしょう? ちょうど本業も忙しくないし、僕が店に出ますから」
「それなら」
とゆかりがぽん、と両手を打ち合わせた。
「今日はマスターにお願いして、二人ともお休みにしてもらいましょう! お部屋の片付けと、それから防犯用の鍵とかグッズとか一緒に探してください」
「え?」
とにかくシャワーにでも入らなくては……と浴室に向かっていた和樹ははたと足を止めて振り返る。
カーテンを閉め忘れたせいで光がさんさんと降り注ぐ、ダークブラウンの掛け布の上にちょこんと座るゆかりは、髪も着てるブラウスもスカートも乱れ放題で。なのに頬を高揚させて両手を握り締め、名案! と目を輝かせているから。
思わず後退る和樹はよろめいた。今までどんな危機的状況でも、足にくることなどなかったのに。
「やっぱり、男性に探してもらった方が……ほら、経験則? っていうんですか?」
「それって男は全員不法侵入と盗撮を意識して生きてるってことですか?」
「え? いやあの、女性よりも発想がより犯人寄りと言いますか……」
「僕とあのストーカーを一緒にするつもりですか?」
「えとえと……で、でもほら、和樹さん、ああいう犯人の心理に詳しそうですし」
「どういう意味ですか!?」
「…………や、やっぱりだめ?」
ぎゅっと枕を抱き締めて上目遣いで言われるその破壊力たるや。
はうーっと溜息を吐き、どうにか平常心を心掛ける。
ちらっと視線を上げればやっぱりまだ信じられないほど無防備にベッドに座っているから。
言葉にならない呻き声を漏らしながら、ずかずかとベッドに近付き、彼女の両太ももを挟むような形で掌を付いた。
ぐいっと顔を近づける。美形に迫られ、思わずゆかりは仰け反った。
「あの……」
「いいでしょう。僕が、最っっっっ高に高性能で絶対に何人たりとも侵入できない、僕がいない日も完璧に安全な装備を貴女に贈ります」
「…………え?」
──となるとそうだな……まずは暗視スコープと衛星制御システムを流用した高性能防犯システムが必要か……リアルタイムでの監視と音声傍受はマストだし……あとは警備会社直結のアラーム……いや、通報から到着までの時間のロスが痛い。ならいっそ最先端の迎撃システムを──
物騒なワードがいくつも呪詛のようにぶつぶつと聞こえてくることにびくびくしながら、ゆかりは和樹に声をかける。
「あ……あの……和樹さん? も、もしもーし……聞いてない? あのー! かーずーきーさーん! ……それってハンズで売ってます?」
がしっとゆかりの肩を掴んだ和樹が、にっこりと微笑んだ。
「ええ、売ってますよ、ハンズで」
ただし僕の知ってるハンズでね。
そんな言外の言葉が聞こえるような聞こえないような……とにかくゆかりはこれ以上口出しするのは止そうと心の中でひっそりと誓うのだった。
「か、かかかか和樹さん!? な、なにしてるんですか!?」
「え? 何って、ゆかりさんの下着、捨てるところですけど」
「なんで!? ていうか、ちょっと、触らない」
「ここにある衣類や下着は絶対あの変態野郎が一回は着てるはずなんで全部燃えるゴミに出します」
「ええええええ!? あ、明日から私、何を着たらいいんですか!?」
悲鳴のようなゆかりの言葉を無視して、彼女の部屋の整理をする和樹は、下着の入ったタンスの隅に仕込まれるように突っ込まれた紙袋に目を止める。
何気なく続けながら袋を開封する。
「大丈夫ですよ。今日、買いに行きましょう……って、なんだこれは……錠剤? と……避妊具……」
「それ、なんですか?」
ひょいっと覗き込むゆかりの目に触れる前に、素早く箱を握りつぶす。
そりゃもう、いっそ清々しいほどにぐっしゃりと。
あの強姦(未遂)野郎……絶対に社会的に抹殺してやる……!
そう決意した和樹はくるっと振り返ると、爽やかすぎる笑顔を彼女に見せた。
「ゆかりさん」
「はい」
「引っ越しましょう」
「はい……はい!?」
「そうです。そうしましょう! もうここにあるもの全部捨てましょう。僕が買ってあげますから。なんなら隣の部屋にでも」
「はい!? あ、あの……和樹さん!? 和樹さんってば!?」
そうと決まればここに用はない、とばかりに和樹はゆかりの手を引いてアパートから連れ出した。
外には光が溢れ、いつもと変わらない日常が続いていた。
自分が護りたい光景に、自分も溶けていく。
「とりあえず、今日も僕の家に泊まってください」
おろおろしているゆかりを連れ歩きながら、和樹は顔を上げる。
「話はそれからですよ」
背筋を伸ばす和樹に引きずられながら、ゆかりは眩しそうに眼を細めた。
「和樹さん」
思わず声を掛ける。振り返らずに彼が「なんですか?」と尋ねてきた。
手首から伝わる彼の温度に不意にどきりとしながら、ゆかりは知らずに微笑んだ。
「和樹さんって、太陽みたいな人ですね」
それは和樹には過剰なほど不似合いで不釣り合いなのに最大の誉め言葉だった。