徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
疲れた、猛烈に疲れた。
口からは隙あらば「はあ」と深いため息が吐き出される。
残業が常態化してるとはいえ、それでもそれが連日連夜続けばどんなに超人であろうとも疲れはでてくるし表情はなくなるし心は晴れない。
「はあ」
もうカウントするのも無駄なn回目のため息は、星も見えない真っ黒な空に消えていった。
ブランはもう寝てしまっているだろうから起こさないように慎重に……。
そう考えながら何日ぶりかも覚えていない自宅の鍵を開け、そうっと閉めようとドアに体を向けると。
「あ、おかえりなさい!」
かちゃっという音ともに居間に続くドアが開き、軽やかな声が響いた。
「……え、あ……」
「お仕事お疲れさまです! うわあ、くまがくっきり」
「ゆかりさん、来ていたんですか……?」
「え、そりゃあ……もちろん……」
「今日帰るって連絡してないですよ」
「うーん、まあ女の勘というやつです」
「勘……」
「ささっ、寒い玄関じゃなくて中に入りましょ! 上着と鞄ください!」
「あ、はい……」
「洗面所で手洗いうがいしてきてくださいねー」
ぽんぽんと会話を紡ぐ彼女と、それに頭が追いつかない僕とのやりとりは上着と鞄をひょいっと攫っていった彼女が廊下の奥に消えたことで一旦終わりを迎えた。
「……えっと……まずは手洗い……」
混乱する脳内はとりあえずの最優先事項である「手洗いうがい」を達成するために足に指示を出した。
「あ! きましたね和樹さん! こちらに座ってください」
居間に入ると間接照明の淡い橙に照らされたゆかりさんがニコニコ、というよりはニヤニヤしながら僕の腕を引っ張り、トスッとダイニングチェアに座らせた。
「ねえ和樹さん、お腹減ってませんか?」
「お腹……」
すっかり存在を忘れていた僕のお腹はここで初めてきゅうっと小さく抗議の音を鳴らした。
「すいて、ますね……」
「うんうん、そうでしょう! そうでしょうとも! なので不肖、石川ゆかりが和樹さんを深夜食堂へ特別にご招待します!」
「……しんや、しょくどう……喫茶いしかわじゃなくて」
「はい! いらっしゃいませ!」
着ていたエプロンのポケットからメモ帳とペンを取り出し、今か今かと待ち構えるニコニコ顔の彼女と、その彼女を呆けた顔で見つめる僕。
疲れてるから脳内の処理が追いつかないのもあるのかもしれないが、そればかりではないらしい。
突飛な言動は彼女の魅力でもあるが今日ばかりは突飛すぎて、ゆかりさんに対しては名レシーバーと自負してる僕も受け取りきれなかった。
しかし、「彼女が楽しそうなんだからそれでいいじゃないか」と輪っかが浮かんで白い羽をつけている僕がそう囁いたので、考え始めようとしていたツノの生えた黒い羽のもう一人の僕には、この際お休みしておいてもらうことにした。
「お客さま、今夜のおすすめは鮭茶漬けですよ! 深夜のお夜食にいかがですか?」
「鮭茶漬け、ですか」
僕がやりとりに乗ってきたことで嬉しくなったらしい。漫画ならゆかりさんの背後に「パァッ」という文字が描かれそうだ。
「はい! 今日スーパーでお得だったので買った塩鮭を使った出汁茶漬け! ここだけの話、この鮭、塩加減がもう絶妙なんですよぉ」
「おや、店員さんはもう食べたんですか?」
「あ! 他のお客さんには内緒ですよ! 私の今日の夜ごはんも、この塩鮭だったんです」
僕たち以外は誰もいないのに周りをキョロキョロと確認し、口に人差し指をもってくるという小芝居つきだ。芸が細かい。
「ほお、店員さん一押しなら食べない手はないですね」
「では鮭茶漬け一つですね! 少々お待ちください」
そういうや否やダイニングテーブルの向かいにあるキッチンに入っていった彼女。
すぐに食器同士がぶつかるカチャ、という音や鍋を火にかけるときのカチッという音が聞こえてきた。
「お待たせしました~! こちらが鮭茶漬けになります!」
待つこと十分。
深夜食堂の店員・ゆかりさんが運んできた小さな木製のトレーには、焦げの香ばしい香りが食欲をそそる焼鮭が盛り付けられたどんぶりと出汁が入った小さな急須、ゆかりさんのお手製で僕のお気に入りの漬物――白菜の浅漬けと、なんちゃって千枚漬け――が小皿に載っていた。
「さっ、召し上がれ!」
目の前の椅子に座った彼女はもう一つ持ってきた急須でほうじ茶を淹れ始めた。
「店員さんはテーブルに座っててくれるんですか?」
「今は店員・ゆかりはお休みです。ここからは……和樹さんだけの石川ゆかりになります」
ほうじ茶に視線を落としながらも耳をほんのり赤く染めながら彼女はぽつりと呟いた。
「……ふふ、今は僕だけのゆかりさんなんですね」
「ほ、ほら冷めちゃう! 食べてください!」
「はいはい」
耳だけじゃなく顔まで赤くした彼女に急かされながら急須の中の出汁を丼の中に注ぎ込み、トレーとお揃いの木製のレンゲで掬って「いただきます」と一口。
優しい出汁とちょっとだけ塩気が強めの鮭は口の中で一緒になると相性抜群で、二口目、三口目と口に次々運んでしまう。
体の中がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
「ふふ、美味しかったようでなによりです」
ほぅっと小さくため息をついた僕に「はい」と淹れたばかりのほうじ茶をコトンと置いてくれた彼女。
そこで僕は自分が感想も言わずに無言でお茶漬けを掻っ込んでいたことに気づく。
「あ、すみません……感想も何も言わずに食べ続けてしまって……」
「いえいえ、夢中になっちゃうくらい美味しいって意味で受け取りました」
にっこり笑った彼女は僕の湯呑みと色違いの淡い桜色をした湯呑みに口付け、僕と同じように小さくほうっとため息をついた。
ああ、いいなこういうの。
疲れていても家に帰れば灯がともっていて、温かいごはんと大好きな人の柔らかい笑顔がそこにあることが、こんなに胸がいっぱいになるくらい幸せだったなんて。
「ねえ、ゆかりさん」
「はい?」
コト……と手にしていたどんぶりをテーブルに置き、視線を彼女と合わせる。
「僕と、結婚してください」
きゅっと口をひき結ぶ真顔の僕と大きな目をまんまるに見開く彼女。
カチ、コチと時計の針が進む音だけが響く。
「和樹さん」
「……はい」
「思ったより重症ですね」
「え、重症? 何を言ってるんですか、今の僕はいたって正常ですよ」
「いーえ、重症です。和樹さんには深夜食堂でお腹いっぱいになった後、石川旅館でお風呂にゆっくり浸かってぐっすり寝てもらわないといけませんね」
「え」
真顔でプロポーズしたら重症と言われてしまった。しかも深夜食堂の次には石川旅館に連れていかれるプランに変更されたらしい。
プロポーズの答えはもらえないのかと、焦りと困惑で思わずガタガタっとイスを大きく揺らして立ち上がった僕に、彼女はやれやれ……と言った表情で、着ていたパジャマの襟ぐりから細いチェーンを引き出した。
「もう、プロポーズの答えは伝えたはずですよ?」
「でしょう、旦那様?」
と苦笑しながら彼女が引き出したチェーンの先には、シンプルなプラチナリングが、情けない顔をした僕を笑うようにゆらゆらと揺れていた。