徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
全国放送の天気予報コーナーから毎日のように、どこそこ地方が梅雨に入ったと報告が続いたその週は、平均より高めの気温が続いた。
ああ、夏が近づいてきた。
見上げた空は、梅雨入りした地域に申し訳ないほど見事な快晴だった。
さて、喫茶いしかわのあるこの町は本日快晴である。
白い雲はチラリと見えるものの、灰色のチリと水分の塊こと雨雲は見当たらない。
強烈な日差しを遮るものがないと、自然と活発になるのが気温だ。気温はどんどん調子に乗っていき、ついには平年より随分高い温度を記録してしまった。
太陽が眩しいそんな日は、アイスコーヒーが飛ぶように売れる。
喫茶いしかわでは開店後すぐ、調子に乗っていた気温に根負けしたお客さまが足早に来店し、恵みのアイスコーヒーと冷たいデザートを注文するものだから、お店は既にてんてこ舞いだ。いつも以上にアイスコーヒーが売れてしまい、ランチタイム前には追加で作り始めなければならないほどだった。
ちなみにだが、アイスティーも飛ぶように売れている。こちらも追加で作り始めた。
正直、これだけ暑いと“アイスクリームのような冷たいけど甘味が強いデザート”は予想するほど売れないものなのだが、この日は例外だったようで、冷たいデザートの注文は相次いだ。店側としては嬉しいが、サーブする人間としては重労働な“受けてから作る”デザートは、注文を受けた瞬間に悲鳴を上げたくなるものである。
なにせ、喫茶いしかわのような小さい喫茶店は作り置きができないのだ。“受けてから作る”代表のパフェが連続でオーダーされた時の厨房とウェイトレスの心境は推して知るべし。
そんな珍しく忙しい午前中から、相変わらず忙しいランチタイムに突入し、喫茶いしかわの戦いは早すぎる後半戦を迎えたのだ。
腹と気分を満たし、喉を潤した最後のひと組が、笑顔で店を出るの見送り、ゆかりは一息を付いた。
今日は朝からとんでもなく忙しかった。
頼りたかったマスターは本日コーヒー豆の仕入れの関係で夕方からの出勤のため、一緒にシフト入りしてくれた和樹にとても、非常に助けられた。
店内に戻ると、朝からほとんど料理を作りっぱなしだった和樹が皿洗いを始めていた。ゆかりも少し気合を入れなおすと、各テーブルの片付けに取り掛かる。食器を引き上げテーブルやカウンターを拭き、次の客を迎える準備を整えると、和樹の手伝いに入った。
すべての片付けが終わると、ようやく二人は一息を付いた。お互い同時に息を吐いたものだから、うっかり目が合ってしまい、くすりを笑い合う。ゆかりが労いの気持ちを込めて「お疲れさまでした」というと、和樹もその端正な顔を柔らかくして「お疲れさまでした」と返した。
和樹曰く、今日は暑さが続くとのこと。それであれば午後に学校帰りの学生、夕方以降は仕事帰りの社会人で溢れるかもしれない。
普段はのんびりしているゆかりも、さすがにアイスコーヒーとアイスティーの補充が必要だと分かる。
分かるが、既に和樹が作りおいてくれていたし、他のアイス系の飲み物必要なものもチェックして補充してくれていたため、ゆかりは特にやることがない。
相変わらずの有能っぷりに妙な気持ちになるが、それ以上に感謝と尊敬の気持ちが溢れるので、ついついゆかりは笑顔でたっぷりとお礼と労いの言葉を和樹に伝えるのだ。
さて、今やるべき仕事があらかた終わったのなら休憩の時間だ。今日は和樹がよく頑張ってくれたので、ゆかりが賄いを作ると宣言し、カウンターに入った。和樹が何か言いかけたが、「労うぞ!」という気合でいっぱいのゆかりには到底届かない。
ゆかりは和樹のためにスパゲティを茹でていた。
湯はふつふつ湧き、スパゲティはゆるりとせわしなく泳ぐ。少しオリーブ油を垂らしてスパゲティ同士のくっつきを防いたが、それでもサラッと掻き回してスパゲティを泳がせた。
ゆかりは順調、と笑顔をこぼす。
スパゲティを茹でている間に、野菜室の見慣れないビニール袋から出した野菜をさっと水洗いする。
まずはズッキーニを輪切りにしてさっと水にさらす。
その後、みょうがを縦にやや細かく切り、湯掻いたオクラとナスはズッキーニと同じく輪切りに。この時期のナスはアク抜きをしなくてもいいので、水には浸けない。
ふと思いたち、冷蔵庫から余ったベーコンを取り出すと、食べやすい大きさにカットした。口当たりをさっぱりさせたかったので、油しっかりなベーコンよりはしらすあたりを使いたかったが、さすがに喫茶店にはなかったのだ。まあ暑いし、エネルギー補充に肉があっても良いだろう。
先にみょうがを炒め、なすとズッキーニ、オクラを炒め、それからベーコンを加える。本日はあっさりを目標にしているので、少し前からこっそりゆかりが冷蔵庫に常備している白だしやら醤油やら料理酒やらをさっと絡め、塩コショウで味を整える。大根をおろせばよかったかなぁと思いつつ、一旦火を止める。
スパゲティがちょうどよい硬さになっているのを確認し、ゆかりはさっとスパゲティの水分をきる。ああ、湯気が顔にスパゲティ独特の小麦の匂いを運んでくる。一気にお腹すいてしまいそうな美味しい香りだが、ぐっと我慢。自然に唇をきゅっと結んだ。
スパゲティをフライパンに移し、また火をつけて炒める。
十分に絡まったそれを皿によそい、さっと青しそのせん切りをまぶす。
あっさり風味を目指した夏野菜スパゲティの完成だ。
途中から和樹の不思議そうな……いや、好奇心に満ちた視線を感じていたが、早く和樹に休憩に入ってほしかったので、あえて視線に応えず作り続けた。たまに目を向けるとなぜか朗らかに微笑まれたので、よく分からないが話しかけないでおこうと思ったのは内緒だ。
「ナスはわかりますが……オクラとズッキーニにはどこから?」
まずは「ありがとうございます」とお礼を言ってから疑問を口にする様がなんとも言えないスマートさを感じる。でも口をつけないあたりは失礼なんだか警戒心が強いんだか。
「実は昨日近所に住んでるご夫婦からいただきまして。ほら、以前お話したおじいちゃんとおばあちゃん。なんでも娘さんの嫁ぎ先からいただいたそうなのですが、ふたりでは食べきれる量じゃないからとおすそ分けしてくださったんです」
まだ六月なので実際はまだ旬ではないものはあるが、これだけ暑いのだから、少し早めに夏野菜の恩恵を受けてもいいだろう。
そう思って、出勤した際に持ってきたのだ。冷蔵庫にいの一番にしまったとき、和樹はバックヤードにいたので、気付かなかったのもしれない。まあ、たまにそれでも気付ている時があるのが何とも奇妙だが。
和樹は「そうだったんですか。有難いですね」と返し、ようやくフォークを手にした。くるくると優雅にフォークの先に巻きつける仕草は、それだけで映像化できそうだ。口に運ぶ姿も大変美しいのだが、かなりの色気がダダ漏れと言っていいくらい出ているので、どうにも刺激が強い映像作品になってしまいそうだ。お茶の間に流す場合はここはカットしないとダメなのではなかろうか。
自然とゆかりは眉間にシワを寄せた。喫茶いしかわが大人限定の喫茶店になるのではないかと、和樹からしたら驚きの懸念をしたからだ。
難しい顔でどうするかともう一度和樹の口元を見つめた時、フォークが油で照り返しているのに気づいた。
少し思案し、乱切りしたきゅうりとくし形切りしたトマトにさっとドレッシングをかけて、アイスコーヒーと一緒に出した。これでだいぶ口の中がスッキリするだろう。
和樹はそれには特に警戒せずにお礼を言って、口に運ぶ。
「野菜の味もそうですが、さっぱりした味付けがいいですね。ベーコンの油が喧嘩するかと思ったのですが、塩気があって食べやすいです」
さすがゆかりさんだ。そう笑って具体的に褒めてくれる和樹に得意げに……少し恥ずかしがりながらゆかりは微笑み返した。
ふと時計を見るとゆかりもそろそろ休憩を貰わないといけない時間だ。さっとその場から移動し、冷蔵庫から今度はタッパーを二つ出す。
白米が入ったタッパーはレンジで温める。もう一つのタッパーの、野菜がたくさん入ったカレーはフライパンに移し、火をつけて温める。ちょっと水を加えて柔らかくし、十分に温まったとことで先に皿に盛っておいたご飯の上からかける。
ふんわりとした湯気が漂い、ほのかな白米の匂いとカレーのスパイシーな匂いを届けた。
ああ、なんて良い匂い!
自画自賛しながら、これならお店に出せるかな、いやでも匂いがきついかしら? と軽く悩みながら、和樹と同じカットしたきゅうりとトマトを小鉢によそい、カウンターに付いた。
隣の和樹はまだ食べているが、既に七割は腹に収まったらしかった。
「おや、ゆかりさんはカレーですか。良い匂いですね」
「ええ、実は昨日作りすぎちゃって……」
今日の夜もこれになりそうです、と配分を間違えたことを笑いながら告白した。
いつもの野菜たちを控えめにして、その代わりにトマトにかぼちゃ、ナスを加えた夏野菜カレーは口に入れると、何とも言えない芳醇な匂いを鼻に届け、口の中にかぼちゃの甘さとスパイシーさが混じった絶妙な味を広げる。アツアツのそれは少し火傷しそうだったが、それでもご飯とうまく溶け合って、すっと喉を通った。
ああ、やはり今回はとても美味しくできている!
思わずぐっと、ガッツポーズを取ったゆかりに、和樹は少しだけ苦笑した。