徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
人が絶え間なく行き交う駅前で、少しだけ歩調を早くする。
約束した時間までは、あと十分くらいだった。
待ち合わせ場所はもうすぐ見えてくるはずだ。
駆け足にならなくても問題ない距離だけれど、数分前に届いたメッセージを思い出すとそういうわけにもいかなかった。
いくら待ち合わせより早い時間でも、『急がなくていい』という言葉が添えられていても、さすがに相手が着いてると知ったのなら急いだ方がいい、と思う。
口の中で唱えるように転がした言葉が少し言い訳じみてしまったのは、もっと簡単な理由があるとわかっていたからかもしれない。
和樹さんとのデートがとても楽しみだという、単純でありふれた理由が。
街を呑む慌ただしい喧騒は日曜日だということもあいまってどこか華やいでいる。
誰かの声と足音、あちこちから流れる音楽がごちゃ混ぜになった空間だというのに、一人でいるとその賑やかさはどこか遠い。
誰かにぶつからないよう音の群れを進んで、目印の場所の傍に見慣れた姿を見つけた瞬間。
「あれ……?」
思わず立ち止まった。
必要以上に凝らさなくても視線が留まった先にいるのは間違いなく約束相手の和樹さんで、けれど。
誰かと会話している。正確に言うのなら、妙齢の女性一人と。
人の隙間を縫って聞こえる声は途切れ途切れで、どういう会話なのかがはっきりしない。
知り合いだと思うには若い相手で、それにあんな、愛想の良さを全面に押し出すような表情で会話をする必要があるだろうか。
もしかして……ナンパされいてるのだろうか、和樹さんは。
昔にあった出来事と目の前の光景が重なる。
買い出しを頼まれて遠出した日。
頼まれた複数の商品はフロアがばらけていたので、一緒に回るのではなく分担して後で合流しようと決めたのだ。
無事に買い物を終えて合流場所へと足を運んだとき、和樹さんはすでに買い物袋を持ってそこに立っていた。
声を掛けるのに戸惑ったのは、彼へと熱心に話しかけている二人の女性が目についたからだ。
なんとなく察してしまった状況に喉がひきつる。
このまま足を進めるという選択肢を取りあぐねている間に、残念そうな顔をした二人が和樹さんから離れていくまでの数分は過ぎていた。
どうやら私が少し離れたところにいたのは気づいていたらしく、二人がいなくなったタイミングで現れた私に和樹さんは苦笑していた。
「見てたなら助けてくださいよ」
「どう声を掛ければいいかわからなくて……」
「……恋人なのでって言ってくれてもよかったんですよ? どうせ真偽はわからないでしょうし」
「違う場所に油を注ぎそうなので却下です」
「なるほど。じゃあ僕がゆかりさんを不審な輩から助けるときはそうしますね」
「話聞いてました!? えっ和樹さんなんか怒ってる?」
「いいえ? 別にゆかりさんのことを薄情だなんて思ってないですよ」
にこやかな笑顔が逆に怖いと思ったのはあそこだけの話だ。
あのときは確か、その日のまかないを代わりに作ることで会話をまとめた気がする。
でも、と思考から現実に視線を移す。
数秒ほど過去に戻っていたくらいでは見える景色に変化はない。相変わらず和樹さんと知らない女性は会話をしているし、私はまだ一歩も動いていない。
ぐ、と鞄を持つ手に力が入る。
このまま立ちすくんでいれば、いずれ女性の方は去っていくのかもしれない。私がわざわざ会話に入り込まなくても、和樹さんは上手く対応しそうな気もする。
でも、と思う。恋人がナンパをされていたとして、黙って眺めているのはどうなんだろう。
なにより、めったにできないせっかくのデートなのに。
ぐ、と今度は何も掴んでいない手を握りしめた。
「あの、お兄さんも」
「あのっ」
はっきりと会話が届く距離に踏み込んだときには、声と同時に手が出ていた。
声を被せられた女性が私を不思議そうに見る。
急に腕を掴んだからか、こちらを向いた和樹さんは瞬いていた。
そういえば今日はスーツじゃない、と今さら、そしてどう考えても今するべきではない思考を慌てて消した。
「す、すみませんが、この人は、わ、私の恋人なので」
え、と和樹さんが声を零した。
そのまま何か言いかけた音が空気に結ばれるより先に、目を丸くした女性が両手と首を同時に振る。
「あっ、ええと、私そういうつもりじゃなくて……道を教えてもらってたんです」
心底申し訳なさそうに続けられた言葉が、現状の認識と大分齟齬があると理解したのは一拍後だった。
「ええ!?」
悲鳴を上げた。上げた、というより落ちたというのが正しいかもしれない。
「その、誰かと待ち合わせてるみたいだったから、現地の人なのかと尋ねる相手に選んでしまって……」
眉を下げた彼女の影にはそれなりの大きさのスーツケースが佇んでいた。そのまま頭を下げそうな気配に慌ててしまう。
「いえ……! 悪いのは早とちりした私なので!」
やだ、ごめんなさい、わたし……と積もっていく単語の先で、眉が下がっていた彼女の表情が少しだけ解けた。
「ふふ、こんなかっこいい彼氏さんだったら心配になりますよね。お邪魔しちゃってすみません。デート、楽しんでくださいね」
からかうような穏やかさを乗せて、ぺこりと頭を下げた彼女はそのままスーツケースを引いていった。
ありがとうございました、と去り際に告げられた声はきっと和樹さんに向いていたのだろう。
お待たせしましたの一言もなく割り込んだから、未だ和樹さんと会話らしい会話をしてないことに思い至る。
視線が合った瞬間に笑われる気がする、と穴がなくても土に埋まりたい衝動を抑えてそろそろと顔を上げた。
途端、和樹さんはふいと視線を逸らした。私が掴むのを止めた手で、口元を押さえている。
「な、なんですか、笑えばいいじゃないですか!」
「いやその……『助けてくれて』嬉しかったです」
その頬が、指の間からわずかに赤らんで見えたのは錯覚だろうか。
口元を押さえるのを止めた和樹さんは、私の手をするりと取った。
和樹さんの指が私の指に絡まって、ひぇ、と意図せずに変な声が出る。
「恋人なんだからいいでしょう」
「……なんだか機嫌がいいですね?」
「まあ、ようやくゆかりさんとのデートが始まるので」
てっきり笑われると思ったのに、口元を綻ばすように言われてしまうと、どこを見て話せばいいのかわからなくなってしまう。
では行きましょうか、と促されるから、過ぎたことを考えるのはやめることにした。
街並みの華やかで楽しげな喧騒が耳に戻ってくる。
手を繋いだまま歩き出せば、靴底が軽やかにアスファルトを鳴らした。