徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
最近の喫茶いしかわは特にイベントもなく閑散としていた。
加えてこの数日は雨続き。お客さんも少ないはずだ、とマスターが嘆きながら常連のお客さんにコーヒーを淹れている。
珍しく和樹さんがシフトに入っているので、彼目当ての女性客やJKでの混雑を予想していたが、よく考えればこの時期は期末テストの直前だ。閑散としていて当然。
店内は、幾人かの談笑する声とコーヒーの匂いに包まれていて穏やかだ。
「お客さん少ないし、二人とも休憩に入っていいよ」
のんびりとした声でマスターが言い、和樹さんとわたしは普段より早く休憩室で過ごすこととなった。
◇ ◇ ◇
同僚と交際するようになったきっかけはマスターからもらった水族館のペアチケットだった。
二人とも何もその日は用事がなかったから、なんとなくで待ち合わせの場所を決め、現地集合でと約束を交わす。
初めてのデートの時
「わたし、恋人ができたらこのワンピースでデートするのが夢だったんです!」
同僚によく見せて、と言われてくるりと一回転してフレアワンピースがふわっと広がる。わたしは、眩しいものを見るように目を細めた和樹さんに「どうですか?」と誉め言葉をさりげなく強請った。
柄にもなく浮かれていたのだ。
同僚は恋人でも何でもないただの仕事仲間だというのに。
「もちろん似合っています。ゆかりさんがこれを僕のために着てくれて嬉しいです」
頬をかいて満更でもない表情を見せた和樹さんに
「本当に心からそう思ってますか?」
わたしは思わず眉をひそめてから至近距離で問いかけた。
リップサービスに浮かれて自分が何だかとんでもないことをしそうな気がしたから気を引き締めないと。
「えっ!」
突然手を差し出されどうしよう、と変な声が出てしまう。
「……ダメですか?」
普段、喫茶いしかわで聞いている声より低く甘やかな声だった。耳元で囁かれて、身体が訳もわからずに震えてしまい、こくこくと頷いた。
ゆかりがそっと繋がれた手を握り返すと熱っぽい視線で見つめられる。
「喫茶いしかわでゆかりさんが指定した僕専用の食器とまった同じ空色のワンピースを着てきたってことは、そういうことだと期待していいんですよね?」
期待って何? 聞き返さずに横目で窺うと頬を染めて蕩けるような笑顔の男がいて、それが伝染してドクン、と甘い疼きで心臓が跳ね上がった。
変な感じ。
例え付き合っていたとしても今日も明日もこの人とわたしの人生は一時のもので交わることなんかないというのに。
それから少し気分が高揚してふわふわとした気持ちのまま、水族館でイルカのショーやペンギンの赤ちゃんのプールデビューを見て癒されたりと、健全で中高生がするようなデートを楽しんだ。
「あっ! 和樹さん珍しい魚がいますよ」
「ああ、これは深海の……」
同僚の携帯が震えて失礼、と会話を聞かれたくないのだろう、少し離れた場所へと移動する背中をぼうっと眺める。
黒のスキニーパンツにブルーグレーのオックスフォードシャツ。シンプルな恰好だけれど、よく似合っていた。
モデル並みのスタイルと端正な顔立ちの同僚に、近くにいる女性二人組が見とれていて、黄色い悲鳴をあげた後「どうする? 一人みたいだし声かけてみる?」ひそひそと相談している。
それにムッと頬を膨らませたゆかりは通話が終わったのを見計らって和樹の元へと駆けだし見せつけるように腕を組んだ。
「……本当にゆかりさんですよね?」
なぜか疑われ顔のあちこちを摘ままれて確認された。
変な人。
女性達は彼女持ちだと理解してくれたのかいつの間にか去っていてホッとする。
「そうそう知ってましたか、ゆかりさん? 水族館の隣がホテ……」
「わああー! わたしたちまだ、そういう関係ではございません!」
「まだ、ね……」
耳朶まで真っ赤になった看板娘の顔を見る同僚の顔は心底楽しそうだった。
その顔を軽く睨み付け心の中で復讐を誓ったゆかりはなんとなく、タンスの奥にしまってある上下揃ったレースのひらひらを思い浮かべていた。