徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
昨年の三月八日、真弓は怒っていた。
その日は大好きな母の誕生日だった。お母さんのお誕生日には家族四人でお出掛けしようね、と約束していた父は当日になっても連絡一つ寄越さなかった。
「どうして! 今日こそは絶対だよって真弓、いっぱいお願いしたのに!」
「仕方ないよ、真弓ちゃん。お父さん、そういう仕事の人だから。今までだってそうだったでしょう?」
たしかに今まで何度も約束を破られ、その度にごめんと謝られた。父がとても大変な仕事をしていることも真弓はわかっているつもりだ。でも、それでも。たまたま目が覚めて見てしまったのだ。夜中の日付が変わる間際まで、寂しそうにメッセージアプリを見つめる母の姿を。いつも明るく笑顔の印象が強い母のそんな姿は目に焼き付いて離れてくれないのだ。
「こうなったら、わたしにも考えがあるんだからね!」
「真弓ちゃん……?」
真弓は決意した。来年こそは母の誕生日当日に父を母にまるごとプレゼントしてやるのだと。
翌年の三月八日。やはり父は帰ってくる気配がなかった。真弓はその日、朝から隙を見計らって外に出掛けていた。小学校は仮病で休み、弟の進のことは保育園からこっそり連れ出してきた。それもこれも一年前から計画していた作戦のために。
「進、今年はお母さんにお父さんをプレゼントするんだからね!」
「お姉ちゃん、そんなこと本当にできるの?」
「できるったらできるの! そのためにお父さんを捕まえに行くんだから!」
目指す場所はチラリと場所を聞いていた父が勤める会社。父が偉い人で重要なポジションに位置する人間なのだということは察しがついていた。後は行動に移して父を……石川和樹を捕まえるだけだった。
慣れない公共交通機関を利用し、二人は和樹の会社へと向かう。真弓はスマホを持たせてもらっていなかったので、わからないときはお店の店員さんや駅員さんに道順を聞いた。お金はすべて真弓の貯めていたお年玉を使った。ゴトンゴトンと電車に揺られながら二人は話をする。
「お母さん、喜んでくれるかな?」
「絶対喜んでくれるって! お母さん、お父さんのこと大好きだから!」
「ぼくたちが突然来たらお父さん、びっくりしない?」
「逆に驚かせてやろう? いつもの仕返しに!」
程なくして駅にたどり着いた二人は案内を見ながら地上に出た。
「うわー! これがお父さんのいるところ!? 大きいねぇ」
「うん。お父さんはきっとここの偉い人の中に混じって働いているはず!」
真弓は進の目線にしゃがみこむとつばのついた黒い帽子を深く被せた。
「進はこれ被ってて。はぐれないように私の手をしっかり掴んでてよね」
真弓は自分も同じ帽子を被ると正面玄関から入り込み、二人で上に行く方法を探した。真弓の勘では偉い人は上の階にいることになっていた。一階をキョロキョロしながら動き回っていると、薄茶色の背広の男性に話しかけられた。
「お嬢ちゃんたち、二人だけ? 親御さんは?」
「あ……今は別行動なんです! 最近この近くに引っ越してきたばっかりで、今日は見学に……!」
「そう……見学はこのロビーしかダメな決まりになってるから、ちょっと見て回ったらお家に帰るんだよ? おじさん見逃してあげるから」
「はい……! ありがとうございます……!」
男性は真弓と進に手を振るとその場を去っていった。
「ふぅ……危ない危ない……」
「お姉ちゃん、あれ見て」
進が指差した方向には清掃員が数名いた。大きな清掃用の荷台車を押してエレベーターに乗り込んでいる。
「でかした進! あれを利用させてもらおう」
真弓と進はそっと清掃用の荷台車に近づくと、小さな体を生かして掃除用具の隙間に入り込んだ。体の上には一緒に乗っていた布を被せた。そこに清掃員の中年男性が戻ってきて荷台車を運び出した。
「ん……なんかいつもより重い……?」
「大丈夫ですか? 橋本さん」
「気にしないでくれ!」
「わかりました! お先に失礼します!」
「うぅん、筋力落ちたかな……最近運動してないからなぁ……」
橋本さんのおかげで真弓と進の乗っていた荷台車はエレベーターに乗ることができた。しかも運よく上の方の階に進んでいるようだった。
こどもたちはこそりと会話する。
「お父さん、いるといいねお姉ちゃん」
「絶対いるよ! 捕まえてお母さんを喜ばせてあげよう」
二人は荷台車の中で目を合わせるとにこりと笑った。
一方、自宅にいたゆかりは進の通う幼稚園から連絡をもらい狼狽えていた。
「す、進が行方不明!?」
「はい……朝の挨拶の時は確かにいたはずなんですが、先ほどから姿が見えなくて……! 園内だけでなく園外の近くの進くんが行きそうな公園やお店などくまなく探しています。しかし万が一のことがあってはと思い、お母様の方に連絡させていただきました」
「わかりました……こちらも可能性がありそうな場所をあたってみます」
ゆかりは電話を切ると真弓の小学校に連絡を入れた。進の通う保育園と真弓の通う小学校は道さえ知っていれば子供でも移動できる距離だった。電話が通じるとすぐに真弓の担任に繋いでもらい、事情を説明した。しかしそこでゆかりを待っていたのは驚くべき事実だった。
「真弓、小学校に登校してないんですか……?」
「はい、今日は体調が悪いから休むと本人から連絡がありました。電話口でも元気がなさそうだったので、心配してたのですが、ご自宅にはおられないんですか……?」
ゆかりは目の前が真っ暗になった。最愛の娘と息子が二人同時に行方不明。背筋が震えた。偶然にしてはできすぎている。もしも……もしも二人が事件や誘拐にでも巻き込まれていたら……! 気が動転したゆかりはそれまで一度も連絡したことのない緊急連絡先に電話を入れた。電話の相手……ビジネス用スマホの和樹はツーコールもしないうちに電話に出た。
「何かあった? ゆかりさん」
「和樹さん……っ! 進が……! 真弓が……!」
「落ち着いて。ゆっくり深呼吸して、最初から順番に話して?」
ゆかりは泣きながらことの次第を和樹に話した。すべてを聞き終えた和樹はゆかりをなだめて言った。
「ゆかりさんは家にいて……もしかしたら二人が家に戻ってくる可能性があるから。二人の捜索は僕に任せて。必ず見つけ出してみせるから……!」
和樹は電話を切ると座席に座り込み、深く深呼吸をした。らしくもなく、電話を持った手が震えていた。考えたくないことだったが、自分の何らかのミスで二人が石川和樹に対する報復のターゲットに据えられ、身柄を拘束されている可能性だってあるかもしれない。そうじゃなくてもあんなに愛くるしい子供たちが良くない大人に見つかって不利益を被る可能性は決して低くはない。ありとあらゆる線を予測して、和樹は上司に報告し部下に指示を出した。