徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
それから暫くして、窓の外はしっかりと朝を迎えていた。日中の暑さを予感させる強い朝日が、辺りを照らしている。
時刻は六時を少し回ったところ。静かだった待合室に、看護師がやってきた。
「はい、長田さんのご家族ね? 3048gの元気な男の子! おめでとうございます!」
その言葉に悟史と義母は顔を見合わせた。
「中には入れますか!?」
悟史の言葉に看護師は、お父さん慌てないで、と汗の滲む顔を綻ばす。
「今色々処理してるからね。入れるようになったら呼びますので廊下で待っててください」
今まで味わったことのない高揚感。緩む口元を抑えることができない。
(あぁ、カメラでも持ってくれば良かった)
分娩室の前でそんな事を考えていると、
「入っても大丈夫ですよー」
そう言って重い引き戸を看護師が開けた。
映画やドラマでしか見たことがないベッドとも椅子ともとれる分娩台の上には、白いタオルに包まれた赤ん坊を胸の上に乗せた環がいた。
「あ、さとしさーん」
はにかむ彼女の腕は点滴の管が繋がれていて、未だ青白い顔が痛々しい。
タオルの中の赤ん坊はいつか彼女が見せてくれたエコー写真で見た顔とまったく同じで、本当に環の中から出てきたのだと阿呆みたいな感想が脳裏を過ぎった。
「あ……あ……」
上手く言葉が出てこない。そっと指先で赤子の手に触れてみると人形のように小さい指がピクリ、と跳ねて確かに体温を感じる。
「赤ちゃ~ん、パパが来まちたよぉ」
環がそう言って赤子の頬を指の腹でつつくと青白い全身の中で異様に赤い口がパクパクと動いた。
「う、わ……」
悟史には世界がとんでもなく美しく見えた。白いライト、青いシーツ、桃色の分娩着、赤い口。きっと幸せに色がつくとしたらこんな色なのだろう。
「ごめんね、そろそろカンガルーケアおしまいだよ。赤ちゃんもママもお休みしようねぇ」
と、赤ん坊を連れて行く助産師も
「はーい、お願いしまーす」
と見送る環も、何もかもが今まで見た世界とは違って見える。間違いなく新しい世界が始まったのだ、そう思えた。
「だいじょーぶですか?」
不意に訊ねられ悟史が環に目をやると、ひと仕事を終えた疲労からか舌足らずな喋り方になっているが随分満足した顔があった。
「……環さんが大丈夫?」
「私は大丈夫じゃないですよぉ」
ヘラヘラとはしているが、それが本音だろう。数時間前泣き叫んでいた彼女の姿を思い出すと、先程蓋をしたはずの目頭が再び熱くなるのが分かった。
「え、悟史さん泣いてます?」
「……いや、ごめん……。もしかしたら環が死ぬんじゃないかと思って……」
「あはは、死にませんよぉ。結婚した時、約束したでしょ? 悟史さんより後に死ぬって」
結婚する時に彼女がしてくれた約束を思い出す。
「……ありがとう」
言葉にしたい思いはたくさんあったはずなのに、気の利いた言葉の一つも出てこない。ひとまず、使い古された常套句を一つ。小さく呟いて、彼女の手を握った。
つい先日、身近な愛妻家に借りて読んだマタニティ本には『母親は子どもができるとホルモンバランスの関係で涙脆くなることがある』のだと書いてあった。あの記事は正確には『母親も父親も子どもができるとホルモンバランスの関係で涙脆くなることがある』なのだろう。
随分と涙腺が弱くなった自分に言い訳をするように悟史はそう思った。
「ほら、お父さん! お母さんを休ませてあげて!」
逢瀬は一瞬。
先程の助産師が淡々と仕事をこなす。どうやら環はこのまましばらく分娩台の上で休むようだ。
すみません、と悟史は短く頭を下げ
「環さん、何か欲しいものとかないですか? 出勤時間までもうちょっと時間あるから買ってきます」
出勤時間ギリギリまで病院にいたとして、今日は内勤のみの予定だしシャワーは出社してから余裕がある時でいいだろう。
「んー……じゃあ、アイス。食べたいです。バニラのがいいな」
「分かりました。環さんはゆっくり休んでください」
そういえば環が妊娠中の間も「なにが食べたい」「どれなら食べられる」と訊いてはあれこれ買い物に走ったな、と悟史は思い出す。つい最近のことなのに随分昔のことのような気がする。
(一階のコンビニは六時開店だったはず……)
結局、コンビニにあるアイスを全種類一つずつ買ってきてしまった。冷気を放つビニール袋はズシリと重い。
『こんなに買ってきてどうするんですか?』
眉を釣り上げてお小言の一つくらいは食らうかもしれないな、と思うと悟史の口角は自然と上がる。
エレベーターが三階で扉を開くと、一気に赤ん坊たちの泣き声の合唱が全身を襲った。
新生児室。ガラスの向こうには新生児用のベッドに入った赤ん坊が輪唱するように泣き声を追いかけあって手足をばたつかせていた。病棟中に響き渡る泣き声の中に、わが子がいるのを見つけて悟史の目尻は自然と下がった。
「改めまして。初めまして、宜しくね」
清潔なガラスで閉ざされた新生児室で優しく泣く我が子に、悟史のこの言葉は聞こえないだろう。
一先ず、妻への労いが最優先。溶けかけのアイスクリームが入った袋を握り直し、環が待つ病室へと歩みを進めた。