徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「ほら、そろそろ帰ってやれ。ゆかりさんのことだ、多分そのうちお前ん家に手伝いに行くって言い出すから、その時は連絡させる」
「ありがとうございます。助かります!」
「精々頑張れよ」
和樹に送り出され店を出る。辺りはすっかり暗くなっていた。
四、五歩踏み出し悟史は足を止めた。ガードレールを装飾するように支柱の天辺に取り付けられた反射板を車道を流れるヘッドライトが照らしていた。小気味よいリズムを刻むそれが目に入り、ガードレールに腰を下ろした。その途端、体はパラパラと音を立てて崩れ落ちてしまいそうになってしまった。知らず知らずの内に張っていた緊張が緩んでしまったようだ。ヘッドライトたちはそんな悟史に構わず素知らぬ顔で絶えず流れて行った。
子どもが生まれて約三週間。悟史は自分の無力さに少なからず落ち込んでいた。自分の力ではままならないことが多すぎる。人よりは何でも卒なくこなせる自分はもう過去の産物だ。
やりたいこと、やらなければならないことは多すぎるのに時間が足りず、そしてそれらを取りこぼしているうちに次のやるべきことが迫ってくる。
道端に花溜りを作っているノウゼンカズラは夜の翳りの中で朱を濃くし、絞み始めていた。
あの花は雨や曇りが続くと最盛を前に落ちてしまうのだと、環がいつか言っていたのを悟史は思い出していた。
『弦はどこまでも伸びて行くのに、不器用なお花よねぇ』
もう何年も前に言われたセリフが頭の中で淡く広がる。バスタブの中に垂らした一滴のインクくらい薄い広がりではあるが、自分のことのようでじんわりと胸を締め付ける。
わりと何でも卒なくこなせる方だと自負していたが、自分も大概不器用な花なのだ。他人の不器用さをあれこれ憂える立場などではない。三十を超えて子どもが生まれ、やっとのことで自覚した己の本性に恥ずかしさで顔に熱が集まった。
『勿体ないぞ』
先ほど、和樹に言われた言葉を思い返す。
悟史のそういった自惚れも見抜いて言っていたんだとしたら、流石としか言いようがない。
例え偶然だろうと、悟史にとって和樹が救いの一つであることは間違いはないのだ。兄のようであり父のようでも師のようでもある、頼れる大きな存在の『精々頑張れよ』に応えるべく、悟史は両の太ももに手を付いて立ち上がった。
帰宅すれば、また、儘ならない自分の家族が待っている。儘ならなくて愛しい家族。儘ならないならば儘ならないなりにできることを続けるしかない。花を落としても蕾を落としても諦めずに弦を伸ばし続けるノウゼンカズラのように。
それから、あっという間に一ヶ月が経った。
「ただいま」
悟史がその日自宅マンションに帰れた時、既に深夜十二時を過ぎていた。
『今日は帰れそうだけど遅くなりそうだから先に寝てくれ』と連絡をしておいたため、家の中は水を打ったようにしぃん、と静まり返っている。人感センサーで反応した玄関の灯りが目に痛いと思うほど、部屋の奥は暗く深い闇に包まれていた。
上着を脱ぎ、すっかり癖になった手洗いとうがいを済ませダイニングへ向かう。テーブルの上にはラップを掛けた食事と
『悟史さんへ。
今日もお仕事お疲れ様です。
ゆかりさんが手作りおかずを持ってきてくれたので、チンして食べてください』
というメモ書きが置いてあった。
(そうか、ゆかりさんが来てくれていたのか……)
確かに周りを見渡すと荒れ始めていた部屋が整理整頓され、久しぶりにリビングに登場した花器を季節の花が彩っている。
一ヶ月検診が過ぎてからこうして時々ゆかりがやって来てはあれやこれやと世話を焼いてくれているらしい。猛暑日続きでなかなか外出もできない環にとっては大人と話せるいい機会らしい。
「いただきます」
暗い部屋の中、ダイニングのペンダントライトの灯りの下で手を合わせる。
和樹曰く「ゆかりさんの手料理は世界一美味い」らしい。確かに彼女が作る喫茶いしかわのメニューも時折会社に泊まり込む和樹と部下のためと会社に届く差し入れ弁当も、どれも美味かったと思い出す。
(環さんはちゃんと食べたんだろうか……)
食べることも作ることも好きで楽しんでいた環が、この頃は包丁を持つ時間もないどころかまともに食事をする暇もないらしい。炊飯器の中の米は手を付けられた形跡がなかった。もしかしたら、今夜も食べずに寝てしまったのかもしれない。
それでも、自分の分はキチンと用意して丁寧にメモまで残してくれる環。悟史は次々湧いてくる罪悪感と感謝、愛しさがごちゃ混ぜになった感情を飲み込むように箸を進めた。
食事を終えた後、出来るだけ静かに皿を洗うのもすっかり慣れた。
『ご飯食べるの忘れて気が付いたら寝ちゃってるんですよねぇ』
ふと、環が先日苦笑まじりに言っていた言葉が頭をよぎる。
よし、と捲った袖もそのままに悟史はキッチンで作業を始めた。
悟史が寝室をそっと開けたのはもうすぐ午前二時になる頃。夜中も子どもの世話がしやすいようにと常夜灯を付けたままの寝室で疲れきって寝ている環の顔が目に飛び込んだ。
心は不思議な生き物だと悟史は思う。
仕事だけを生き甲斐に身を粉にして働いていた頃には、心の形はいつだって綺麗な丸い形をしていた。それなのに守るものが増えてからというもの綺麗な丸は不安定な形へ姿を変え、鮮やかな色に翳りが浮かぶようになっていた。この先も心はもう二度と綺麗な丸に戻ることはないのだろう。いつだって失うことに怯え続けている。幸せは不安と表裏一体だ。
しばらく環の寝顔を眺めていると、その隣。小さな影が目を覚まし手足をばたつかせていることに悟史は気が付いた。
静かに部屋の奥へと忍び込み、その小さな影の側へと近づく。
「どうした? 目が覚めちゃったのか?」
おいで、と抱き上げた我が子の小ささと柔らかさがどこまでもくすぐったい。
「ママを起こさないで偉かったな。パパとそっちで遊ぼう」
環を起こさぬように再び忍び足で部屋を抜け出す。扉を潜り抜ける時に常夜灯も消しておいた。これで少しは環も深い眠りにつけるだろう。
リビングに設けた息子用のキッズスペースに間接照明だけをつけ、オムツを替えてミルクをあげる。
我が子の世話なのにまったく慣れない自分の手つきがおかしくて悟史は失笑した。
環が妊娠中に作ったのだという太陽を模したパステルカラーのベビーマットの上で、一頻り満足したらしい息子は大きな欠伸をしていた。
こんなに小さな赤子でも欠伸はちゃんと大人と同じ欠伸なんだな、なんて頓珍漢なことを思いながら、悟史は我が子の隣に横になった。
ミルクと、少し汗の匂い。そして、日中十分に陽の光を浴びたのであろうベビーマットからは太陽の匂いがした。
最近、乳児性湿疹ができたのだと環が憂いていた我が子の頬には産まれたばかりの頃より肉が付いてきたように思える。
「お前すごいな、着実にでかくなってる……」
環の胎の中にいる時にも日に日に大きくなる息子の成長には驚いたが、こうして目の前で確実に大きくなっていくところを見てしまうと生命の神秘のようなものに触れた気になってしまう。
今、自分のところで生まれた命の前で悟史は再びどうにもならない無力さを感じながら我が子と共に目を閉じた。
◇ ◇ ◇
環は目覚めた瞬間、隣にいるはずの我が子の姿がないことにパニックを起こした。バタバタと眠気眼のまま息子の姿を探す。自分が寝ていた下、布団の間、枕の下。ベッドの下を覗いたところで、初めて部屋が真っ暗になっていたことに気付いた。うっすらと扉の隙間からリビングの灯りがもれている。
(悟史さん、帰ってきてるのかしら?)
エアコンが働く微かな音しかしないリビングからは聞き慣れた悟史の声も最近クーイングするようになった息子の声も聞こえない。
産後、足音を立てないようにそっと歩く癖がついてしまった環はリビングへと抜け出す。すると、クッションマットを敷き詰めたキッズスペース。いつもの我が子の定位置には我が子だけではなく夫である悟史が寄り添うように寝ていた。
「あら、仲良しさん」
口の中だけでそう呟いてときめきで破顔した環は思わず両頬を自分の手で包んだ。
(写真撮りたいー! どうしよう、スマホ……あ、悟史さんの借りよう!)
ソファに転がしてあった悟史のプライベート用のスマートフォンのカメラ機能を素早く起動し、シャッター音が少しでも抑えられるようにスピーカー部分を抑え、こっそり悟史と息子の寝姿を写真におさめた。
(うちの旦那さんと息子が可愛すぎる……後でこの写真送ってもらおう)
キュン死というのはこういうことを言うのだろうと環は抑えられぬ胸の高鳴りを噛み締めるように写真を見つめその場を離れた。
ふと、ダイニングに目をやるとテーブルの上に用意しておいた悟史のための食事がなくなってる代わりにおにぎりとメモ用紙が置いてあることに気付いた。そこには
『環さんへ
お腹がすいてたら少しでも食べてください。
ゆかりさんが持ってきてくださった肉そぼろと大葉とごまを使いました。』
と、カッチリしていながらも男にしては優しい文字。それは環が久しぶりに見る悟史の文字だった。
子どもの世話で精一杯で、自分のことはどんどん後回しになり今日も夕飯を食べるのを忘れたまま寝てしまったことをその時やっと環は思い出した。
ダイニングのペンダントライトを付けいただきます、と小さく手を合わせる。
そぼろと大葉とごまがごちゃ混ぜになったおにぎりは環の大好物。いつか悟史にそれを話したのを覚えていてくれたことにじんわりと胸が温かくなった。
ただでさえ激務な悟史がこうして何かと尽くしてくれることが嬉しい反面、環には少し罪悪感のようなものがモヤモヤと付きまとっていた。
『結婚したら毎日行ってらっしゃいとおかえりなさいをするために玄関まで行こう』とか『どんなに大変でも夕ご飯だけはキチンと手作りしよう』とか『頑張って毎日綺麗でいるために早起きしてお化粧をしよう』とか。
挙げ始めたらキリがないほどにあった理想は子どもが生まれ、忙しない現実の前にどんどん崩れ去っている。
今日の昼間に来てあれこれと世話をしてくれたゆかりにそのことを相談すると
「大変なのはお互いさまよ! 大体男っていうのはこっちが黙ってるのを良いことに『女は強いなぁ』とか『頭が上がらん』とか言って甘えたままでいようとするものなの! だから、気にしなくていいの。これから何十年と一緒にいるのよ? 一々気にしてられないでしょ? ちなみにこれ、店の常連マダムたちからの受け売りです」
なんて冗談めかして笑っていたが、どうしても気になってしまう。
(私は何もしてあげられてないのにな……)
そう考えてしまったところで悶々と悩むのは性にあわないと言わんばかりに環は頭を振る。
母乳をあげているせいか。食べても食べても減る腹に、二つあったおにぎりがあっという間に吸収されていった。
時計に目をやると朝の三時半。あと一時間半もしたら、息子が本格的に起きる時間だろう。
ガーゼのおくるみを広げ、二人の上にかける。ふわりと波打つガーゼには紺色のくじらが列を成して泳いでいる。眠りの浅いところまでそっくりな二人の手がピクピクと反応し、悟史の眉根が深く寄る。
(また夢の中でまで何か難しいこと考えてるのかしら……)
可愛い人だな、と環は思う。難しい仕事を熟す悟史の同僚や親しくしているのだという若者たちは「家庭の中の長田さんが想像できない」と口々に言う。それでも環にとっては優しくて不器用で、近頃少しだけ泣き虫な可愛い人。
ふぎゃふぎゃと寝惚けながら声を出し始めた我が子の空いている隣に寄り添い環は横になった。小さく波打つ赤子のお腹に手を当てゆっくり
「大丈夫、ここにいるよ。大丈夫だよ」
そう呟くと息子は再び眠りの海に潜った。
我が子のお腹から離した手を次に環は悟史の額に持っていく。
「大丈夫、ここにいます。大丈夫ですよ」
と優しく撫でると、眉間の皺が少しだけ薄くなった。
慌しい一日が始まってしまうまで残り僅かな時間。環はその時間を愛しい夫と息子を抱きしめ目を閉じた。