徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
Case5・ケーキ屋の販売員・女性
「いらっしゃいませ!」
「こんにちは、ケーキ屋のお姉さん」
明るい挨拶をしてくれたのは、お気に入りのお客さま……のお子さまたち。
目じりのシワやほうれい線が隠せないお年頃になってしまった私に対しても、なんのてらいもなくお姉さんと呼びかけるご子息。さすがのご教育である。
「こんにちは。今日はおつかいかしら?」
「はい! お父さんがね、明日は“主婦休みの日”だから、今夜は主婦休みイブで、お母さんの好きなケーキをプレゼントしたいんだって」
「電車でおつかいは初めてだから、まちがえないかドキドキしちゃった」
目を合わせてくすくすと笑い合う子供たち。
「まあ。相変わらずご両親は仲が良いのね」
当然、という表情で頷くふたり。
「お父さんがお母さんを大好きすぎるのよ」
「でも、お母さんもお父さん大好きだよね。たくさん甘えん坊してるもの」
「しーっ! それ、お母さんは私たちが知ってるの知らないんだから」
「そうだった。お姉さん、今の話、内緒ね」
ふたりで人差し指を口元にあてて、しーっ、のポーズをとる。やっぱり可愛らしい。
「わかりました。それで、どのケーキを買うか、もう決まってるのかしら?」
「あ、はい。えーっと」
ポケットからメモを取り出した。
「シュークリームが四つ。渋川栗のモンブランひとつ、オペラひとつ、いちじくタルトひとつ、抹茶ミルフィーユひとつ。以上です!」
「かしこまりました。そこのベンチで少し待っててね」
「はーい!」
素直な返事をBGMに、10年近く前に初めて来店したときの彼らの両親に思いを馳せた。
◇ ◇ ◇
世の中は、案外そこかしこにパズルのピースが転がっているんじゃないか。
パズルが得意なわけではないけれど、繰り返す日常の中で、そう思うことが時折あるのだ。
土曜日の夜。残りの営業時間が一時間を切り、店内の灯りがガラス越しに滲む歩道を行き交う人々がまばらになっていく頃だった。自動ドアが開く音とともに来店したお客さんに、接客目的を少し忘れた視線を向けてしまったのにはわけがある。
なんせ、ファッション雑誌から抜け出したようなイケメンだった。
「いらっしゃいませ」
イケメンは緩やかに店内を見回した後、ショーケースに向かってきた。
店内の奥に設置されたイートインスペースは空いていたけれど、さすがにこの時間で利用するつもりはないのだろう。
そうは思っても、マニュアルとして言葉が用意されているのが接客業というものだ。
けれどこちらが口を開くより先に、「持ち帰りで」と落ち着いた声が言うものだから、私は形式的な質問をのみこんで、代わりにかしこまりましたと笑った。
「おすすめはありますか?」
「そうですね、人気が高い商品でしたらこちらとこちらでしょうか」
定番のショートケーキ。
この時期限定の、渋川栗のモンブラン。
人気商品ゆえに多めに作っているから、まだ売り切れていない。
ひとつひとつを指し示した説明が終わっても、静かな視線は斜め下を向いたままだった。大分真剣に悩んでくれる人だと、私はまだショーケース内に並べられている数個を確認する。
シャルロットポワール。キャラメルのタルト。ヨーグルトチーズケーキ。それと最後に。
「そういえば、このオペラはチョコレートが甘めなんですが、通常よりもコーヒーの分量を多くしているので風味が豊かでおすすめです」
慣れた説明は滑らかに口から零れた。
スーツを着ているから、というわけでもないけれど、コーヒーが似合いそうだと思ったのは事実だ。直感的に。
それから、ほんの少し、期待に近い感情で。
「コーヒー……」
口の中で転がすように単語を復唱して、彼はもう一度ショーケースを眺める。
「コーヒーがお好きなんですか? でしたら……」
「ああ、その……」
私の言葉に瞬いたかと思うと、そこで初めて、彼はほんのりと口元を綻ばせた。
「僕も好きなんですが、妻も好きで……彼女へのお土産に買って帰ろうと思ったんです」
スーツの袖からみえる手には、指輪は存在してなかった。
だから私は、目を奪われたときから彼が妻帯者なのか判断しきれなかったのだけれど、彼が言うからには、そうなのだろう。
『そう』あってほしいと思った。
彼の容姿を目に留めたときから、予感めいていたから。
ややあって、ガラスにこつりと爪先が当たる小さな音がする。
「……これとこれをお願いします」
「はい、そちらですね」
オペラと渋川栗のモンブラン。薄手のゴム手袋をして、選ばれた二つを丁寧に取り出した。
「奥様は栗もお好きなんですか?」
ケーキ箱を組み立てつつ、保冷剤や緩衝材を用意する。その合間に、私はつい口を挟んでしまう。
「そうですね……妻がここにいたら、その二つで悩みそうだと思って」
「……奥様思いですね」
よく、奥さんのことを理解してるんだろうと思う。
奥さんへのお土産を買いに来るスーツ姿の男性は、実のところ決して少なくない。けれどこのショーケースを隔てて、相手の好みがわからないから店員に丸投げするという男性もよく見てきた。
それこそ、両手の指ではとても足りないほど。
「どうでしょう。多忙な職についてるので、寂しい思いをさせてる方が多いかもしれません。今日だって、数日ぶりに帰るんです。まるで、何かを渡すことで機嫌を取るみたいな……」
それは奥さんに対して信頼がないというよりは、自分に言っているようにも聞こえた。
責めるというほど重い響きではないけれど、謙遜の延長で口にした冗談だと片付けるには尾を引くような口調だった。
どうやら奥さん思いなだけではなくて、想像していたよりもずっと誠実な人らしい。
「確かに、渡すという行為自体に意味を見出す方もいらっしゃいます。でも、何かを渡すというのは、行為そのものよりも、そのときにどれほど相手のことを想っているのかが大事なのだとも思います」
だから私は、感じたままを口にした。
真剣に悩んで、奥さんのことだけを考えてケーキを選んでくれた人だ。悪く思える要素がない。
「きっと奥様はすごく驚いて、それから喜んでくださるんじゃないでしょうか」
彼は瞳をゆるりと細めて、吐息を零すように笑った。
「ありがとうございます。貴方の言う通りですね。……そういえば」
「はい?」
「さっきの……モンブランも妻用だと、よく分かりましたね」
慧眼なんですね、と言われて私は瞬く。
言われてみれば彼が自分の好みで選んだというのも考えられることだった。完全に無意識でいた。
そこに引っかかる彼こそ、本当に慧眼なんじゃないだろうか。
「いえ、偶然ですよ。そんなこと初めて言われました」
てきぱきと包装を終えながら顔を綻ばせた。
そう、本当に。本当に、偶然だ。