徒然とはいかない喫茶いしかわの日常
「おかえり」
新しいジョッキを掲げるマスターに、和樹は苦笑してみせる。
「ゆかりさん、捕獲してきました」
「よくやった。報酬は新しいビールだ」
「ありがとうございます」
「もう! マスターも和樹さんも、なんですかその三文芝居は!」
若い彼女の口からはまず出そうにもない言葉に、マスターと和樹は顔を見合わせて笑い合う。
「人の顔を見て笑うなんて失礼ですっ」
と怒りながらも、自分が席を外していた少しの間に、随分と打ち解けたものだ。声には出さないまでも、そのことにゆかりはなんだかとても嬉しくなった。
気付くとゆかりのグラスは空になっており、
「なににしますか?」
と、お品書きを渡しながら和樹が問う。
テーブルには、地鶏を使った炊き込みご飯が並べられていた。おそらく、次はデザートで終わりだろう。
数あるお酒の中から少し迷ったが、そろそろ言うことを聞かなければならないのかもしれない。
「……ジンジャーエール」
と告げながらゆっくりと視線を和樹に合わせると、その先で和樹が、大変良くできました、とでも言うかのように優しく笑った。
デザートのシャーベットを食べ終え、纏った熱さを少しだけ覚まして店を出る。この時間はまだ人で溢れているものの、平日ともあれば週末よりは少ないのだろう。
喧騒も店内よりは落ち着いており、頬を撫でる風が気持ち良い。
「ご馳走さまでした」
と和樹がマスターに丁寧に頭を下げる隣で、ゆかりも一緒に頭を下げる。
「美味しかったね」
「はい、すっごく幸せです」
「ゆかりにそう言ってもらえて良かったよ」
ほわほわした親子の会話に、気付かない内に和樹の頬も緩んでしまう。
「僕はこのまま帰るけど。二人はどうする? さっき話してたバーにでも行くかい?」
タクシーの方へと向かうマスターの後について行くと、思わぬ言葉を投げかけられる。二人は顔を見合わせ、ゆかりがこてん、と首を傾げた。
「いえ、それはまた今度にしましょう。ゆかりさん、酔ってますし」
「そんなことないですよーう」
「そんなことあるでしょう。自重してください」
「はーい」
いつもより、ゆるゆると向けられる笑顔に、和樹は内心溜め息をつく。
結構、酔っているではないか。
酔ってはいると思っていたが、こんなに顔に出ないのは卑怯だと思った。
気心知れたメンバーのせいだとは思うが、ゆかりは必要以上に、にこにこと笑みを浮かべ楽しそうだ。
もうこれ以上飲ませられない。むしろ、他の誰の目にも映らないよう、速攻で家に送り届けたい衝動にかられる。
自分の理性が崩れることはないが、年頃の男たちに見せたら、絶対に格好の餌食となる。
このままタクシーに乗せてしまおうか。それとも。
「じゃあ私たちは電車で帰りまーす」
マスターに不格好な敬礼をして、ゆかりはふにゃりと笑う。マスターは可笑しそうに笑って、「気を付けて帰るように」と敬礼を返した。
「ゆかりのこと、頼むね」
とこっそり和樹に告げて、タクシーに乗り込む姿を見送る。
マスターの乗ったタクシーに手を振るゆかりを見つめ、和樹は、はあと一つ溜め息を零した。
ほんと、危ないなこの子。心配にならざるを得ないではないか。
「ゆかりさん。ほら、帰りますよ」
「はーい」
ビルの明かりが煌々と灯り、車のヘッドライトが帯を残して通り過ぎる。
幾分か情緒的にさせる光景に不釣り合いな程、幼さを残しているはずの彼女は、いつもより頬を赤く染め、その丸い目は潤んでいる。
……そうか、彼女の年齢ならまだ、危うさとあどけなさが混じる年頃だ。
夜の帳が降りる。昼間とは異なる、怪しげで危うげで艶めかしい、造られた明るさと喧騒。
不釣り合いだと思っていたはずなのに。少しだけ色気を乗せ、目を潤ませた彼女が、ゆっくりとその髪を耳にかけた。目に映る景色に溶け込む様は、まるで別人のようだった。