余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
銀刻の五人は、迷宮の入口前で足を止めた。
先頭の銀剣使い、ラザル。
大盾を背負う女戦士、ヘルマ。
杖を握る老魔術師、オルド。
白衣の聖職者、イリア。
そして、斥候のネル。
誰も喋らない。
誰も笑わない。
入口の湿った石、白く濁った霧、灰の匂い、そして奥から漏れる白磁の冷たい魔力を、五人は黙って見ていた。
「ここが、白庭化した旧迷靄洞か」
ラザルが言った。
その名は、人間側の仮称だ。
霧灰白庭迷宮。
余の新しい名を、こいつらはまだ知らない。
知らなくていい。
知る前に死ね。
「標識一号、置く」
斥候ネルが、入口の外側に銀色の杭を刺した。
次に、入口の内側へ小さな青い結晶を置く。
さらに、糸のように細い魔力線を腰の器具から伸ばした。
三重の退路標識。
さすがAランク。
最初から帰ることを考えている。
「……面倒だな」
《はい。退路確保意識が非常に高いです》
「褒めている場合か」
《分析です》
「分かっている!」
叫びかけて、余は声を抑えた。
ここで慌てるな。
こいつらは強い。
だからこそ、急いで殺そうとすると逃げられる。
井守の言葉が頭をよぎる。
強い冒険者ほど帰り道を見る。
なら、帰り道を先に殺せ。
「赤錆噛み。まだ噛むな」
《待機中》
「戻り水は床下だけ。見せるな」
《はい》
「白磁花粉、第一濃度」
《散布開始》
灰白庭回廊が開く。
白磁の床。
白い柱。
左右に咲く白磁花。
その上に薄い灰。
綺麗だ。
だが、綺麗すぎない。
白い床の継ぎ目には、見えないほど細く戻り水が通っている。
花粉には薄灯茸穴から届いた胞子が混じっている。
匂いを消す菌糸。
方向感覚を一瞬だけ遅らせる幻覚茸の粉。
即死ではない。
毒でもない。
だから聖職者は見逃しやすい。
「浄化するか?」
イリアが花を見た。
老魔術師オルドが首を振る。
「待て。強い毒ではない。むしろ清浄系に近い。だが、匂いがない」
「匂い?」
「花粉があるのに、花の匂いがない。匂いだけ抜かれている」
……気づくのか。
「嫌だな、こいつら」
《Aランクです》
「知っている!」
庭番人形が三体、白磁柱の陰から出た。
白い陶器の人形。
細い腕。
白磁の刃。
見た目は美しい。
だが、あえて弱くしてある。
「来るぞ」
ヘルマが大盾を構えた。
庭番人形が跳ぶ。
速い。
だが、ヘルマの盾が一歩前に出た。
白磁の刃が盾に弾かれる。
次の瞬間、ラザルの銀剣が一閃した。
一体目の首が飛ぶ。
二体目はオルドの石弾で砕ける。
三体目はイリアの杖に触れられ、内部から白く割れた。
早い。
無駄がない。
ゴブリンなら十匹いても、今の一呼吸で潰されていた。
「……やはり強いな」
《庭番人形三体、破壊》
「構わん。見せ札だ」
余は自分に言い聞かせた。
怖い。
だが、まだいい。
まだ奥へ来ている。
ネルが床に膝をつく。
「床の継ぎ目が濡れている」
……こいつ。
「白磁床なのに湿っている。水源が見えない。踏む場所を選べ」
ラザルが頷く。
「全員、ネルの足跡だけを踏め」
五人の足並みが変わった。
先頭が斥候になる。
盾が斜め後ろ。
銀剣が中央。
老魔術師と聖職者が後衛。
危険な迷宮で、最も正しい形。
「なら、その足跡を使う」
《戻り水、浅泥井戸記録と接続します》
床下の戻り水が、ネルの足跡をなぞった。
浅泥井戸から得た沈降記録。
泥が足跡を記憶する仕組み。
それを白磁床の下で再現する。
踏まれた床が、ほんの少し沈む。
戻り水が形を覚える。
そして、数歩遅れて同じ足跡を別の場所に浮かべる。
偽の足跡。
偽の安全地帯。
ネルが眉をひそめた。
「止まれ」
五人が即座に止まる。
……本当に嫌だ。
「どうした」
「俺の足跡が、先にある」
「先に?」
「俺はまだそこを踏んでいない」
オルドが杖を鳴らした。
床に薄い魔法陣が広がる。
「水だ。床下に薄い水脈がある。足跡を写しておる」
見破るのが早い。
だが、見破るために止まった。
止まったなら、次を置ける。
「カゲヌイ」
《影針、第一段階》
白磁柱の影が、ほんの少し伸びた。
ネルの足元ではない。
後衛の聖職者でもない。
盾役ヘルマの大盾の影。
そこへ、細い影針が刺さる。
ヘルマの盾が、一瞬だけ床に引かれた。
「影罠!」
ヘルマが即座に膝を落とし、盾を捨てずに体勢を変える。
ラザルが影を斬った。
斬れるのか。
「くそっ」
《影針、破断》
「だが足は止まった」
その隙に、赤錆噛みが床下を走る。
狙いは人間の肉ではない。
ネルの腰から伸びている魔力線の固定具。
金具。
釘。
留め輪。
赤錆噛みの歯が、白磁床の裏で小さく鳴った。
かり。
かり。
かり。
ネルが振り返る。
「退路線が――」
遅い。
魔力線が、ぷつんと切れた。
「一系統切断!」
ラザルの目が鋭くなる。
「撤退標識を確認しろ」
「まだ二系統残っている」
ネルは冷静だった。
焦らない。
腰の予備標識を取り出し、白磁柱の根元へ刺そうとする。
そこへ、マネが喋った。
ラザルの声で。
「前進」
ネルの手が、一瞬だけ止まった。
本当に一瞬。
Aランクの斥候が、騙されたのは半呼吸にも満たない。
だが、迷宮ではそれで足りる。
「今だ」
影縫い大蜘蛛の糸が、天井から落ちた。
見える糸ではない。
捨て糸でもない。
白磁花粉に紛れた、灰色の極細糸。
ネルの手首。
足首。
首の後ろ。
三点に絡む。
「上!」
ヘルマが盾を上げる。
イリアが浄化光を放つ。
オルドが糸を焼く。
速い。
速すぎる。
だが、ネルの影はもう床に縫われていた。
カゲヌイの本命は、糸ではない。
糸で動きを見せ、影で止める。
ネルが短剣を抜く。
自分の影を斬ろうとする。
その瞬間。
白磁柱の陰から、灰白線喰いの追跡者が出た。
落武者のような鎧。
灰白の刃。
逃げる者の線を喰う、迷宮の追跡者。
「ネル!」
ラザルが踏み込んだ。
銀剣が追跡者の刃を受ける。
火花が散る。
受けた。
こいつ、追跡者の初撃を受けた。
だが、追跡者の刃は一本ではない。
もう一本の短い錆刃が、下から走った。
ネルは避けた。
避けた、はずだった。
戻り水で濡れた白磁床が、足を半歩だけ滑らせる。
その半歩で、首が空いた。
灰白の刃が通る。
音は小さかった。
ネルの首から血が噴き、白磁床に赤い線を引いた。
《Aランク斥候一名、討伐》
《獲得ソウル:六百八十》
《取得:退路標識魔具片、斥候の影針靴、迷宮地図帳の破片、銀刻式魔力線》
白い部屋に表示が浮かぶ。
余は、一瞬だけ言葉を失った。
殺した。
Aランクを。
五人のうち一人を。
歓喜より先に、冷たい震えが来た。
できた。
だが、これで終わりではない。
むしろ、ここからが本番だ。
「ネル!」
イリアが叫ぶ。
ヘルマが盾で追跡者を押し返す。
ラザルの銀剣が、追跡者の肩を裂いた。
灰白の鎧が割れる。
《追跡者、中度損傷》
「下げろ!」
《追跡者、後退》
追跡者が影へ沈む。
ラザルは追わなかった。
追えば死ぬと分かっている。
それがAランクだ。
彼はネルの死体を一瞬見た。
顔を歪めた。
だが、叫ばない。
泣かない。
すぐに判断した。
「撤退する」
ヘルマが歯を食いしばる。
「ここでか」
「斥候を失った。退路線も一つ切られた。敵は声を真似る。床下に水。影罠。天井糸。追跡型の高位魔物。これ以上は情報を持ち帰れない」
正しい。
あまりに正しい。
だから殺す。
「撤退標識二号を起動!」
イリアが青い結晶を掲げた。
光が入口方向へ伸びる。
だが、その光はまっすぐ戻らなかった。
白磁回廊の奥で、マネがイリアの声を真似る。
「撤退標識二号を起動」
同じ声。
同じ響き。
光が二つに割れた。
片方は入口。
もう片方は、偽庭園迷路の奥。
オルドが叫ぶ。
「声に反応しておる! 標識を耳で追うな、魔力で追え!」
「魔力も揺れている!」
ヘルマが盾を構え直した。
白磁花が一斉に開く。
薄灯茸の胞子が、白い霧の中へ溶ける。
匂いが消える。
足跡が消える。
声が増える。
帰り道が、二つ、三つ、四つに割れる。
余は白い部屋で命じた。
「第一層閉鎖。第二層を回せ」
《偽庭園迷路、起動》
「グズはまだ待て」
《了解》
「濁白騎士もまだ見せるな」
《了解》
「赤錆噛み、残った標識の金具を噛め。ただし一気に壊すな。少しずつ狂わせろ」
《了解》
ラザルたちは、ネルの死体を置いていかなかった。
ヘルマが片腕で抱え上げる。
甘さではない。
Aランク斥候の装備と記録を、迷宮に奪わせないためだ。
だが、その分、盾の角度が落ちる。
その分、足が遅くなる。
その分、帰り道が遠くなる。
「……持って帰れると思うなよ」
余は呟いた。
怖い。
こいつらは強い。
一人殺しても、まだ四人いる。
しかも一人を失ったことで、こいつらは油断を完全に捨てた。
ここからは、本気で逃げる。
本気で生き残ろうとする。
だから面白い。
だから喰う価値がある。
《獲得ソウル、使用可能です》
「今は使うな」
《よろしいのですか》
「戦闘中に浮かれて買い物をする馬鹿がどこにいる」
《初期のあなたなら可能性がありました》
「黙れ!」
言ってから、余は笑った。
確かに昔ならやっていたかもしれない。
だが、今は違う。
ソウルは後で使う。
今は、こいつらを逃がさない。
ラザルが銀剣を構え、低く言った。
「全員、耳を信じるな。目も信じるな。俺の背だけ見ろ」
マネが、その声を真似た。
「俺の背だけ見ろ」
四人の表情が凍る。
白い霧の奥で、同じ声がいくつも重なった。
「俺の背だけ見ろ」
「俺の背だけ見ろ」
「俺の背だけ見ろ」
ラザル本人が、初めて舌打ちした。
余は白い部屋の奥で、静かに命じる。
「帰り道を、閉じろ」
白磁の床が、濡れた。
灰が舞った。
霧が沈んだ。
そして、銀刻の五人が入ってきたはずの道が、白い庭の奥へずれた。