余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
東方の小村、リムナ村にはがあった。
小さな鐘楼だ。
王都ののような立派なものではない。
木で組んだ台に、古い銅鐘がひとつ吊られているだけ。
村人を集める時。
火事が起きた時。
狼が畑に出た時。
旅の神官が来た時。
その鐘は、いつも村の中心で鳴っていた。
その朝も、鐘は鳴った。
だが、いつもの音ではなかった。
祈りでも、祝いでも、集会でもない。
逃げろ、という音だった。
鐘を鳴らしていたのは、村長の息子だった。
まだ十四の少年だ。
彼は泣きながら、縄を引いていた。
ごん。
ごん。
ごん。
「逃げろ! 東から来る! 魔物だ!」
村人たちは最初、何のことか分からなかった。
畑に出ていた男たちが顔を上げる。
井戸端にいた女たちが振り返る。
鶏小屋の戸を開けていた老人が、耳に手を当てる。
それから、地面が震えた。
最初は、遠い雷のようだった。
だが、空は晴れている。
次に、土が揺れた。
井戸の水面が波打つ。
馬が暴れ出す。
犬が吠えようとして、途中で鳴くのをやめ、腹を地面につけた。
そして、東の森の向こうから、黒いものが見えた。
森の影ではない。
煙でもない。
動いている。
木々の間を、魔物が押し寄せていた。
「門を閉めろ!」
誰かが叫んだ。
だが、リムナ村に門などない。
低い柵と、畑を囲う石垣があるだけだ。
ゴブリンの群れなら、それでも多少は役に立つ。
狼なら火を焚けばよい。
オークが数体なら、冒険者が来るまで納屋に籠もればよい。
だが、これは違った。
森から出てきたのは、群れではなかった。
波だった。
ゴブリンが走る。
その後ろからオークが来る。
さらに後ろから狼型の魔物。
泥を纏った獣。
羽音を立てる虫型。
腐った死体獣。
魔物同士が押し合い、噛み合い、踏み潰し合いながら、それでも村へ向かってくる。
村人たちは逃げた。
荷物を持つ者。
子を抱える者。
老人を置いて走る者。
置いていけず、共に倒れる者。
叫び声は、すぐに魔物の足音に潰された。
鐘楼の少年は、まだ鐘を鳴らしていた。
ごん。
ごん。
ご――
鐘の音が途中で止まった。
飛びかかったゴブリンが、少年の足を掴んだのだ。
少年は縄を握ったまま落ちた。
その上を、後続の魔物が踏み越えた。
鐘楼も、村の家も、畑も、井戸も、すべて黒い波に飲まれていく。
だが、その軍勢の中心にいるものは、村を見ていなかった。
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。
彼は、燃える村を見下ろす丘の上に立っていた。
◇
ガルザヴェインは、まだ王ではなかった。
王冠はない。
玉座もない。
旗もない。
言葉も、まだ不完全だ。
だが、二十万の魔物が彼へ従っている。
従うというより、逆らえない。
ガルザヴェインの体は、通常のゴブリンとは比べものにならないほど大きい。
オークほどの。
長い腕。
岩を掴み砕く指。
灰緑の肌。
骨のように突き出しかけた二本の未成熟な角。
背中からは、黒い魔力が煙のように流れている。
その体は、まだ完成していない。
筋肉のつき方もだ。
骨格も成長途中で、ところどころ不自然に膨らんでいる。
だが、その未完成さこそが、周囲を恐れさせた。
あれで未成熟。
あれでSランク。
ならば、完全に育った時、何になるのか。
その答えを知る者は、まだいない。
「グ……」
ガルザヴェインが喉を鳴らす。
その音だけで、周囲のゴブリンたちが地面に伏せた。
オークが一歩退く。
狼型の魔物は尾を腹の下へ巻き込む。
死体獣ですら、腐った首を低く下げる。
それは統率ではない。
恐怖だ。
ガルザヴェインの内側から漏れるが、魔物の本能を押し潰している。
逆らえば殺される。
近づけば変えられる。
離れようとしても、背中を掴まれる。
そんな圧がある。
丘の下では、魔物たちが村の残骸を漁っていた。
家畜を喰う。
穀物を踏み荒らす。
逃げ遅れた村人を引きずり出す。
ゴブリンが笑い、オークが唸り、狼型魔物が骨を噛み砕く。
だが、ガルザヴェインは何も喰わなかった。
血の匂いにも、肉の匂いにも、興味を示さない。
彼は、もっと遠くを見ていた。
王都。
まだ見えないはずの場所。
だが、彼はそちらを向いていた。
そこに何があるのか、彼自身にも分かっていない。
ただ、強いものがあると感じていた。
多くの命。
厚い壁。
強い人間。
大きな祈り。
そして、自分を完成させる何か。
ガルザヴェインは、まだ空腹だった。
腹が空いているのではない。
存在そのものが、満たされていない。
もっと強い敵。
もっと大きな群れ。
もっと深い戦い。
それを求めていた。
「ツヨイ……」
彼は、まだ不器用な人間の言葉を吐いた。
周囲の魔物たちが怯える。
言葉を喋るゴブリン。
それだけなら、上位種には稀にいる。
だが、ガルザヴェインの言葉は違った。
覚えた言葉ではない。
奪った音でもない。
自分の内側で、意味を組み始めている。
「モット……ツヨイ……」
彼は王都の方角を見た。
まだ見ぬ敵を求めて。
◇
軍勢の中には、ゴブリンが多かった。
棍棒を持つ小鬼。
弓を持つ小鬼。
盾を拾った小鬼。
呪術の真似事をする小鬼。
粗末な革鎧をまとった小鬼。
彼らは、本来なら弱い。
野犬にも殺される。
農民のでも倒される。
冒険者にとっては雑魚と呼ばれる存在だ。
だが、今は違った。
ガルザヴェインの近くにいるだけで、ゴブリンたちは変わっていく。
牙が伸びる。
背が伸びる。
筋肉が膨らむ。
目が金色に濁る。
黒い魔力の筋が、皮膚の下を走る。
それは祝福ではない。
暴力的な進化だった。
一体の老ゴブリンが、ガルザヴェインの足元に這い寄った。
背は曲がり、片目は潰れ、牙も欠けている。
戦場なら真っ先に死ぬような個体だ。
だが、老ゴブリンは震えながらガルザヴェインを見上げた。
「ギ……ギギ……」
その声には、恐怖と崇拝が混じっていた。
ガルザヴェインは、老ゴブリンを見下ろす。
そして、何の感情も見せずに手を伸ばした。
大きな手が、老ゴブリンの頭へ置かれる。
次の瞬間、老ゴブリンの背骨が鳴った。
ばきり。
ばき、ばきり。
骨が伸びる。
筋肉が膨れ上がる。
欠けた牙が抜け落ち、新しい牙が生える。
潰れた片目が黒く焼け、金色の光を帯びる。
老ゴブリンは悲鳴を上げた。
だが、逃げられない。
痛みの中で、体が作り替えられていく。
弱かった小鬼が、上位ゴブリンへ変わる。
無理やり。
命を削りながら。
進化というより、暴発だ。
やがて、老ゴブリンだったものは膝をついた。
体は若返ったように太くなり、爪は長く、背には黒い筋が走っている。
周囲のゴブリンたちが、恐怖で伏せた。
ガルザヴェインは、その上位ゴブリンを見て、興味を失ったように視線を外した。
成功か失敗かなど、彼にとってはどうでもよかった。
近くにいるものは変わる。
耐えられなければ死ぬ。
耐えれば使える。
それだけだ。
魔神ゴブリン・ガルザヴェイン。
彼はまだ王ではない。
だが、ゴブリン種そのものを引き上げる何かを持っていた。
◇
魔物の軍勢の外縁では、人間の偵察が動いていた。
王都から派遣された二人の冒険者。
一人はCランク斥候。
もう一人はBランク弓手。
彼らは、村の廃墟近くの丘陰に伏せていた。
息を殺し、泥を体に塗り、魔物の風下を取っている。
Cランク斥候の男が震える声で言った。
「多すぎる」
Bランク弓手は、矢を番えず、ただ見ていた。
「数えるな。気が狂う」
「でも報告を」
「見たまま言えばいい。地平線全部だと」
「信じてもらえますか」
「信じるしかない」
二人は、ガルザヴェインを見た。
丘の上に立つ灰緑の巨体。
周囲の魔物が、明らかに彼を避けている。
魔物の波の中にあって、そこだけ空白がある。
それだけで分かる。
あれが中心だ。
あれが、この地獄の核だ。
「……撃てますか」
斥候が聞いた。
弓手は首を横に振る。
「届くが、殺せない」
「目なら」
「あれは、撃たせる距離に立っていない」
「でも」
「撃てば、こっちを見る」
弓手の声には、確信があった。
そして、恐怖もあった。
「見られたら死ぬ」
その時、ガルザヴェインが少しだけ首を動かした。
二人は凍りついた。
見られた。
そう思った。
距離はある。
風下も取っている。
泥も塗っている。
なのに、ガルザヴェインの金色の目が、こちらへ向いた気がした。
Cランク斥候は息を止めた。
Bランク弓手も動かない。
ガルザヴェインは、しばらくその方向を見ていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「ミテル」
斥候の背筋が凍る。
その言葉が、自分たちへ向けられたものだと分かった。
次の瞬間、ガルザヴェインの指先に黒い魔力が集まる。
弓手が叫んだ。
「逃げろ!」
黒い矢が放たれた。
音はない。
だが、空気が裂けた。
斥候は転がるように避けた。
弓手は斥候を押し飛ばした。
黒い矢が、弓手の左肩から胸を貫く。
肉が弾け、岩が砕け、背後の木々がまとめて折れた。
弓手は即死だった。
斥候は叫び声を上げそうになったが、自分の口を押さえた。
泣きながら、這って逃げる。
後ろを振り返らない。
振り返れば、また見られる気がしたからだ。
ガルザヴェインは追わなかった。
逃げる者を見逃したのではない。
逃げさせた。
伝えさせるために。
「ツヨイノ……コイ」
ガルザヴェインは、まだ見えない王都へ向かって呟いた。
強いものを求めている。
その声に応えるように、魔物の軍勢が動き出した。
◇
夕方、魔物の軍勢は再び進軍を始めた。
リムナ村だった場所には、ほとんど何も残っていない。
折れた鐘楼。
焼けた家。
ひび割れた井戸。
踏み荒らされた畑。
散らばった生活の残骸。
その中で、銅鐘だけが地面に転がっていた。
少年が鳴らしていた鐘だ。
ガルザヴェインは、その横を通り過ぎようとして、足を止めた。
鐘を見る。
意味は分からない。
だが、それが人間を集める音だったことを、どこかで理解していた。
彼は、鐘を拾った。
重い銅鐘が、彼の手の中では小さな器のように見える。
ガルザヴェインはそれを軽く叩いた。
ごん。
鈍い音が鳴る。
周囲のゴブリンたちが一斉に伏せた。
ガルザヴェインは、その反応を見た。
そして、もう一度叩く。
ごん。
魔物の群れが動きを止める。
三度目。
ごん。
群れが進み始める。
命令の音。
号令の音。
ガルザヴェインは、鐘の意味を覚えた。
その鐘を、彼は腰に吊るした。
村の警鐘だったものは、魔物の進軍を告げる鐘になった。
「……ススメ」
ガルザヴェインが言った。
魔物の軍勢が、王都へ向かって再び動き出す。
二十万の黒い波。
その中心で、未成熟の魔神ゴブリンが、ひとつ言葉を覚えた。
進め。
その言葉は、王都にとって最悪の意味を持っていた。