余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
蒼穹のが退いた。
その事実は、号令よりも早く戦場を走った。
誰かが伝令を飛ばしたわけではない。
旗が折れたわけでもない。
太鼓が撤退を告げたわけでもない。
ただ、見えてしまったのだ。
青い剣を持つはずのイグナスが、血まみれで引きずられていく姿が。
のドルガが、砕けた盾ごと担がれている姿が。
セネリアが、意識を失ったまま運ばれていく姿が。
雷炎術師ラティカの炎が、消えかけの灯のように揺れている姿が。
影弓のユードの左腕が、肩から失われている姿が。
Sランクが負けた。
誰かが、そう言ったわけではない。
だが、全員がそう理解した。
「違う」
槍兵の一人が呟いた。
「一度下がっただけだ」
隣の兵も、震える声で頷いた。
「ああ。立て直すんだ。Sランクだぞ。あの人たちが負けるわけが――」
その言葉は、途中で途切れた。
遠くで銅鐘が鳴ったからだ。
ごん。
リムナ村から奪われた鐘。
魔神ゴブリン・ガルザヴェインが鳴らす、魔物の進軍鐘。
その音が戦場を叩いた瞬間、黒い波が再び動いた。
ゴブリンが前へ出る。
オークが槍列へ突っ込む。
狼型魔物が、倒れた兵の足に食らいつく。
飛行種が弩砲陣地へ落ちる。
死体獣が燃えながら這う。
Sランクが敗れたことを、人間よりも早く魔物の軍勢が理解したようだった。
◇
第一防衛線は、もう線ではなくなりかけていた。
土塁は踏み崩されている。
は折れ、いくつかは魔物の死体ごと押し倒されている。
は半数近くが壊れ、残ったものも射角を取れずに呻いていた。
魔術師団の火球陣は何度も撃たれ、地面に刻まれた術式線は泥と血でかすれている。
神殿兵の浄化布は、死体獣の腐汁で黒く汚れていた。
それでも、人間たちは立っていた。
騎士団の槍が、魔物の胸を貫く。
冒険者の剣が、ゴブリンの首を落とす。
傭兵が、罵声を吐きながらオークの膝を斬る。
魔術師が、最後の魔力石を砕いて雷撃を放つ。
神官が、喉を枯らしながら負傷者へ祈りを重ねる。
だが、足りない。
倒しても、後ろから来る。
焼いても、踏み越えて来る。
槍で刺しても、その魔物の死体ごと次の魔物が押してくる。
「中央、押されている!」
「後列、前へ!」
「弩砲、まだ撃てるか!」
「二号、沈黙! 三号、弦が切れました!」
「魔術師団、右翼へ火を回せ!」
「魔力石が足りません!」
「足りなくても撃て!」
命令が飛び交う。
だが、命令は現実を越えられない。
兵は疲れていた。
冒険者は傷ついていた。
傭兵は何度も逃げるか迷い、そのたびに目の前の魔物を斬っていた。
神殿兵は、死者へ祈る暇もなく次の負傷者へ布を巻いていた。
騎士団総長ヴァルデンは、馬上で剣を振り上げる。
「下がるな! まだ下がる時ではない!」
だが、その声にも限界があった。
戦線のあちこちで、ひびが広がっている。
人間の線は、布のようだった。
裂けたところを縫う。
また裂ける。
また縫う。
それを繰り返しているうちに、布そのものが薄くなっていく。
◇
都市警備兵のエランは、もう自分が何度目の槍を握っているのか分からなかった。
最初の槍は折れた。
二本目はオークの腹に刺さったまま抜けなくなった。
三本目は狼型魔物に噛み砕かれた。
今持っている短槍は、誰かの落としたものだ。
手は滑る。
血で。
泥で。
汗で。
そして、震えで。
「エラン!」
先輩兵ラウドの声がした。
エランは反射的にしゃがむ。
頭上を、オークの棍棒が唸って通り過ぎた。
ラウドが横から踏み込み、剣でオークの膝裏を斬る。
オークが崩れる。
「喉!」
エランは短槍を突き込んだ。
手応えがあった。
オークの喉から血が噴く。
倒れる。
エランは息を吐きかけた。
その瞬間、死体の影からゴブリンが飛び出した。
小さい。
だが、目が金色に濁っている。
普通のゴブリンではない。
進化しかけている。
「っ!」
エランは槍を戻せない。
ゴブリンの錆びた短剣が、彼の腹へ向かう。
ラウドが割り込んだ。
短剣が、ラウドの脇腹に刺さる。
「ラウドさん!」
「叫ぶな、刺せ!」
エランは叫びながら、ゴブリンの顔へ拳を叩きつけた。
ゴブリンがよろける。
ラウドが剣を振り下ろし、その頭を割った。
二人とも、その場に膝をつく。
ラウドの脇腹から血が流れている。
「担架!」
エランが叫ぶ。
後方から、Dランク冒険者の青年が走ってきた。
前線に出たいと暴れていた青年だ。
今は担架を背負い、顔を涙と泥でぐしゃぐしゃにしている。
「乗せて!」
ラウドは笑おうとした。
「俺はまだ――」
「乗れ!」
エランが怒鳴った。
ラウドは少し驚いた顔をした。
それから、苦笑する。
「……偉くなったな」
「黙って乗ってください!」
担架に乗せられる直前、ラウドはエランの胸を掴んだ。
「前だけ見るな」
「……はい」
「後ろを忘れるな」
「はい」
担架がラウドを運んでいく。
エランは振り返らなかった。
振り返れば、自分も後ろへ行きたくなる。
だから、前を見る。
そして、思い出す。
後ろに王都があることを。
◇
右翼では、飛行種の群れが弩砲陣地へ降り注いでいた。
弩砲は強い。
だが、近づかれると脆い。
飛行種はそれを知っているかのように、弩兵や操作兵へ狙いを絞っていた。
「上だ!」
「撃ち落とせ!」
「四号機、狙えない!」
「弦を切られた!」
一体の飛行魔物が、弩砲の台座へ爪を立てる。
木が裂け、車輪が外れる。
操作兵が悲鳴を上げる。
別の飛行種が、その首へ噛みついた。
血が噴く。
その場へ、Bランク冒険者の一団が飛び込む。
女剣士が跳び、飛行種の翼を斬り落とした。
槍使いが、落ちた魔物を地面へ縫い止める。
魔術師が、火の網を広げる。
「修理しろ!」
女剣士が叫んだ。
「無理だ、部品が!」
「隣の壊れたやつから取れ!」
「時間が!」
「稼いでるだろ!」
女剣士は笑っていない。
額から血を流しながら、飛行種をもう一体斬る。
魔術師の火が空を焼く。
それでも、飛行種は減らない。
ひとつ落とせば、次が来る。
空まで黒い波に変わっているようだった。
◇
左翼では、傭兵部隊が崩れかけていた。
彼らは強い。
個人個人は、そこらの兵よりずっと戦える。
だが、魔物の波は、個人の強さだけで支えられるものではなかった。
オークの集団が正面から来る。
傭兵がそれを受ける。
その隙間を、進化しかけのゴブリンが抜ける。
足を刺す。
背中へ回る。
倒れた者の喉を切る。
傭兵たちは怒鳴り、蹴り、斬る。
だが、列が乱れる。
「寄れ! 寄れって言ってるだろ!」
「こいつら、下を抜けてくる!」
「盾を下げろ!」
「下げたらオークを受けられねえ!」
そこへ、神殿兵の白い旗が入った。
死体魔物対策に配置されていたはずの神殿兵が、左翼の穴を塞ぐために前へ出たのだ。
先頭の神殿騎士が白い槌を掲げる。
「!」
白い光が地面を走る。
死体獣が焼ける。
ゴブリンが目を押さえる。
オークの足が一瞬止まる。
「今だ!」
傭兵隊長が叫ぶ。
「神殿の連中が前に出てるぞ! 金で雇われた俺らが先に逃げるな!」
「うるせえ!」
「誰が逃げるか!」
「倍額払えよ!」
傭兵たちは怒鳴り返しながら、踏みとどまった。
誇りではない。
信仰でもない。
金と意地と、隣の人間に逃げたと思われたくないという安い感情。
それでも、戦場では十分だった。
◇
中央の後方へ、蒼穹の楔が運び込まれた時、医療陣地は一瞬静まった。
それほどの衝撃だった。
イグナスの青い剣は折れていた。
腹部の鎧は砕け、血が止まらない。
ドルガは両足と胸部を重く損傷し、巨槍盾は原形を留めていない。
セネリアは意識を失い、唇からまだ血が流れている。
ラティカの杖は焦げ、彼女の腕は黒い魔力に焼かれていた。
ユードは左腕を失い、片手でイグナスの襟を握ったまま倒れ込んだ。
「治療を!」
神官たちが駆け寄る。
セネリアへ。
イグナスへ。
ドルガへ。
誰を優先するか、一瞬で判断しなければならない。
ラティカが怒鳴った。
「セネリアを先に!」
「あなたも」
「私は後!」
ユードは地面に座り込み、右手だけで止血布を結び直していた。
ギルド本部長エルナンドが駆け寄る。
「ユード」
「第二案を」
ユードは、顔を上げずに言った。
「今すぐです」
「……そこまでか」
「勝てません」
その言葉に、周囲の神官たちの手が一瞬止まった。
ユードは、血の気のない顔で続ける。
「傷は負わせた。首も裂いた。胸も焼いた。肩も膝も削った。でも倒れない。しかも戦いながら覚える。鐘で軍勢を動かし始めた。次はもっと上手くやる」
エルナンドの顔が硬くなる。
「イグナスは」
「意識が戻れば同じことを言う」
ユードは東を見た。
戦場の黒煙の向こうで、まだ銅鐘が鳴っている。
「このまま正面で受ければ、連合軍が溶けます」
◇
夕暮れが近づく頃、騎士団総長ヴァルデンは決断した。
「第一線を放棄する」
副官が息を呑む。
「まだ持っています!」
「持っているうちに下がる」
「ですが」
「崩れてからでは退けん!」
ヴァルデンは馬上で剣を掲げた。
「撤退信号! 第二防衛線へ後退! 前列は交代しながら下がれ! 負傷者を置くな、だが死者は置け!」
死者は置け。
その命令が、兵たちの胸を刺した。
だが、それが現実だった。
死体を運ぶ余裕はない。
生きている者を運ぶだけで精一杯だ。
太鼓が鳴る。
撤退の太鼓。
それを聞いた瞬間、兵士たちの中に別の恐怖が走った。
下がる。
つまり、ここは持たなかった。
第一防衛線は破られた。
誰もそう口にはしない。
だが、太鼓がそう告げている。
「走るな!」
「背中を見せるな!」
「盾を構えたまま下がれ!」
「負傷者を中央へ!」
「魔術師、煙幕!」
「弩砲を捨てるな! 引けるものだけ引け!」
撤退は、突撃より難しい。
前を向いたまま下がる。
仲間を担ぎながら下がる。
魔物を斬りながら下がる。
死体を踏まないように、でも死体を拾わずに下がる。
それは、人間の心を削る行為だった。
「兄さんが!」
若い兵が叫び、死体の方へ戻ろうとした。
隣の騎士が、その襟を掴む。
「死んでいる!」
「でも!」
「戻れば、お前も死ぬ!」
「離せ!」
騎士は若い兵を殴った。
殴って、引きずった。
泣きながら。
その死体を置いていくことが、騎士自身にも痛かったからだ。
冒険者たちは、死んだ仲間の認識票だけを引きちぎる。
傭兵は、死んだ仲間の財布を抜く。
神殿兵は祈る時間もなく、死者の目だけを閉じる。
黒い波は、それらすべてを踏み潰すように迫っていた。
◇
撤退する連合軍の背に、魔物が食らいつく。
だが、追撃は雑ではなかった。
ガルザヴェインの鐘が鳴るたびに、魔物の動きが変わる。
ごん。
ゴブリンの群れが左右へ広がる。
ごん。
オークが中央を押す。
ごん。
飛行種が負傷者搬送路を狙う。
それはまだ荒い。
指揮と呼ぶには未熟だ。
だが、明らかに学んでいた。
最初はただの黒い波だった魔物の軍勢が、少しずつ形を持ち始めている。
ユードの言葉は正しかった。
ガルザヴェインは、戦いながら軍勢を覚えている。
第二防衛線へ下がる頃、連合軍はその事実に気づき始めていた。
そして、気づいた時には遅い。
第一防衛線はもう戻らない。
◇
夜。
第二防衛線の野営地は、敗北の匂いで満ちていた。
血。
泥。
焼けた革。
祈祷薬。
死体を焼く煙。
焦げた魔物の肉。
負傷者のうめき。
誰かの泣き声。
遠くで鳴る銅鐘。
ごん。
ごん。
あの音が聞こえるたび、野営地の人々は肩を震わせた。
魔物はまだ遠くにいる。
だが、音は届く。
まるで、ガルザヴェインが「まだ終わっていない」と告げているようだった。
本営では、軍務卿オルドが地図を見つめていた。
顔は憔悴している。
だが、まだ崩れてはいない。
彼の前には、報告が積まれている。
第一防衛線、放棄。
死傷者、多数。
弩砲損耗、大。
魔力石、残量不足。
蒼穹の楔、戦闘継続困難。
魔物残数、推定十数万以上。
ガルザヴェイン、健在。
どれも悪い。
どれも、最悪に近い。
そこへ、ギルド本部長エルナンドが入ってきた。
その後ろに、ユードがいた。
片腕を失い、顔色は青白い。
それでも、彼は自分の足で立っている。
「座れ」
軍務卿が言った。
ユードは首を振る。
「時間がありません」
「傷は」
「腕一本です」
「腕一本、と言える怪我ではない」
「でも、頭は残っています」
ユードは地図へ近づいた。
右手だけで、東方地図を押さえる。
「第二線は持ちません」
軍務卿は、すぐには反論しなかった。
反論できなかった。
「ガルザヴェインは、戦いながら軍勢の動かし方を覚えています。次は第一線より上手く来る。こちらは消耗している。蒼穹の楔も、もう前へ出せない」
「では、王都外壁で受けるか」
「外壁まで来た時点で、終わりです」
ユードは言い切った。
「二十万から削ったとはいえ、まだ十数万以上いる。外壁へ張りつかれれば、王都は呼吸できなくなる。飛行種、死体獣、虫型、ゴブリンの進化個体。中へ入られる」
軍務卿は、地図を睨む。
「では、どうする」
ユードの指が、地図の南東へ動いた。
王都から少し離れた森。
白い霧が出る場所。
地図上には、いくつかの名前が並んでいる。
灰白庭。
白箱迷宮。
銀刻帰らず。
ギルド内部の仮称として、小さくこう書かれている。
白庭化した旧迷靄洞。
正式な分類名は、人間側ではまだ安定していない。
だが、その危険だけは知られていた。
「流すしかありません」
ユードが言った。
軍務卿は、彼の指先を見た。
「そこへ?」
「はい」
「迷宮へ、魔物の軍勢を押し込むというのか」
「正面から受ければ、王都が死にます。なら、別の腹へ押し込む」
部屋の空気が重くなる。
騎士団総長ヴァルデンが、低く言った。
「あそこはAランク相当の変異迷宮だ。銀刻も暁秤も帰らなかった。黒市主絡みの噂もある」
「だからです」
ユードは疲れた目で答えた。
「低い迷宮なら、魔物の群れに踏み潰される。でも灰白庭なら、喰えるかもしれない」
「喰ったらどうなる」
軍務卿が問う。
「迷宮が強くなります」
エルナンドが静かに答えた。
「それは間違いないでしょう」
「なら、我々は王都を救うために、別の怪物を育てるのか」
「そうです」
あまりにも酷い答えだった。
だが、誰も笑わなかった。
笑えなかった。
ユードは言った。
「今、選べるのは二つです」
彼の指が、王都を指す。
「王都で受けて、今死ぬか」
次に、灰白庭を指す。
「灰白庭へ流して、後で別の怪物に怯えるか」
本営の外で、負傷者がうめいている。
遠くで、銅鐘が鳴る。
ごん。
軍務卿は、ゆっくり目を閉じた。
そして、開いた。
「後で怯える方を選ぶ」
その言葉は、王国軍務卿としての言葉ではなく、一人の疲れた人間の声に聞こえた。
「王都を、今は生かす」
エルナンドが頷いた。
「では、進路誘導案を組みます」
ヴァルデンが言う。
「できるのか」
ユードは、片腕で地図を押さえたまま答えた。
「やるしかありません」
その夜、人間たちは決めた。
魔物の軍勢を、灰白庭へ流す。
王都を救うために。
別の恐怖へ、黒い波を押し付けるために。