余、ダンジョンコアにつき侵入者には死んでもらう。 ~ゴブリン二十匹から始める最弱迷宮譚~
カルムの死は、白い霧の中に残らなかった。
血の跡も、引きずられた跡も、叫びの残響も、すぐに薄くなった。
床に落ちた血は、戻り水に吸われた。
が這った跡は、灰霧が撫でるように隠した。
腹を貫いた骨槍は、床下へ戻った。
まるで、最初からそこには誰もいなかったように。
だが、人間たちの中には残った。
記録士カルムの名。
兄の声で呼ばれたこと。
一歩だけ踏み出したこと。
手が届きかけたこと。
そして、記録板だけが戻ってきたこと。
査定官マルク・ゼノは、血で濡れた記録板を革袋に収めた。
その動きは丁寧だった。
だが、指は震えていた。
「次の異常を確認したら撤退する」
アレク・ヴァイスが言った。
白銀の剣は、まだ抜かれたままだ。
「そう約束した」
「はい」
マルクは頷いた。
「ですが、今の時点で戻っても、再査定には足りません」
リーゼが顔を上げる。
目元は赤い。
「カルムが死んだんですよ」
「分かっています」
「分かっているなら――」
「だからです」
マルクの声は、静かだった。
静かすぎて、かえって痛かった。
「彼が命をかけて残した記録を、未完のまま持ち帰ることはできません」
オルフェンが、短い祈りを終えて目を開けた。
「マルク殿。記録は大切です。しかし、生きて戻らねば記録は届きません」
「承知しています」
マルクは、白い霧の奥を見た。
「次の異常を確認します。それで撤退判断を確定します」
リンドが低く言った。
「その“次”を向こうが選んでくる」
誰も反論しなかった。
この迷宮は見ている。
カルムの最期が、それを証明していた。
ただ罠を置いて待つ迷宮ではない。
人を見て、反応を見て、声を使い、記憶を刺してくる。
アレクは、仲間と調査隊を見渡した。
「隊列を組み直す」
その声で、全員が動いた。
鋼旗の四剣は、調査隊の近くへ寄る。
暁鴉の弦は、やや左後方へ回る。
ネイザは弓を構えたまま、一度も白い霧から目を離さない。
ベルグは双斧を握り、唇を噛みしめていた。
サラナは、光砂の筒を二本取り出している。
トーマは薬瓶の残数を確認しながら、誰にともなく言った。
「声は全部疑え。自分の名前を呼ばれても反応するな。死んだ奴の声なら、なおさらだ」
リーゼが小さく震えた。
オルフェンが彼女の肩に手を置く。
「耳より、合図を信じましょう」
リンドが、指で三つの符号を示した。
「撤退、集合、停止。声は使わない。霧の中で声がずれるなら、手符号と糸の振動だけだ」
アレクは頷く。
「進む。だが、これ以上異常が出た時点で撤退する」
ネイザが、霧の奥を見たまま言った。
「撤退路が残っていればな」
◇
十二人だった隊列は、十一人になった。
その事実は、歩くたびに重くなる。
カルムがいた場所には空白がある。
記録を取る音が減った。
防水紙に筆が走る、かすかな音が消えた。
代わりに、マルクが自分で記録を始めた。
片手に測定板。
片手に記録板。
本来なら、査定官が戦場で自ら筆を取るのは危険だ。
だが、カルムはいない。
記録を止めるわけにはいかない。
リーゼの魔力盤が、小さく鳴った。
「帰路糸の反応が……変です」
リンドが足を止める。
「どれだ」
「最初に張った三本のうち、二本が消えています。一本は残っているはずなのに、方向が逆に出ています」
「逆?」
リンドは糸を引いた。
指先に伝わる振動。
本来なら、外へ向かうはずの糸。
だが、振動は奥から返ってくる。
外へ伸ばした糸が、奥へ繋がっている。
「……やられた」
リンドの声が低くなる。
「糸を切ったんじゃない。繋ぎ替えられた」
マルクが記録する。
⸻
帰路糸、二本消失。
一本は方向反転。
迷宮による経路改変、または感覚誘導の可能性。
帰路の信頼性、低下。
⸻
アレクが言う。
「戻れるか」
リンドは即答しなかった。
それが答えのようなものだった。
「今なら、たぶん戻れる。ただし、俺の糸はもう信用できない。霧の流れと床の湿り、壁の傷で辿る」
「時間は?」
「かかる」
ネイザが言った。
「その時間を、迷宮がくれると思うか」
答えは、霧の奥から来た。
ふぁさ。
羽音。
柔らかく、薄く、だが耳に残る音。
サラナが即座に光砂を撒く。
金色の砂が霧に広がる。
しかし、その光は途中で鈍った。
灰色に濁り、粒の一つ一つが重く落ちる。
「また霧が光を食ってる」
「本体は見えるか」
ネイザが問う。
サラナは目を細めた。
「見えない。でも、流れは上。霧を操ってる何かがいる」
トーマが薬瓶を手にした。
「蛾か。外縁で報告されてたやつかもしれない」
ふぁさ。
羽音がまた鳴る。
今度は右。
次は左。
さらに背後。
音の位置が変わる。
いや、音だけではない。
霧の流れそのものが、隊列を撫でるように回り始めた。
アレクが手符号を出す。
停止。
全員が止まる。
その瞬間、白い霧が濃くなった。
アレクとガルドス、エリシア、リンド。
調査隊三人。
暁鴉の弦四人。
その間に、薄い白壁が下りる。
視界が切れる。
「分断!」
リンドが叫ぶ。
声を使うなと決めた直後だった。
それでも、叫ばざるを得ないほど速かった。
ガルドスが盾を打ち鳴らす。
集合の合図。
だが、返ってきた音が二重になる。
ひとつは本物。
もうひとつは、半拍遅れた偽物。
「音もずらしてる!」
エリシアが氷の線を床へ走らせる。
霧の壁を凍らせ、形を固定しようとした。
だが、霧が凍る直前に薄く割れ、氷は空を掴んだ。
フィルエの森灰術ではない。
ハイハネの霧導きだ。
霧が、凍らされる場所を避けた。
「賢い霧ね」
エリシアが歯を食いしばる。
「ただの自然現象じゃない」
◇
暁鴉の弦は、白い霧の向こう側に切り離されていた。
ネイザはすぐに弓を構え、三本の矢を霧へ撃ち込んだ。
矢には細い黒糸が結ばれている。
仲間側へ繋げるための糸だ。
だが、矢は途中で失速した。
霧が重い。
白灰の粉が矢羽にまとわりつき、軌道を落とした。
「通らない」
サラナが前へ出る。
「私が開ける」
彼女は光砂の筒を三本同時に抜いた。
金色の砂が手のひらから溢れる。
「光砂術・明け」
砂が一筋の光路を作る。
白い霧の中に、細い黄金の道が伸びた。
それは視界を開く術ではない。
進むべき方向に光を通す術。
霧や闇の中で、仲間に位置を知らせるための道標。
白い霧が、その光を食おうとする。
だが、サラナは歯を食いしばり、さらに砂を流す。
「食わせない……!」
金の光が、霧の中で震えながら進んだ。
向こう側に、ぼんやりとガルドスの盾が見える。
「繋がった!」
ベルグが叫ぶ。
その瞬間、影が動いた。
光路ができたことで、影もできた。
白い霧の中で、金の砂が作った細い光。
その下に生まれた、細い影。
影軍縫いカゲヌイが、そこへ針を落とした。
サラナの足元の影が、床へ縫われる。
「っ!」
サラナの光砂が一瞬乱れる。
霧が一気に食い込む。
ネイザが矢を放つ。
影針を撃ち落とす。
一本。
二本。
三本。
「多い!」
ネイザが叫ぶ。
影針は一本ではない。
光路の影そのものに沿って、次々と針が生えてくる。
光を伸ばせば、影も伸びる。
影を伸ばせば、カゲヌイが縫う。
「サラナ、切れ!」
トーマが叫ぶ。
「今切ったら、向こうと繋がらない!」
「死ぬぞ!」
「だから繋げるの!」
サラナは光砂をさらに強めた。
彼女は理解していた。
今ここで光路を切れば、暁鴉は助かるかもしれない。
だが、調査隊と鋼旗の位置を見失う。
そして、この迷宮で位置を見失えば、帰路を失う。
なら、つなぐしかない。
たとえ、自分が狙われるとしても。
ベルグが前へ出る。
「影なら床ごと割る!」
双斧を床へ叩きつける。
白磁床に亀裂が走り、影針の一部が弾け飛ぶ。
トーマが薬瓶を割る。
影を薄くする発光薬。
足元に白い光が広がり、サラナの影が一瞬だけ弱くなる。
ネイザが、霧の上方へ矢を放った。
矢が何かをかすめる。
ふぁさ、と羽音。
「蛾がいる。上、かなり奥」
「見える?」
「まだ無理だ」
その間にも、サラナの足元に影針が戻ってくる。
光路は繋がりかけていた。
向こう側で、アレクがこちらを見た。
ガルドスが盾を構え、霧の壁を押し開こうとしている。
もう少し。
もう少しで、隊列が繋がる。
その時、サラナの肩に白灰の粉が落ちた。
ハイハネの追跡粉。
霧の中で、サラナの輪郭だけが淡く光る。
「しまっ――」
ネイザが即座に矢を構える。
だが、狙うべきものが多すぎた。
影針。
霧。
羽音。
光路。
そして、床下から伸びる骨槍。
サラナは光路を切らなかった。
最後まで維持した。
「行って!」
彼女が叫ぶ。
その声は、霧越しにアレクたちへ届いた。
金の光路が、ついに二つの隊列を繋いだ。
だが、同時に、影針が彼女の足を完全に縫い止める。
床下から湿骨軍列の槍が伸びた。
一本目をベルグが斧で砕く。
二本目をネイザが射抜く。
三本目をトーマが薬瓶で溶かす。
四本目が、サラナの胸を貫いた。
彼女の光砂が、霧の中へ散った。
金色の粒が、白い霧に飲まれていく。
「サラナ!」
ベルグの叫びが、霧を震わせた。
サラナは、血を吐きながらも手を下げなかった。
光路は、まだわずかに残っている。
「……見え、るうちに……」
そこまで言って、彼女の体は崩れた。
《Aランク光砂術師サラナ、死亡》
《獲得ソウル:1,340》
◇
白い部屋で、余はサラナの死を見ていた。
「……粘ったな」
《光路維持により、分断の完全化に失敗》
「失敗ではない」
余は言った。
「一人殺した。霧の中で光を使う術師を落とした。十分だ」
だが、あの女はただ死んだのではない。
道を繋いだ。
仲間と調査隊を完全に切り離すことはできなかった。
Aランク。
やはり強い。
ただ殺されるだけではない。
死ぬ時に役割を果たす。
それが面倒で、だからこそ価値がある。
フィルエが言った。
「ロード、ベルグが怒ってる」
「見えている」
ベルグの魔力が、霧の向こうで荒れている。
サラナを失った怒り。
それが双斧へ流れ込んでいる。
「今すぐ殺すか」
《可能です》
「いや、まだだ」
余は、霧の中の人間たちを見る。
彼らはサラナの光路を使って再合流しようとしている。
完全には離せなかった。
なら、次は帰路を奪う。
分断の目的は殺すことだけではない。
戻れないと知らせることだ。
「軍帰路喰らい」
《展開中》
「まだ姿は見せるな。まず、戻り道を喰え」
《実行》
◇
サラナの残した光路は、短かった。
しかし、それでも十分だった。
アレクたちはその道を頼りに、暁鴉の弦へ近づく。
ベルグはサラナの体を抱えようとした。
ネイザが止める。
「置け」
「ふざけるな」
「持っていけない」
「置いていけるか!」
ベルグの双斧が震える。
トーマが、低く言った。
「ベルグ。サラナが最後に何と言ったか、聞いてただろ」
ベルグは歯を食いしばる。
行って。
見えるうちに。
彼女はそう言った。
自分を運べとは言わなかった。
ベルグは、サラナの光砂筒を一つだけ取った。
血に濡れた小さな筒。
それを腰に差す。
「後で取りに来る」
ネイザは否定しなかった。
だが、全員が分かっていた。
この迷宮で、後で取りに来るという言葉ほど虚しいものはない。
アレクたちが合流する。
調査隊三人も、息を切らしていた。
リーゼはサラナの死体を見て顔を青くする。
マルクは何かを言おうとしたが、言葉が出なかった。
オルフェンが短く祈る。
長い祈りはできない。
この迷宮は、死者に長い別れを許さない。
アレクは、サラナの死体を見てからネイザを見た。
「撤退する」
ネイザは頷いた。
「異論はない」
マルクも、今度は反論しなかった。
「記録は十分です。少なくとも、Aランクのままと断じることはできません」
「なら戻る」
リンドが帰路糸を確認する。
その顔が、さらに険しくなった。
「……ない」
ガルドスが聞く。
「何がだ」
「帰路がない」
ベルグが怒鳴る。
「ふざけんな。さっきまで来た道があるだろうが!」
「見える道はある」
リンドは、霧の奥を見た。
「だが、戻る道じゃない」
リーゼが魔力盤を見た。
盤面の針がぐるぐると回っている。
「方向が……定まりません。入口側の魔力反応が、複数に分かれている。いえ、全部入口に見える……」
オルフェンの祈祷布が、勝手に一方向へ引かれる。
彼は顔をしかめた。
「死者の流れも同じです。外へ向かっていない。迷宮の中を回っています」
ネイザが弓を構えたまま言う。
「帰路を喰われたか」
その言葉に、空気が凍った。
帰路喰らい。
噂としては知っていた。
戻れなくなる。
出口がずれる。
帰ろうとするほど奥へ行く。
だが、それは噂だった。
今、その噂が現実として目の前にある。
アレクは、ゆっくり息を吐いた。
「落ち着け」
彼自身も、落ち着いているわけではない。
だが、隊長として言う。
「道が見えないなら、作る。リンド、壁と床の物理痕跡で逆算できるか」
「時間が要る」
「どれくらい」
「霧が何もしなければ、半刻」
トーマが苦く笑う。
「してくれると思うか?」
答える者はいない。
ネイザが言った。
「高所が欲しい。視界がなくても、空間の広がりが分かる場所」
エリシアが杖を握る。
「氷柱を立てれば、少し上がれる」
「立てた瞬間に狙われる」
リンドが言う。
「でも、他にない」
アレクは判断した。
「やる。ガルドス、盾。ベルグ、正面。ネイザ、上方警戒。トーマ、霧対策。エリシア、氷柱。リンド、帰路解析。調査隊は中央で記録をまとめろ」
全員が動く。
サラナを失っても、動く。
それがAランクだった。
エリシアが氷柱を立てる。
白い床から、透明な氷が伸びる。
ネイザがその上へ跳び上がる。
霧の上へ、ほんの少しだけ顔を出す。
彼は一瞬で周囲を見た。
白い霧の海。
骨の流れ。
曲がる通路。
そして、遠くに見えるはずの入口の気配が、三つ。
四つ。
いや、七つ。
「入口が増えている」
ネイザが言った。
その声は、珍しく硬かった。
「全部、偽物か?」
「分からない。だが、本物がどれか分からない」
その瞬間、氷柱の影が動いた。
カゲヌイではない。
もっと重い影。
灰白の鎧を着た落武者が、霧の向こうに立っていた。
軍帰路喰らいの落武者。
まだ遠い。
だが、刃を抜いている。
ネイザが弓を構える。
「出たぞ」
アレクが剣を構える。
「全員、陣形」
落武者は動かない。
ただ、刃を横へ振った。
斬ったのは人ではない。
道だった。
リーゼの魔力盤の針が、一斉に折れた。
「入口反応、消失!」
リンドの帰路糸が、手元で灰になった。
オルフェンの祈祷布が、力を失って垂れた。
全員が理解した。
帰路は、今、完全に喰われた。
マルクが、震える手で記録板に書いた。
⸻
撤退路、喪失。
帰路喰らい系存在を確認。
入口反応、複数偽装後に消失。
物理帰路、魔力帰路、死者流路、すべて不明瞭。
結論:
現時点で自力撤退は極めて困難。
⸻
その一文を書いた時、マルクの顔から色が消えた。
調査隊は、帰るために入った。
記録を持ち帰るために入った。
その帰る道が、失われた。
ベルグが双斧を構える。
怒りを押し殺し、前を見る。
「なら、斬って作るしかねえな」
アレクも剣を構えた。
「そうだ」
ネイザが氷柱から降りる。
「落武者を倒せば、戻るかもしれない」
リンドが首を横に振る。
「かもしれない、だ」
トーマが薬瓶を握る。
「でも、やるしかない」
エリシアの杖に氷が走る。
「やるなら、早く」
軍帰路喰らいの落武者が、霧の奥で刃を構えた。
その背後では、湿骨軍列の骨音が再び近づいている。
さらに上では、ふぁさ、と羽音がした。
ハイハネの霧。
カゲヌイの影。
戻り水の床。
帰路を失った人間たちを、迷宮が囲んでいく。
マルクは記録板を握りしめた。
カルムの血が、まだ乾いていない。
アレクは白銀の剣を上げた。
「突破する」
その声は、仲間たちと調査隊へ向けられたものだった。
だが、霧の奥で見ているロードにも届いた。
白い部屋で、余は静かに言った。
「来い」
帰路を失った者が、どこまで進めるか。
それを見せてもらう。